第2‐1話『妄想依存少女の平穏とした学園生活の終わり』
あまりにも長くなったので二話に分割して投稿します。
……あぁ、学校に行きたくない。
四月も半ば。新学年に進級して、まだ一週間しか経っていないというのに、私は今、最高に不登校気分である。
昨夜、唐突に降った雨のせいで、阿見坂の下の通り沿いに並ぶ桜はだいぶ花を落としてしまった。道端の水たまりには花びらがいくつも張りつき、春の残骸みたいに沈んでいる。それを登校していく生徒たちが靴底で踏み散らしていくのを見ているだけで、なんだか気分まで滅入ってくる。可憐だった花びらが、泥と靴底に揉まれて無残に潰れていく様子は、今の私の心境にはやけに似合っていた。
空はそんな私の気分とは正反対の、雲一つない快晴で、春らしい透き通るような青がどこまでも広がっている。春だというのに日差しは妙に強く、夏みたいな陽光が容赦なく降り注いでくる。その明るさが、かえって今の私にはつらかった。
……あぁ、学校に行きたくない。マジで。
知っているかもしれないが、もう一度自己紹介しておこう。私の名前は宮前夢路である。どこにでもいる普通の女子高生だ。私は茨城県阿見市に住んでいる。阿見町が市に変わったのは、私がまだ小学生だった頃だ。もっとも、町が市に変わったからといって一般市民の生活に劇的な変化が起きるわけでもない。少なくとも私には、今日までその違いを実感したことはないし、今後もたぶんないのだろう。
私が通っているのは、私立霞ケ浦高等学校。この辺りでは、いい意味でも悪い意味でもそれなりに名の知られた私立高校である。私はこの春、二年に進級したばかりだ。
そして、私がこの学校を選んだ理由は、実に単純で短絡的だった。そこそこの偏差値で、家から近い。ただそれだけである。どこぞのラノベ主人公みたいな理由だ。家を出て阿見坂を下り、国道125号線を土浦方面へ少し進めば着く。自転車で十分とかからない。
とにかく近い、というのが重要なのだ。
もちろん偏差値も、私の学力でどうにか手が届く範囲ではあった。だが、なにより通学時間が短いというのは、それだけで十分すぎる魅力だった。朝から無駄な体力は使いたくないし、時間だって余裕をもって使える。
……もっとも、この際、その“近さ”が問題になることもあるのだと、私は改めて思い知っていた。
今、私は十六年の生涯の中でも最大級に厄介な問題を抱えている。いや、正確には先週の金曜からずっと抱え込んだまま、どうにも処理できずにいる。そのせいで、気持ちは完全に不登校状態だ。本気で学校を休みたい。顔を合わせたくないし、誰にも会いたくない。
なにより、今は彼にだけは会いたくない。
けれど家から学校までが近すぎるせいで、そういう逃避願望に浸る暇もなく、現実は容赦なく私を校門の前まで運んできてしまう。高校に進学してから初めて、心の底から学校に行きたくないと思っている。
いや、正確には、学校なんてだいたいいつだって面倒だし、行かずに済むならその方がいいと思っているのだけれど、今日ほど休んでしまいたいと思った朝はない。
それなのに、あっという間に校門が見えてきてしまうのだから世知辛い。
校内は、そんな私の気分とは無関係に、いつも通りの時間で動いている。土浦駅方面から来る路線バスや学校のスクールバスが着いたのだろう、正門のあたりから校舎へ向かう通りには、すでに大勢の生徒たちが流れ込んでいた。総合体育館の脇を抜けるあたりも、登校してくる生徒たちで朝から賑やかだ。新入生も、進級したばかりの上級生たちも、それぞれ新年度の空気に浮き足立っているのか、ざわめきは途切れることなく続いていた。
私は生徒たちが行き交う校門を抜けると、総合体育館のほうを横目に見ながら足早に進み、自転車置き場に停車すると、できるだけ人目を避けるようにして校舎へ向かった。進級してからまだ一週間も経っていないというのに、これほど登校したくないと思ったことはない。
そんな中を、私はなるべく誰とも目を合わせないようにして、ひたすら足早に自分の教室を目指した。
もっとも、教室へ逃げ込んだところで、問題の張本人は同じクラスにいる。結局、あの狭くて逃げ場のない空間で顔を合わせることになるのだから、今さら人目を気にしたところでどうにもならない。
