幕間1 気晴らしという名の嘘
ここはリフリフル大陸の東に位置する、アルスリーア王国。
その第一王子であるナセド(十九歳)が、王城の廊下を歩いていた時のことである。
「ナセド様」
「今日もお美しいですわね」
王城の庭で彼のもとへ、甘ったるい声で言い寄る妃候補の貴族令嬢たちが群がっていた。彼女たちは皆、甘い言葉で媚びを売り、次期国王である彼に取り入ろうとする者ばかりだ。ナセドはそんな彼女たちに冷ややかな視線を向け、ただ軽くあしらうだけだった。
しかし、その中でもひときわ強く言い寄ってくる女性が一人いた。
現在、最も妃の座に近いと目されている令嬢、レーナ・アベット(十九歳)である。
腰までかかる美しい銀髪と黒く輝く瞳を持つ彼女は、胸元が大きく開いた白銀のフリルドレスを身に纏っていた。大胆なスリットから覗く足元は、白いリボンがあしらわれた薄い水色のヒールで飾られており、その美貌と色香をこれ見よがしにアピールしている。
アベット公爵家は主に装飾品を扱う有力な家系であり、王家にも様々な品を納入しているため、ナセドとしてもむげにはできない存在だった。
「ナセド様、今日もお茶をしませんか?」
「断る。そんな暇はない」
「いいじゃないですか、お茶くらい。このわたくし……あなたの妃候補であるレーナのお誘いを受けてくださらないのですか?」
さらに一歩踏み込んで強く言い寄ってくるレーナに対し、ナセドは「はぁ」と小さくため息をついた。仕方なく「わかった」と頷くと、そのまま今日のお茶会が開かれることになってしまった。
こうしたうんざりするような日々が、ほぼ毎日続いていた。
しかし、何度お茶会を重ねても、レーナがナセドの心を解きほぐすことはなかった。むしろ、彼の表情は日増しに冷めていくばかりだった。
そしてある日のこと。
「今日もまたお茶会に誘われるかもしれない」と察したナセドは、窮屈な城の生活から逃れるように、護衛を連れずに身分や姿を隠し、城下町へとお忍びで赴いたのだった。
街並みや人の行き交う姿を見ながら歩くうち、彼の心は少しだけ落ち着きを取り戻していた。しかし、彼には次期国王になるという逃れられない運命がある。
彼はどうしても、今の貴族の女性たちを好きになれなかった。彼女たちが妃になりたがる最大の理由は、地位や権力への執着だ。
「はぁ……」
ナセドは小さくため息をつき、誰に聞こえるわけでもなくポツリと呟いた。
「……あと半年もすれば、私は次期国王として婚約者を決めなければならない。だが、どいつもこいつも私ではなく王冠しか見ていないように思える。一番ましなレーナでさえ、あの押しの強さだ。どうにも好きになれん」
少し歩いた先に人の少ない木製のベンチを見つけると、ナセドはどっと疲れた様子でそこに腰を下ろした。
それから数十分。何もせず、ただじっと時間をやり過ごしていた時、不意にナセドの前を、桃色の髪をした一人の娘が慌ただしく走り去っていった。
パタパタと、茶色い薄手の革靴で軽い足音を立てながら。
「あっ、……」
その姿を目にした瞬間、ナセドは無意識のうちにベンチから立ち上がっていた。あんなにも貴族の女性たちに無関心だった自分が、ただの平民の娘に目を奪われたのだ。
(なぜだろう。すれ違っただけの見ず知らずの娘だというのに、その一生懸命な横顔にひどく惹きつけられた。欲にまみれた貴族令嬢たちとは違う、何か澄んだ雰囲気を纏っている……)
本来であれば、一国の王子が身元も知らぬ娘の後をつけるなど、するべき振る舞いではない。だが――。
「……少しだけ、後を追ってみるか」
