4.かわらないもの
ノアはしばらく何も言わなかった。
ただ、リシュアの隣に座ったまま、消えていった場所を見つめている。
風が静かに草を揺らしていた。
さっきまでそこに“何か”がいたとは思えないほど、庭は穏やかだった。
「……シア」
ぽつりと、ノアが呼ぶ。
「うん」
「さっきの…亡霊みたいな…あれ、怖くなかったの?」
リシュアは少しだけ考える。
多分少し怖かった。
でも、それ以上に
「……悲しそうだったから」
答えると、ノアは静かに目を伏せた。
責めるような空気ではなかった。
むしろ、納得してしまったような顔だった。
「…シアって、昔からそうだよね」
「え?」
「困ってる人を放っておけない」
リシュアは少し驚く。
前世の記憶を思い出してから、自分は変わってしまったのだと思っていた。
けれどノアは、“昔から”と言った。
「……そうだった?」
「うん」
ノアは小さく笑う。
「泣いてる使用人の子に、黙ってお菓子持っていったり」
「怪我した庭師さんのところ行ったり」
「母様に見つかって、俺も一緒に怒られてた」
リシュアは目を瞬く。
ぼんやりと、幼い記憶が浮かぶ。
確かにそんなことがあった気がした。
前世の記憶に押されて薄くなっていた“リシュアとしての記憶”が、少しだけ戻ってくる。
「…あんまり覚えてない」
「俺は覚えてる」
ノアはそう言って、少しだけ空を見上げた。
「だから、さっきの見て」
「なんか……シアらしいって思ったんだ」
その言葉に、リシュアは小さく息を呑む。
“シアらしい”。
その響きが、胸の奥へ静かに落ちていく。
栞として生きていた頃、自分らしさなんて考えたこともなかった。
求められることをこなして、誰にも迷惑をかけないようにして、必要なことを処理して…
——それだけだった気がする。
でも今、ノアは自然に“シアらしい”と言った。
リシュアはゆっくり膝を抱える。
「…私、前世を思い出したことで今までの私から変わっちゃったと思ってた」
ノアが視線を向ける。
「なんか、変になったかもって思ってたの」
言いながら、自分でも少し苦笑してしまう。
でもノアは首を振った。
「確かに変わったところもあると思う」
「でも、シアはシアだよ」
あまりにも自然に言われて、リシュアは言葉を失った。
ノアは少し考えてから続ける。
「でも、たぶん前よりも苦しそうになった」
その言葉に、リシュアは静かに目を伏せる。
——私は苦しかったのかもしれない。
栞として生きていた時間は、苦しいと認識する暇もないまま、通り過ぎていっただけで。
「……そっか」
小さく呟く。
するとその時、不意に風が吹いた。
柔らかい風だった。
さっきまでとは違う。
胸を締め付けるような重さがない。
ただ静かに、何かがほどけたみたいな風。
リシュアはそっと顔を上げた。
さっきのあの場所には、もう何もいない。
けれど
——“ありがとう”
そんな気配が、一瞬だけした気がした。
「…?」
ノアが首を傾げる。
「どうしたの」
リシュアは少し迷ってから、小さく笑った。
「さっきの亡霊さん、多分もう楽になったみたい」




