3.誰かのかなしみ
朝の光は、やわらかかった。
カーテン越しに差し込む淡い光が、まだ完全に目覚めきっていない部屋の空気をゆっくりと温めている。
リシュアはベッドの上で小さく瞬きをした。
昨日より、少しだけ頭が軽い。
「シア、起きられる?」
扉の向こうからノアの声がした。
「うん…起きてる」
そう答えると、そっと顔を覗かせる。
同い年のはずなのに、こういう時のノアは少しだけ大人びて見えた。
「顔色、昨日よりいい」
「そう?」
「うん。昨日はずっと、考え込んでるような顔だった」
そう言われて、リシュアは少し視線を落とす。
——考え込んでいた。
前世のことも、この世界のことも。
ノアはそれ以上何も言わず、そっと部屋に入ってくる。
その距離感が、少しだけ心地よかった。
⸻
朝食の席は静かだった。
長いテーブルの向こう側に、エドガーが座っている。
その隣でミレイユが、パンを切り分けていた。
「今日は少し外の空気でも吸うといいわ」
ミレイユがそう言う。
「ずっと寝ていたでしょう?」
「…はい」
リシュアは小さく頷く。
エドガーは何も言わないが、時折こちらを見ているのがわかる。
観察に近い視線。
けれど心配が感じられ、全く不快ではなかった。
それは前世よりもずっと暖かな視線だった。
前世で人からの視線は、ただの業務の一部というか、確認作業のようなものだったから。
⸻
食事を終え、庭に出る。
石畳の小道、季節の花、少し冷たい風。
「シア」
ノアが隣を歩く。
「どこ行くの?」
「…特に決めてないわ」
「じゃあ、いつものところね」
それだけで通じるのが、少し不思議だった。
庭の奥、小さな東屋。
二人がよく過ごす場所だ。
そこへ向かう途中だった。
——ザッ。
音はしなかったのに、何かが“落ちた”気がした。
リシュアは足を止める。
「……?」
ノアが振り返る。
「どうしたの?」
「今…」
言葉にしようとしたけれど、できない。
ただ確かに、“感情”のようなものが流れ込んできた。
——置いていかれた。
——見てもらえなかった。
——わかってほしかったのに。
胸の奥がぎゅっと掴まれる。
「……っ」
リシュアは胸元を押さえた。
ノアの表情が変わる。
「シア?」
「……ごめん、今の…何か」
「何か?」
うまく言えない。
だが確かに、そこに“誰か”がいた感覚だけが残っている。
「…誰かの、気持ちみたいな」
ノアは黙り、少しだけ周囲を見る。
そして短く言った。
「とりあえず東屋に行こう」
⸻
東屋に着くと、風の音が少し遠のいた。
ノアは隣に座る。
そして少し間を置いてから言う。
「シア」
「うん」
「無理に説明しなくていい。でも、感じたことを教えて?」
リシュアは視線を落とす。
「……悲しかった」
「すごく、誰かが、…見てもらえなかったって」
ノアは何も言わない。
リシュアは自分の手を見つめる。
何に触れたわけでも無い、それなのに確かに、“誰かの悲しみ”が残っている気がした。
「…変、だよね」
小さく笑おうとして、できなかった。
ノアは少し考えてから言う。
「変じゃないと思う」
その一言だけが、静かに沈んだ。
⸻
再び、同じ場所へ向かい、リシュアはそこに立った。
「…いる」
ノアが息を呑む。
「さっきと同じ?」
「うん…今度は、さっきより近い場所…」
二人は並んで立つ。
そしてリシュアは目を閉じた。
胸の奥の残響を辿る。
——置いていかれた。
——届かなかった。
…何かが終わっていない。
「……あなたは」
声が自然に漏れる。
「そこにいるの?」
風が一瞬止まった。
空気が歪むと、そこに“何か”が重なった。
輪郭の曖昧な影。
人の形をしているが、崩れかけている。
リシュアの目には、それがはっきり見えた。
「……っ」
ノアが後ずさる。
「シア、それ……」
だがリシュアは見ていた。
そこから流れ込む感情を。
——置いていかれた。
——届かなかった。
…それは肉体が終わっても終わらない感情だった。
「……わかるわ」
気づけば、そう呟いていた。
ノアが振り返る。
「わかるって……?」
「…私も、そうだった」
影がわずかに揺れた。
リシュアは一歩前へ進む。
足は震えているが、それでも止まらない。
「終わってるのに、ここにいると」
「…ずっと苦しいままだと思うよ」
フッと影が崩れ始めた。
感情が一気に流れ込む。
悲しみ、後悔、届かなかった声…。
リシュアは息を詰める。
それでも目は閉じない。
ノアが動こうとする。
「シア、もう——」
リシュアは首を振る。
「大丈夫」
震えた声だったが、確かだった。
「……あなたのことを、今、見てるよ」
「…ちゃんと、見えてるよ。」
その瞬間、影が止まった。
そして静かに崩れ、光の粒のように消えていった。
穏やかな空気感が戻ってきた。
リシュアはその場に座り込みノアが駆け寄った。
「シア!」
「……うん」
リシュアはそっと呟いた。
「……消えたわ」
「今の…何なんだ」
「わからない」
だが、胸の奥の重さは少し違っていた。
痛みではなく、余韻。
ノアは言う。
「多分、危ないこと、したんだよ」
リシュアは少しだけ笑う。
「ごめんね」
「でも…放っておけなかった」
ノアは何も返さず、ただ隣に座った。




