21.はじめての護符
森へ通う日々が始まった。
最初の数日は、本当に雑用ばかりだった。
薪割り。
水汲み。
薬草運び。
庭の手入れ。
ルークは毎朝別荘を出ると、森の奥にあるグランの家へ向かう。そして黙々と働いた。
「修行ではないのですか」
ある日とうとう聞けば、
「生きとる場所が荒れてるやつに、感情なんぞ見えるか」
と返された。
正直よくわからなかった。
だがルークは黙って頷いた。
⸻
昼間、森の木陰で、グランが古びた紙を机へ広げる。
そこには複雑な紋様が描かれていた。
「護符だ」
ルークは紙を覗き込む。
「これは……魔法陣、ですか?」
「違う」
グランは即答した。
「これは“形”だ」
「人の想いを留めるためのな」
ルークは眉を寄せる。
グランは木箱から小さな紙片を取り出した。
「護符ってのは、魔法の道具じゃねぇ」
「心を整えるためのもんだ」
「恐怖を押さえ込むんじゃなく、“ここへ戻る”ための目印みてぇなもんだな」
そう言って、グランは小さな紋様を描いてみせる。
不思議と、見ているだけで少し落ち着く線だった。
「お前も書け」
「はい」
ルークは真面目に筆を取った。
しかし、
「違う」
「線が固ぇ」
「力みすぎだ」
「はい……」
何枚書いても失敗した。
真っ直ぐすぎる。
硬すぎる。
余裕がない。
グランは呆れたようにため息を吐く。
「お前、“正しくやろう”としすぎだ」
ルークは顔を上げる。
「護符ってのはな」
「上手く描くもんじゃねぇ」
「自分の状態を映すもんだ」
その言葉を聞いて更にルークはわからなくなった。
けれど言われた通り必死で続けた。
⸻
別の日、ルークは森で小さな獣の死骸を見つけた。
鳥だった。
何かに襲われたのか、羽が血で汚れている。
ルークは思わず顔をしかめた。
すると隣にいたグランが言う。
「目ぇ逸らすな」
低い声だった。
「……」
「怖ぇなら怖ぇでいい」
「気持ち悪ぃならそれでいい」
「無かったことにするな」
ルークは静かに鳥を見る。
胸が重かった。
死は嫌だ。
怖い。
苦しい。
橋の下の女性を思い出す。
するとグランがぽつりと言った。
「悪霊は祓うべきだ、と思っとるか」
ルークは少し迷ってから頷いた。
「…はい…危険、ですから」
グランは鼻を鳴らした。
「苦しんどる奴を斬ってどうする」
ルークが目を見開く。
風が静かに森を抜けた。
「どうにもならなくなった時は、精霊に流してもらうこともある」
「だが、そりゃ最後だ」
グランは遠くの木々を見る。
「本来、人の感情は、自分で終わらせるもんだからな」
「悲しいなら悲しい」
「苦しいなら苦しい」
「ちゃんと向き合わにゃ、どこかへ澱み続ける」
ルークは静かにその言葉を聞いていた。
橋の下で泣いていた女性の姿が浮かぶ。
あの人は、きっとずっと苦しかったのだ。
誰にも届かないまま。
⸻
数日後。
ルークはまた護符を書いていた。
何枚も失敗した紙が机へ散らばっている。
グランはルークを眺めながら茶を飲んでいた。
「……力入りすぎだ」
「はい」
「お前はもっと肩の力抜け」
「努力します」
「努力して抜くもんでもねぇ」
難しかった。
だがその時、ふとルークは思い出す。
橋の下で、リシュアが泣きながら言っていた言葉。
『怖かったよね』
『助けてほしかったよね』
否定せず、ただ受け止める声。
ルークは小さく息を吐いた。
上手くやろうとするのを、少しだけやめてみる。
怖かった。
悔しかった。
守れなかった。
その気持ちを無理に消さず、ただ静かに認めながら筆を動かす。
さらり、と線が流れた。
その瞬間、ふわ…っと風が揺れる。
小さな光が、紙の上へ降りた。
ルークが息を呑む。
描き上がった護符は、今までのものよりずっと柔らかい線をしていた。
グランがちらりと見る。
沈黙。
やがて。
「……まあ、初めてにしちゃ上出来だ」
ぼそりと呟く。
ルークは目を見開いた。
それは初めて、グランから貰った“合格”みたいな言葉だった。
その周囲を、小さな風の精霊たちが嬉しそうに舞っていた。