そう考えているうちに、だんだん何をそんなに気にしているのか自分でも馬鹿らしくなってきて、最後にはもうどうでもいいような気さえしてきた。
……いや、やっぱりどうでもよくない。教室に行きたくない。ものすごく行きたくない。
なぜこれほどまでに気分が沈んでいるのか。そんなもの、考えるまでもなくわかっている。
原因は、先週最後の放課後に起きた、あの出来事だ。夕焼けに染まる教室の中、彼と二人きりになったあの場面が、何度も何度も脳内でリフレインする。あのとき彼が私に告げた、あまりにも衝撃的な言葉は、きっと一生忘れられないだろう。
あれは夢でも妄想でもない。紛れもない現実だった。
しかも厄介なことに、その現実は土曜と日曜の二日間が過ぎたくらいでは薄れもせず、脳内にべったりと張りついたまま剥がれてくれない。
私はこの週末のあいだ、今日という日が来ないことを切に願っていた。けれど時間は無情で、私は諦観とともに今日の朝を迎えることになったのである。
それにしても、やっぱり気が重い。まるで両足に鉄球でも括りつけられているかのように、足取りが重い。自転車置き場から校舎までの距離など大したことはないはずなのに、今の私には地平線の彼方にでもあるかのように遠く感じられた。そして、その向こうには、昨日までの平凡な日常とはまるで違う、まったく新しい面倒が待ち構えている。
私がこんなにも気が滅入るほど悩んでいるというのに、何の悩みもなさそうな顔で普通に登校している周囲の生徒たちが少し恨めしい。
ああ、本当に行きたくない。なによりも、彼に会いたくない。
……にしても、なんだろう。
さっきから、校舎へと続く短い通りを行き交う生徒たちの視線が妙に気になる。なんだか、こそこそと覗き見られているような気がするのは気のせいだろうか。もしかして私、変な表情をして歩いていた?
何かと妄想に浸っているときは百面相をしているらしく、以前から友人たちには、考えていることがすぐ顔に出ると言われていたっけ。注意しなければ。
ただでさえクラス内では、ぼっちの変人みたいな扱いを受けているのだ。それをクラスの外にまで拡大されたら、私の安泰な学園生活が崩壊してしまう。
……あぁ、でも、やっぱり、彼に会いたくない。
もう嫌だ。
い~や~だ~。お家に帰りたい。部屋に引きこもって、ひとまずPCの電源を入れて、夕方まで好きな動画投稿者の動画を見るか、春アニメの全タイトルを確認するか、スマホゲームのイベントを消化しながら時間を潰して、そのあとは眠くなるまで漫画を読んでいたい。
ああ、そんな怠惰な日々を、一週間くらい過ごして現実逃避していたい。土日のあいだ、苦しみ抜いて悩み続けていたせいか、心も体もすっかり疲弊しきっている。とてもじゃないが、学校へ行ける状態ではない。
何より彼と会いたくない。ああぁぁ、マジで学校に行きたくない。
「……帰るか」
正直、心が折れた。もうこれ以上のストレスに、私の精神が耐えられそうにない。さっさと踵を返してこの場から逃げ出し、安らぎの我が家へ逃避しよう――そう考えた、その瞬間だった。
「おっす、夢路!」
突然、背中が破裂したかのような衝撃に襲われた。何が起きたのか確認する間もなく、じんじんと熱を帯びた痛みが背中いっぱいに広がり、私はその場で動きを止める。あまりの痛みに悶絶しかけながらも、背後から強かに背中を叩かれたのだと理解した。
そして、私に対してそんな野蛮な真似をする人物など、脳内検索をかけるまでもなく一人しかいない。
今ごろ私の背中には、時季外れの紅葉みたいな手形が綺麗に張りついていることだろう。そう思うだけで、痛みとともに怒りがふつふつと込み上げてくる。
「何よ、大袈裟ね。そんなに痛がるほど強くやってないわよ」
こちらは背中が痛んでいるのに、痛みに耐えている、そのストレスなのに、その悪びれた様子のない声が、さらに私の怒りに油を注いだ。
私は勢いよく振り返り、目つきを鋭くして相手を睨み上げる。そこには案の定、陰キャオタクにとっての不倶戴天の敵である陽キャギャルが、この世の主役は自分だと言わんばかりに、偉そうに立っていた。
