6.悲しみの沼
「ノア…その沼地へ、行こうと思うの」
リシュアがそう言うと、ノアは一瞬だけ眉を寄せた。
不安そうな顔だった。
けれど、止めなかった。
「…危ないかもしれないよ?」
「うん」
「それでも?」
リシュアは小さく頷く。
胸の奥が、ずっとざわついていた。
あの風はきっと、何かを伝えたがっている。
そしてその先で、誰かが泣いている気がした。
放っておけない。
その感覚だけは、はっきりしていた。
ノアは少し考え込むように黙ったあと、小さく息を吐いた。
「二人だけじゃ駄目だ」
「父様に言おう」
——
執務室には、昼の光が静かに差し込んでいた。
エドガーは机の上の書類へ視線を落としていたが、入室してきた二人を見ると手を止める。
「どうした」
リシュアは少し迷ってから口を開いた。
「お父様、お願いがあります」
その声に、エドガーは続きを促すように視線を向ける。
「敷地の外れの沼地へ行きたいんです」
ぴたり、と空気が止まった。
側に控えていた執事が僅かに目を見開く。
エドガーだけは表情を変えなかった。
「理由は」
低く落ち着いた声だった。
リシュアはぎゅっと指先を握る。
うまく説明できる気がしなかった。
亡霊がいる気がするなんて、普通ならおかしい。
それでも。
「……なにかに、助けを呼ばれてる気が…するんです」
静かな沈黙が落ちる。
否定されるかもしれないと思った。
けれどエドガーは、しばらく考えるように黙ったあと、ゆっくり口を開く。
「二人だけでは行かせない」
リシュアが顔を上げる。
「護衛をつける」
「その上で、危険だと判断した場合はすぐ戻る。いいな」
「……はい」
ノアが小さく息を吐いた。
許可が下りるとは思っていなかったのかもしれない。
エドガーは二人を見つめる。
その視線は厳しい。
けれど、その奥にあるのは拒絶ではなかった。
理解しようとする目だった。
「準備ができ次第向かってよい」
「ただし、必ず日が暮れる前には戻ってくるのだぞ」
その言葉に、リシュアは小さく頷いた。
⸻
沼地へ向かうのは、午後になってからだった。
同行することになった護衛は、若い騎士だった。
名前はルーク。
真面目そうな青年で、道中も周囲を警戒している。
だが内心では、“子供の気まぐれ”だと思っているのが何となく伝わってきた。
——フォルレイン伯爵家の令嬢が、妙な噂話に興味を持った。
その程度だと。
屋敷を離れ、森へ入る。
進むにつれ、空気が少しずつ変わっていった。
鳥の声が減った。
風が重い。
湿った土の匂いが濃くなる。
そして。
視界が開けた瞬間、ルークが足を止めた。
「……なんだ、ここは」
そこにあったのは、静かな沼地だった。
けれど、異様だった。
水面は濁り、空気が淀んでいる。
まるで長い間、締め切った部屋のような。
リシュアは胸元を押さえた。
——苦しい。
——悲しい。
感情が、流れ込んでくる。
「……っ」
ノアがすぐ隣へ寄る。
「シア」
「…いるわ」
その声に、ルークが顔を強張らせた。
「お嬢様?」
リシュアは沼の奥を見つめる。
そこだけ空気が歪んで見えた。
風が吹いた。
——優しく背を押すように。
——まるで、“ここだよ”と導くみたいに。
リシュアはゆっくり一歩前へ進んだその瞬間、水面が揺れた。
——ザワリ
何かが、そこに立っていた。
輪郭の曖昧な少女。
濡れた髪。
透けるような白い姿。
ルークが息を呑む。
「……ひっ」
腰が抜けそうになったのか、一歩後ろへ下がった。
けれど目は逸らせない。
少女はぽろぽろと、水みたいに涙を零しながら泣いていた。
怖いはずなのに、その姿は、どうしようもなく悲しかった。
「…見える」
ノアが小さく呟く。
最初はぼやけていた輪郭が、少しずつはっきりしていく。
リシュアが見ているからか、言葉を向けているからなのか…。確かに“そこにいる”と認められていくように姿が実体化して行く。
リシュアは少女へ近づいた。
怖くないわけじゃない。
でも。
それ以上に、この子を一人にしてはいけない気がした。
「……あなた、ずっとここにいたの?」
少女の肩が震える。
——流れ込んでくる。
乾いた大地、祈り、恵みの雨、歓声。
そして恐怖の目、化け物を見るみたいな視線。
——怖い。
——助けたかっただけなのに。
リシュアの胸がぎゅっと痛んだ。
「……そっか」
声が震える。
「あなたは、みんなを助けたかったんだね」
その瞬間、少女が初めて、顔を上げた。
涙で滲んだ瞳が、まっすぐリシュアを見る。
ルークが息を呑む。
美しい、と。
なぜかそう思ってしまった。
泣いている亡霊なのに。
恐ろしいはずなのに。
リシュアは少女へそっと手を伸ばす。
「もう、大丈夫だよ」
「ちゃんと見えてるから」
「あなたの優しい気持ち、ちゃんと見えているからね」
少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
そして次の瞬間、淡い光が、水面へ広がっていく。
少女の身体が、光の粒になってほどけていく。
まるで長い悪夢が終わるみたいに。
風が吹いた。
今度は、とても優しい風だった。
ルークはその場に立ち尽くしていた。
剣を握ることも忘れて。
ただ、胸がいっぱいになっていた。
得体の知れない亡霊を目の当たりにして、怖かった。
けれどそれ以上に、お嬢様の姿があまりにも、美しかった。
まるで、神聖な、聖女のようだ。
そう思った。