理由のわからない衝動に背中を押されるように、ナセドは娘が走り去った方向へと足を踏み出した。
それから数分後。少し離れて後を追ううち、彼女はある小さな店の中へと入っていく。
「……」
ナセドは店に近づき、入り口に掲げられた看板を見上げた。
「リィベロ。レストランか」
そうポツリと呟き、ナセドはすぐには中へ入らず、外のガラス窓越しにそっと店内の様子を覗き込んだ。
『いらっしゃいませ』
『レレナ、次お願い』
『はい』
厨房から料理を受け取り、真剣な顔つきで忙しく立ち回る桃色の髪の娘。彼女は客のテーブルへ行くと、パッと花が咲くような柔らかな笑顔を向けて料理を置いていた。
「あの子は……レレナ、というのか」
やはり、城にいる貴族の令嬢たちとは違う。彼女が客に向けるあの飾らない笑顔は、王宮のどこを探しても見つからないものだった。窓ガラス越しにじっと見つめながら、ナセドは心の中でそう確信した。
すると、また王城でのうんざりするような記憶が蘇ってくる。
『ナセド様』
『今日もお美しいですわ。ぜひ、私とお茶をいたしませんか』
『ナセド様、私と……』
王冠狙いで自分に言い寄ってくる、欲深い令嬢たちの姿が目に浮かぶ。しかし、目の前で汗を流してひたむきに働くこの娘は、あの連中とは何もかもが決定的に違っていた。
ナセドの心は、すでに真っ直ぐ彼女の方へと向いていた。
それからというもの、彼は彼女の姿を見るためだけに、毎日身分を隠してあの店へと足を運ぶようになった。彼女の懸命に働く姿を見るたびに、ナセドの凍りついていた心は温かく解け、胸が躍るのを感じたのだ。
そして――運命の夕暮れが訪れる。
いつものようにナセドは、店の外からガラス窓越しに、レレナが働く姿を見つめていた。その時だった。
「やめてください」
店内から強い拒絶の声が響く。見れば、テーブル席に座っていた中年の男が、レレナの身体にしつこく腕を回していた。
そのやり取りを見ていたナセドの顔に、一瞬で緊迫した色が走る。(大丈夫だろうか)と心配になり、彼は足音も、扉の音も立てずに素早く店の中へと滑り込んだ。
「うるさいな。俺は客だぞ」
ナセドの悪い予感は的中した。激昂した男が、手に持ったグラスを彼女に向けて振り上げる。彼女は思わず目を瞑り、咄嗟に両手で顔を庇おうとした。
その瞬間、ナセドは無意識のうちに身体を動かしていた。レレナが怪我をする前に、男の腕をガシッと力強く掴み取ってその動きを止める。
「やめろ。その子に怪我をさせる気か」
低く、だが有無を言わせぬ威圧感を込めて男に言い放つ。
危機を脱したレレナはゆっくりと目を開け、フードに隠されたナセドの顔を、驚きと不思議そうな色が浮かぶ、キラキラと輝く黄色い瞳で覗き込もうとしていた。
「なんだ、お前は」
男が怒鳴りながら睨みつけてくる。ナセドは正体を隠したままでいるつもりだったが、(はぁ……)と心の中でため息をつき、仕方なくゆっくりとフードを外した。
その瞬間、店内は一瞬にして凍りついた。レレナを含む全員が驚きで言葉を失い、騒ぐ者など誰もいなかった。
ナセドは彼女をちらりと見やりながら、こう言った。
「……お忍びですこし立ち寄ったつもりだったが、バレてしまっては仕方がない」
嘘である。本当はずっと、彼女をガラス越しに見ていたのだ。毎日あのひたむきに働く姿を見るうちに、どうしようもなく彼女のことが好きになっていた。媚を売る貴族令嬢や押しの強いレーナよりも、平民の娘であるレレナに。だが、一国の王子としてそんなことは口が裂けても言えなかった。
