5.風に呼ばれて
その日の夜、リシュアはなかなか眠れなかった。
亡霊が消えていった瞬間が、何度も頭の中に浮かぶ。
最後に感じた、あの穏やかな空気。
胸を締め付けていた悲しみが、静かにほどけていく感覚。
——あれは、一体何だったのだろう。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
さらり、とカーテンが揺れる。
リシュアはぼんやりとその音を聞いていたが、不意に違和感を覚えて顔を上げる。
風が、妙に心地いい。
春の夜にしては少し冷たいのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、どこか懐かしいような——優しく撫でられているような感覚がする。
「……?」
その時。
しゃら、と小さな音がした。
窓辺に吊るされた硝子飾りが揺れている。
風は強くない。
なのに、そこだけが静かに鳴った。
リシュアがそっと近づくと、ふわりと風が頬を撫でた。
まるで、“こっちだよ”と誘うみたいに。
けれど次の瞬間には、何事もなかったように静まってしまう。
「……気のせい、かな」
小さく呟いたところで、扉が軽く叩かれた。
「シア? まだ起きてる?」
ノアだった。
「うん」
入って、と返すと、ノアは少し眠そうな顔で部屋へ入ってくる。
「……なんか、風すごくない?」
リシュアは目を瞬いた。
「ノアも思った?」
「うん。変な感じ」
そう言いながら、ノアは窓を見る。
その瞬間。
ふわ、とまた風が吹いた。
カーテンが揺れ、硝子飾りが小さく鳴る。
ノアが眉をひそめた。
「……なんかさ」
「呼ばれてるみたいだね」
リシュアの胸が小さく跳ねた。
同じことを思った。
理由はわからない。
でも確かに、あの風には“意思”みたいなものがある気がした。
けれど怖くはない。
むしろ、どこか必死で。
何かを伝えたがっているような——そんな風だった。
⸻
翌朝。
リシュアとノアは、昨日と同じように庭を歩いていた。
すると不意に、ふわりと風が吹く。
長い銀色の髪がさらりと揺れた。
リシュアが顔を上げる。
風は、庭の奥へ流れていた。
まるで道を示すみたいに。
「……まただ」
ノアも気づいたらしい。
風は強くない。
けれど、歩き出すとまた吹く。
柔らかく背中を押すように。
止まると静まる。
二人は顔を見合わせた。
「……行ってみる?」
ノアが小さく聞く。
リシュアは少し迷ってから頷いた。
「うん」
二人は風の流れる方へ歩き始める。
庭の奥。
普段あまり通らない石畳の道。
さらに進むと、古い鉄柵が見えてきた。
その向こうは、フォルレイン家の敷地の外だ。
「お嬢様?」
不意に声がして、二人は振り返る。
庭師の老人が驚いた顔でこちらを見ていた。
「そんな奥へ、どうなさいました」
ノアが答える。
「ちょっと気になって」
老人は困ったように眉を下げた。
「……あまり、その先には近づかれませんよう」
「昔から、良くない場所だと言われておりますので」
リシュアの胸がざわつく。
「良くない場所?」
老人は少しだけ声を潜めた。
「敷地の外にはなるんですが…古い沼地があるんです」
「昔は綺麗な泉だったそうですが……今はもう、誰も近寄りません」
「妙な声を聞いたとか、具合が悪くなるとか……色々噂がありまして」
その瞬間。
ざわ、と風が吹いた。
まるで急かすみたいに。
リシュアは無意識に胸元を押さえる。
まただ。
昨日感じたものと似ている。
けれど今度は、もっと深くて、もっと重い。
——悲しい。
——苦しい。
——ずっと泣いているみたいな感情。
「……シア?」
ノアが心配そうに顔を覗き込む。
リシュアはゆっくり顔を上げた。
風がまた、奥へ流れていく。
まるで助けを求めているような感覚だった。
「ノア…その沼地へ、行こうと思うの。」




