12.老人と亡霊
別荘へ来てから数日が過ぎた頃だった。
朝の空気はひんやりとしていて、湖の上には薄い霧が漂っている。
リシュアはテラスで温かい紅茶を飲みながら、ぼんやり庭を眺めていた。
最近は、精霊たちの光も自然に目へ入るようになっていた。
木々の間を踊る風の光。
花の周りで揺れる淡い緑。
水辺には青い雫みたいな小さな光。
静かな朝だった。
その時。
ガタン、と屋敷の裏手から大きな音がした。
「だから触るなと言っとるだろうが!」
怒鳴り声が響く。
リシュアは驚いて顔を上げた。
⸻
裏庭には荷馬車が止まっていた。
積まれているのは薪や木材だろうか。
その傍で、一人の老人が険しい顔をしていた。
白髪混じりの髭。
深い皺。
日に焼けた大きな手。
年老いてはいるが、身体つきはまだしっかりしている。
若い使用人が困った顔をしていた。
「すみません、手伝おうと思って……」
「余計なことをするな!」
老人は鋭く怒鳴る。
空気がぴりつく。
使用人はしゅんと肩を落とした。
周囲も気まずそうに視線を逸らしている。
リシュアは少し離れた場所で立ち止まった。
その瞬間。
——苦しい。
胸の奥へ、重たい感情が流れ込んでくる。
リシュアは小さく目を見開いた。
老人の後ろに、ぼんやりと人影が立っている。
それは若い男性だった。
けれど輪郭は曖昧で、霧みたいに揺らいでいる。
悲しそうな目だけが、はっきり見えた。
「……っ」
リシュアが息を呑むと、男性の亡霊がこちらを見る。
そして静かに、老人へ視線を向けた。
——違う。
そんな感情が流れ込んでくる。
——親父のせいじゃない。
でも、彼の想いは届いていない。
老人は険しい顔のまま、乱暴に木材を持ち上げた。
その手は、僅かに震えていた。
「シア?」
後ろから来たノアが、小さく声をかける。
リシュアは視線を逸らさないまま呟いた。
「…いる」
ノアも気づいたらしい。
老人の後ろを見て、小さく息を呑んだ。
以前より、ずっとはっきり見える。
亡霊はただ、苦しそうに老人を見つめていた。
⸻
その日の午後、リシュアは裏庭へ向かった。
老人は木箱の補修をしていた。
大きな手で釘を打ち込み、黙々と木材を削っている。
近づくと、不機嫌そうに顔を上げた。
「……なんだ、お嬢さん」
ぶっきらぼうな声だった。
リシュアは少し迷ってから、その近くへしゃがみ込む。
「さっき、怒ってたでしょう」
「……怒ってなどおらん」
「怒ってたよ」
即答すると、老人は眉をひそめた。
「最近の若いのは危なっかしい」
吐き捨てるように言う。
けれどその瞬間、リシュアの胸へ感情が流れ込んできた。
——危ない。
——怪我する。
——死んだらどうする。
リシュアは静かに老人を見る。
「……心配だったんですよね」
老人の手が止まった。
「は?」
「怪我したら危ないって思ったんでしょう?」
老人は顔をしかめる。
「当たり前だ」
「木材が当たれば人は簡単に死ぬ」
その声は怒鳴るみたいに大きかった。
でもリシュアにはわかった。
これは怒りじゃない。
この人は怖いのだ。
「……ずっと、怖いんですね」
カン、と。
老人の手から道具が滑り落ちた。
静寂が落ちる。
老人はゆっくりリシュアを見る。
「……何を知ったような口を」
低い声だった。
けれど、その奥は揺れていた。
リシュアは老人の後ろを見る。
青年の亡霊が、悲しそうに立っている。
ずっと…
ずっとここにいる。
老人を置いていけなくて。
「息子さん」
その瞬間、老人の顔色が変わった。
「……誰から聞いた」
「誰にも聞いてないわ」
リシュアは静かに答える。
「でも、ずっと苦しそうだから」
老人の呼吸が浅くなる。
ノアが少し緊張したようにリシュアを見る。
けれど止めなかった。
リシュアは続ける。
「荷物に触るなって怒ったのも」
「本当は怖かったからでしょう?」
「また誰かが怪我したらって」
老人は何も言わない。
けれど拳だけが震えていた。
「……儂が…急がせた」
掠れた声だった。
「…早く積めと言った」
「空が荒れそうだったから」
「急がねばならんと思った…」
リシュアは黙って聞いている。
「……あいつは、あの日、馬の様子がおかしいと言っていた」
「…なのに儂は」
老人の声が震える。
「だから……」
そこで言葉が途切れた。
長い沈黙のあと、リシュアは静かに言った。
「ずっと、自分を許せなかったんですね」
老人の顔が歪む。
今まで誰も、そこへ触れなかった。
「事故だった」
「仕方なかった」
「お前のせいじゃない」
そんな言葉ばかりだった。
でも本当に欲しかったのは、誰かの許しじゃない。
——苦しかったことを、誰かにわかってほしかった。
「……苦しかったですよね」
その瞬間。
老人の目から、ぽろりと涙が落ちた。
ふわり、と風が吹く。
リシュアの胸が温かくなる。
淡い光が、老人の後ろへ集まっていく。
亡霊だった青年の姿が、少しずつはっきり形を持ち始めた。
老人が息を呑む。
「……あ」
青年は静かに笑っていた。
責める顔ではなかった。
ただ、ずっと心配していたみたいな顔だった。
「……親父」
掠れるような声。
老人の肩が大きく震える。
「っ……ぁ……」
涙が次々溢れていく。
青年はゆっくり手を伸ばした。
その手が老人の肩へ触れた瞬間、淡い光が優しく広がる。
「……ちゃんと、伝わってるよ」
リシュアが静かに言う。
青年は小さく頷いた。
そして。
光は風へ溶けるように、
静かに消えていった。
あとに残ったのは、
柔らかな風の音だけだった。
老人はその場で顔を覆い、
声を殺して泣いていた。