背中の痛みに煽られた激情のまま、私はそいつに向かって怒声を叩きつける。
「アンタみたいなゴリラの手加減ほど当てにならないものはない!」
途端、ギャルは無言で私の脳天に拳骨を叩き落とした。私より頭二つ分は高い長身から振り下ろされる一撃は、あまりにも速すぎて避けることも受けることもできない。頭蓋が割れたのではないかと思うほどの衝撃が脳天を直撃した。
「イッッタァ!」
「誰がゴリラだ、コラ」
同じ女から発せられたとは思えない、ドスの利いた低い声だった。どこぞのヤクザ映画に出てくる女組長か何かかと思うほどの迫力である。
「な、なんでもかんでも、そ、そうやってすぐ暴力に訴えないでよ!」
「何よ、軽くやっただけでしょうが。アンタがなんでもすぐ大袈裟に騒ぎすぎなのよ」
「私はアンタみたいに、男をとっかえひっかえして遊んでる年中発情期の腐れビッチギャルとは違って、清純乙女なの! 飴細工みたいに繊細にできてるんだから、もっと優しく丁寧に、敬意をもって接しなさいよ! このクソビッチが!」
いくらかは溜飲が下がった。我ながら見事なまでの罵詈雑言であり、言い放った瞬間、勝利者だけが味わえる美酒に酔ったような快感すら覚えた。
だが、そんな爽快感など長くは続かない。痛みと怒りと苛立ちに任せて感情をぶちまけた言動に、ろくな結果が待っていないことくらい、私だって知っている。
そして案の定、言い終えた瞬間、私は弱者の無力さを嫌というほど思い知らされることになった。逃げる暇など一秒たりとも与えられない。
ギャルは私が言い終えるや否や、素早い動きで私の両頬を抓り上げ、そのまま容赦なく引っ張った。
「誰がビッチだって? さすがに今のは、お姉さんちょっと傷ついたな~。そんな生意気なお口は、ちゃんと矯正してあげないといけないわよねぇ?」
「――(頬を引っ張られているせいで口がまともに動かず、抗議のつもりが謎の言語にしかならなかった)」
ちなみに訳すと、私はこのとき「ちょっと、何すんのよ! クソビッチ!」と抗議したのである。
屈辱だ。この仕打ちは、まるきり親が子どもを叱るときのそれではないか。登校中の生徒たちが行き交う往来で、このような辱めを受けるとは、なんたる恥辱か。
だが、私は屈しない。何でもかんでも暴力で相手を従わせられると思っているような野蛮ギャルに、文明人たるオタクが屈服などしてたまるものか。不当な暴力に対しては、理知的かつ鋭利な言語をもって反撃するしかない。
「――(いい加減離しなさい、このクソビッチ、と私はあらん限りの声で再度抗議した。もっとも、実際に口から出たのはやはり聞き取り不能な謎の言語だったのだが)」
「んー? 今なんて言ったのかしら。全然聞き取れなかったんだけど……もしかして、またビッチとか言った? だとしたらいけないわねぇ。まだまだお仕置きが足りなかったかしら?」
そのクソビッチに、私は返事の代わりとばかりに中指を突き立ててやった。それを見たビッチは、冷ややかな笑みを浮かべたまま、さらに強い力で私の頬を引っ張り上げる。
この非道にして理不尽な仕打ちに、私がいかなる悲痛な苦鳴を上げたのか、いちいち記す必要もあるまい。
しかし、それでも私は屈するわけにはいかない。とりわけ、このクソビッチギャルにだけは屈服したくないのだ。
「ほらほら、何か言えるもんなら言ってみなさいよ? んー? やめてほしいなら、まず言うことあるでしょ? ほら、『ごめんなさい』って。ちゃーんと頭下げて、心を込めて謝ってみなさいよ。ほらほらほら」
そうしてこのクソビッチギャルは、私の頬を引っ張る力をさらに強めたのである。
「――(当然、このときの私は、恥辱に耐え、屈辱に屈することなく、苦痛に耐えて抵抗を貫いた)」
ギャル対オタク。時代がどう移ろおうと、この不毛なる対立は、どちらかが滅ぶまで終わらないのだ。
……さて、今さらではあるが、この慇懃無礼、暴虐無人、傲岸不遜、唯我独尊、まさしくオタクの天敵たるビッチギャルが何者なのかを紹介しておこう。
ギャルの名前は、乃木坂七瀬。彼女を知らない諸君に、その存在を一言で説明するならば――この表現を使うのは業腹だが――彼女は、ある意味では完璧な美少女である。