酔いが覚めた中年客は、ナセドやレレナたちに平謝りし、持っていたグラスをテーブルに置くと逃げるように店を出て行った。
扉が閉まり、しばしの沈黙の後。ナセドは申し訳なさそうな顔でレレナを見つめ、「騒がせた。すまない」と告げた。
すると、レレナはナセドへふっと優しい笑顔を向けた。
「いいえ。助けていただきありがとうございます、殿下」
そう言って深く頭を下げる彼女の姿を見て、ナセドもまた少しだけ頬が熱くなるのを感じた。だが、すぐにいつもの涼しい顔へと戻り、左手を軽く振ってこう言った。
「礼には及ばない。君が無事であればそれでいい」
その言葉を聞いたレレナが、顔を伏せたまま耳まで赤く染めるのを、ナセドは愛おしそうに見つめていた。
「あの……殿下は、どうしてここへ?」
赤くなった顔を伏せ、視線を落としたままそう尋ねてくるレレナに、ナセドは「外からずっと見ていた」などと言えるはずもなく、またしても『気晴らし』だと苦しい嘘を重ねるのだった。
そして、ナセドはフードを被り、「俺は帰る。またな」とレレナに優しく笑顔を向けて、レストランを後にした。
レストランを出たナセドは、ふと自分の頬が少しだけ熱を帯びていることに気がついた。
(あの子……とても可愛かったな)
もう二度と、今日のような輩に彼女を脅かさせはしない。毎日とはいかずとも、一刻も早く、またあの笑顔に会いに来よう。そう心に誓いながら、静かに歩き出した。
こうして、地位や権力に群がる貴族の女性たちに一切の興味を示さなかった次期国王は、ひたむきに働く平民の少女に、どうしようもなく惹かれていくのだった。
***
一時間ほどして、ナセドは王城へと戻った。すると、ここ最近、毎日のように行方をくらます彼を不審に思ったのか、衛兵が守る城の北門の前で、レーナが待ち構えていた。
「ナセド様、見つけましたわ。ここ最近、一体どちらへ行かれているのですか?」
レーナが愛おしさと心配の入り混じった顔で、コツコツとヒールを鳴らし、駆け寄ってきた。ナセドは真顔のまま、冷たく言い放つ。
「なんでもない。ただの気晴らしで城を出ていただけだ」
「そうですか。なら、これから私とお茶会を——」
パッと目を輝かせて誘おうとするレーナの言葉を遮り、ナセドは冷ややかな視線を向けた。
「悪いが、今日は疲れている。お茶会ならまた今度な」
それだけを告げると、彼は足早にその場を後にした。「おかえりなさいませ、ナセド殿下」と敬礼する衛兵たちに軽く頷き返し、そのまま門の奥へと消えていった。
すると、いつもと違うナセドの様子に違和感を覚えたレーナは、彼の背中をじっと見つめながらポツリと呟いた。
「いつもなら、強引にお誘いすれば渋々でも受けてくださるのに……。あんなにも冷たくあしらわれるなんて。……それに、あの横顔。まるで、特別な誰かに会ってきたような、そんな顔をしていましたわ」
腑に落ちない様子でそう推測しながらも、レーナはひとまず今日のところは諦め、そのまま王城の北、貴族街に構える自らの屋敷へと帰っていくのだった。
一方で、レーナと別れたナセドは自室へと戻り、白い天蓋付きの豪華なベッドに身を横たえ、静かに目を閉じた。
(目を閉じても、やはりあの子の笑顔が浮かんでくる……。だが、彼女は平民だ)
次期国王である自分が、平民の娘に恋をするなど許されるはずがない。ましてや、妃に迎えることなど夢のまた夢の話である。頭ではそう痛いほど理解していた。
――けれど、ナセドの胸の内はすでに、あの柔らかな笑顔の彼女でいっぱいだった。
今の自分にできるのは、ただ遠くから見守ること。本当に、それしかできなかった。




