8.エドガーへ報告
屋敷へ戻る頃には、空は薄く茜色に染まり始めていた。森を抜ける道を歩きながら、ルークは泉の方を何度も何度も振り返った。まるで今の出来事が夢では無いと確認しているみたいに。
何度振り返ってもそこには、もう陰鬱な沼地はなく、爽やかな風に揺れる澄んだ水面が、静かに夕陽を映していた。
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フォルレイン伯爵邸へ戻ると、使用人たちが慌ただしく出迎えた。
「お嬢様!」
「ご無事で…!」
リシュアは少し困ったように微笑む。
「大丈夫よ、大袈裟ね。」
だが、ルークの表情を見た執事が眉をひそめた。
「ルーク、何かあったのですか」
問われたルークは、すぐには答えられなかった。
どう説明すればいいのかわからないし、高揚したせいか、異様なほど喉が渇いていて声が出なかった。
そもそも、亡霊、浄化、精霊、そして奇跡みたいな光…そんなものを、自分が口にしていいのかすらわからず、憚られた。
とは言えあれを“何もなかった”ことには当然できなかった。
「…旦那様に、ご報告を」
低い声でそう言うと、執事の表情も引き締まった。
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執務室は静かだった。
窓の外はうっすらと暗くなり始めていた。
エドガーは机の前に座ったまま、報告を聞いていた。
リシュアとノアは少し離れた場所に立っている。
そしてルークは、中央で膝をついていた。
「……以上です」
最後まで話し終えた時にルークは、背中に薄く汗をかいていた。
部屋に沈黙が落ちる。
エドガーはすぐには口を開かなかった。
ただ静かに、指先で机を軽く叩いている。
「…つまり」
低い声が響く。
「亡霊のようなものが現れ、リシュアが言葉を掛けたことで消えた」
「そして沼地は、本来の泉の姿へ戻った…と?」
「はい」
ルークは迷わず答える。
自分は確かに見たのだ。
エドガーは次にノアへ視線を向けた。
「ノア、お前も見たのか」
「…はい」
ノアは真っ直ぐ頷いた。
「最初はぼやけてたけど、シアが話しかけるほど、はっきり見えるようになりました」
「精霊も?」
「見えました」
短い沈黙。
エドガーは深く息を吐いた。
驚いている様子はない。
もともとこの地は精霊信仰があり、精霊の存在自体は皆信じていた。実際に感じ取れるものは聖職者以外ほぼ居ないとは言え、見えたとしてあり得ないことでは無い。今回はみえたどころの話ではなく、浄化のような作用を生み出した、となると…
「ルーク」
「はっ」
「この件を他言するな」
ルークの背筋が伸びる。
「理由はわかるな」
「……はい」
もし噂になれば、どうなるか分からない。
奇跡として崇められるか。
あるいは、恐れられるか。
利用しようとするものも出てくるだろう。
リシュアは幼く、自分の身を守れない。
まだ知られるべきでは無い。
エドガーは静かに椅子へ背を預ける。
その視線が、一瞬だけリシュアへ向いた。
観察するような目。
だが同時に、父親としての慈愛も確かにあった。
「リシュア」
「はい」
「体調に異変は」
リシュアは少し考える。
「……少し、前より見える感じがします」
「…見える?」
「空気とか、気配とか…」
うまく説明できない。
けれど確かに、世界の輪郭が少し変わった気がしていた。
エドガーは否定せず、ただ頷く。
「そうか」
その一言だけだった。
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報告が終わり、リシュアは先に部屋へ戻されることになった。扉が閉まり、室内に残ったのはエドガーとノアだけになる。
しばらく静寂が続いた。
そしてやがて、ノアが口を開く。
「……父様」
「なんだ」
ノアは拳を握る。
まだ子供の、小さな手だった。
けれどその瞳だけは真剣だった。
「俺、強くなりたい」
エドガーは黙って聞いている。
ノアは続けた。
「今日、わかったんだ」
「シアは、たぶんまた誰かを助けようとする」
迷いのない声だった。
「でも、俺は見てることしかできなかった」
悔しさが滲む。
沼地で、亡霊の前で、シアの目の前で何か起こった時、自分には何もできなかった。
「だから」
ノアは顔を上げる。
「シアを守れるくらい、強くなりたい」
部屋が静まり返る。
エドガーはしばらく何も言わなかった。
やがて静かに立ち上がる。
そしてノアの前まで歩いてくると、その小さな肩へ手を置いた。
「強さとは、力だけではない」
低い声だった。
「だが、それでも力は必要になる」
ノアは黙って聞いている。
エドガーはわずかに目を細めた。
「その覚悟がお前にあるなら、私も甘やかしはしない」
ノアの瞳が揺れる。
認められたのだと、わかった。
「…はい」
小さく、けれどはっきりと返事をする。
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その頃、自室へ戻ったリシュアは、窓辺に立っていた。夕暮れはすっかり夜へ変わり始めている。
ふわり、と風が吹いた。
その瞬間、窓の外を、小さな光が横切った。
「……あ」
——淡い緑の光。
花びらみたいにくるくると舞いながら、夜の庭を踊っている。よく見ると一つだけじゃない。
そこかしこに小さな光がいた。
まるで風に乗って遊ぶように、木々の間を跳ね回るように。
世界そのものが静かに息をしているみたいだった。
リシュアはそっと目を細める。
胸の奥が、少しだけ温かい。
怖くはなかったが、不思議な気持ちだった。
世界はずっと、こうだったのだろうか。
ただ自分が、見えるようになっただけなのだろうか。