もっとも、それはあくまで一般的な評価にすぎない。私好みではない時点で、私の中での評価は自動的に一段落ちる。したがって、私の理想とする完璧美少女と比べれば、やはり及ばないのである。
……と、話がそれたので、乃木坂七瀬について本題に戻そう。
彼女の顔立ちは、鋭さの中に大人びた色気を滲ませた、やたらと人目を引く美貌の一言に尽きるだろう。校則など知ったことかと言わんばかりの明るい髪色に、耳元や指先を飾る華美な装飾品。その着崩した制服姿まで含めて、いかにもこのギャルの不遜さと我の強さを物語っていた。しかも背は高い。モデルみたいにすらりと伸びた手足に、出るところはしっかり出て、引っ込むべきところはきちんと引っ込んでいるという、世の多くの女子が理想としそうな反則じみた体型をしている。背筋をぴんと伸ばし、他人の視線など意にも介さず堂々と歩くその姿は、まさしく傲岸不遜そのものだ。腹立たしいことに、その我が道を行く立ち姿に、時折うっかり見惚れそうになることすらある。
だが、このギャルを前にしたとき、真っ先に目を引くのは顔ではない。やはり、そのスタイル、とりわけ胸部である。無駄に、実に無駄に蓄えられた脂肪の存在感が凄まじい。なのに、それ以外はすらりと細いのだから、いろいろと反則じみている。同年代である私と比べれば、もはや大人と子どもほどの格差を感じさせるレベルだ。あの男どもの劣情を無駄に刺激し、年中発情させてしまいそうな艶めいたスタイルは、このギャルの破廉恥さを実に雄弁に物語っている。そんなグラビアモデルじみた体型と、近寄りがたいほど派手で強い、不羈奔放とでも言うべき雰囲気もあってか、乃木坂七瀬は校内でも何かと目立つ有名人なのである。
要するに、見た目だけなら文句のつけようがない。性格と素行さえ除けば、だが。まぁ、私の好みは清楚で清純で可愛らしい美少女である。こんな派手で艶やかで、やたらとエロくて、そのくせ無駄にカッコいいギャルではない。
こうして向かい合っているだけで、両者の身体的特徴の差は嫌というほど突きつけられる。まるで毒沼の中を歩かされているかのような精神的ダメージを受ける時点で、このギャルと私が分かり合える余地などあるはずがない。
それに、私がこのギャルを敵視する理由は、見た目だけではない。
この女、見た目に反して頭もいい。テストでは常に上位五位以内に入る成績を叩き出し、教師どもですら、七瀬が軒並み破る校則違反を強く咎めることができずにいる。下手に口を出せば、もっともらしい理屈を並べて丸め込まれるのが関の山だ。
そもそもこの時代、校則などという古臭い規範そのものが形骸化しつつある。自由や個性が尊重される風潮の中で、教師側も強く縛ることができないのだ。まあ、その是非については今は置いておくとして。このギャルは運動神経まで抜群だ。身体を動かすのが好きなだけあって(下ネタではない)、その動きは運動部員すら上回る。そのたびに、胸元の二つの存在感がやけに主張してくるのが腹立たしいのだが。さらに社交性も高い。姉御肌で面倒見がよく、さっぱりした性格のくせに、妙に細やかな気遣いまでできる。男女問わず好かれるのも無理はない。
……要するに。
このギャルは、ある意味で完璧なる美少女なのだ。私が妄想する完璧なる美少女宮前夢路と同様に。
だからこそ、私のコンプレックスをこれでもかと刺激してくる。厄介で、うっとうしい存在だ。
ゆえに、このビッチギャルは私にとって不倶戴天の敵である。
そして――どんなことがあろうと、こいつにだけは負けるわけにはいかないのだ。
「――――(ビッチビッチビッチビッチ!)」
「本当に強情なんだから、さっさと謝りなさいよね」
「―――――(この時点で私の頬は限界まで引っ張られ、痛みで悲鳴を上げるしかなかった)」
「ん?」
突然、七瀬は私に対する不当極まりない暴力行為をぴたりと止め、抓り上げていた頬を解放した。私はじんじんと痛む頬を押さえながら、訝しげに七瀬を見上げる。
七瀬は数メートルほど離れた場所でコソコソと話している女子の集団を真っ直ぐ見つめていた。




