19.ルークの弟子入り
橋での一件があった次の日の朝、ルークはエドガーから一枚の紙を渡されていた。
古びた紙には、避暑地の外れにある森の名前と、簡単な地図だけが記されている。
「……ここに…例の方が、いらっしゃるんですね」
執務机へ向かったまま、エドガーは短く頷いた。
「ああ」
「ただし」
そこで一度、ペンを置く。
「かなり偏屈だ」
ルークは思わず瞬きをした。
「…旦那様がそう仰るほどですか」
「話が通じれば運が良いと思え」
真顔で返され、ルークはわずかに口元を引き締めた。
だが、それでも迷いはなかった。
橋の下で感じた恐怖は、今も身体へ残っている。
あの時、自分は何もできなかった。
剣を握っていても、護衛であっても、
ただ立ち尽くすことしかできなかった。
——なにも知らない
その事実が、何より悔しかった。
ルークは深く頭を下げる。
「行って参ります」
エドガーは再び書類へ視線を落としながら、静かに言った。
「無理に認めさせようとするな」
「……?」
「お前が何を見て、何を感じたのか。それをそのまま伝えろ」
低い声だった。
ルークはその言葉を胸に刻むように頷いた。
⸻
森は静かだった。
避暑地の賑わいから離れるにつれ、人の気配が消えていく。木々の間を吹き抜ける風は涼しく、遠くで水の音が聞こえた。
しばらく行くと小さな古い建物が見えてきた。
それは石造りの簡素な家だった。
庭には乾燥させた薬草が吊るされている。
ルークは扉を叩いた。
しばらくして、ギィと鈍い音を立てて扉が開く。
現れたのは、白髪混じりの老人だった。
年老いているはずなのに、妙に視線、そして気配が鋭い。
老人はルークを見るなり、眉を寄せる。
「……帰れ」
開口一番だった。
ルークは一瞬固まる。
「ご挨拶させてください!」
「興味がない」
バタン、と閉められそうになった扉を、ルークは咄嗟に押さえた。
「お待ちください!」
老人の目が細くなる。
「ガキが、何の用だ」
ルークは一瞬だけ言葉に詰まる。
けれどすぐに顔を上げた。
「教えていただきたいのです」
「呪い、怨霊、浄化について」
老人の視線が変わる。
わずかに空気が張り詰めた。
「……誰の紹介だ」
「アーリントン子爵家当主、エドガー・アーリントン様です」
その名前を聞き、老人は鼻を鳴らした。
「面倒なことを」
ぼそりと呟く。
だが今度は扉を閉めなかった。
老人はじろじろとルークを見る。
「お前、見たのか」
ルークの脳裏へ、あの橋の下の光景が蘇る。
黒い靄。
苦痛。
怒り。
泣いていた女性。
無意識に拳へ力が入った。
「……はい」
老人は低く問う。
「どう思った」
ルークは答える。
「危険でした」
即答だった。
あれは危険だった。
人を呑み込むような負の感情だった。
だが老人は無表情のまま言う。
「それだけか」
ルークが息を呑む。
「お前は何を見た」
低い声だった。
責めるでもなく、ただ確かめるような声。
ルークは言葉に詰まる。
頭の中で、あの女性の涙が浮かんだ。
——怖かった。
——苦しかった。
——生きたかった。
リシュアの声まで思い出した。
『怖かったよね』
『助けてほしかったよね』
胸の奥が鈍く痛む。
ルークはゆっくり息を吐いた。
「……とても…苦しんでいました」
その瞬間、老人の目が、わずかに細められた。
風が吹き、森が静かに揺れた。
その時ルークはふと気づく。
ここには精霊がほとんどいない。
避暑地やリシュアの周囲では、
風や光の精霊たちが自然と集まっていた。
だがこの場所は違う。
冷たいわけではない。
不気味なわけでもない。
ただ、静かだった。
驚くほどに。
老人はそんなルークを見て鼻を鳴らす。
「…お前もやつらが見えるんだな」
ルークは思わず目を見開いた。
「わかるのですか」
「少しくらいはな」
「私は、見えはしません…ですが少しだけ最近感じられるようになった気がします」
老人は面倒そうに頭を掻く。
「精霊っつうのは、騒がしい場所を好む」
「感情の動く場所にな」
ルークは静かに聞いていた。
老人は続ける。
「だが、ここは静かだ」
「無理に押さえ込んでもいねぇし、生まれた感情を無かったことにもしてねぇ、そのままよ」
「だからあいつらも騒がん」
その言葉の意味をルークは完全には理解できなかった。
けれど不思議と、嫌な感じはしなかった。
老人は深いため息を吐く。
「……まあいい」
「俺の名前はグランだ。来たきゃ勝手に来い」
「ただし、俺は優しく教える気はねぇぞ」
ルークの表情が変わる。
「グラン殿!よろしくお願いします!!」
グランは鬱陶しそうに手を振った。
「ならまず薪割りだ」
「……はい?」
「修行したいんだろうが」
真顔だった。
ルークはしばらく固まったあと、
「……承知しました」
と、真面目に頭を下げた。
その様子を見て、グランはわずかに口元を歪める。
まるで、少しだけ面白いものを見つけたみたいに。




