13.悲しい怨霊
避暑地へ来て1週間ほど経った頃には、リシュアたちも町の空気に少し慣れていた。
湖畔には小さな市場が並び、昼になると観光客や地元の人々で賑わう。
焼き菓子の甘い匂いに子供たちの笑い声。
気持ちよく流れる涼しい風。
穏やかな夏だった。
その日、リシュアとノアはミレイユに頼まれた買い物の帰り道を歩いていた。
少し後ろには、護衛として同行しているルークの姿もある。
「ミレイユ様、このジャム気に入りそうでしたね」
ルークが荷物を持ちながら言う。
「うん。あとこの焼き菓子も美味しそうだったの」
リシュアが小さく笑うと、ノアが紙袋を覗き込む。
「父様も食べるかな」
「父様、甘いもの苦手じゃない?」
「嫌いではなさそうだけど……」
そんな他愛ない会話をしていた時だった。
フッと風が止んだ。
リシュアの足が止まる。
「……シア?」
ノアが振り返る。
さっきまで心地よかった夏の空気が、急に冷たく感じた。
冷たい…違う。
寒くてどんよりとした雨空のような空気。
胸の奥へ、じわりと嫌な感覚が広がっていく。
周囲を漂っていた小さな精霊たちも、いつの間にか見えなくなっていた。
リシュアはゆっくり顔を上げる。
少し先には古い石橋が見えた。
橋の下には細い川が流れている。
昼間なのに、その辺りだけ妙に薄暗く見えた。
すると近くの店先にいた年配の女性が、三人の視線に気づいて口を開く。
「あまりその橋には近づかない方がいいよ」
ノアが眉を寄せた。
「どうして?」
女性は少し声を潜める。
「昔、あそこで若い娘さんが殺されたんだよ」
リシュアの胸がどくりと鳴った。
女性は続ける。
「物盗りだったらしいけどねぇ…刺されて、橋の下へ捨てられてたんだと」
「朝になって見つかった時は、大騒ぎだったらしいよ」
ルークの表情がわずかに険しくなる。
女性は苦笑するように言った。
「それからだよ。夜になると泣き声が聞こえるとか、あそこ通ると気分悪くなるとか」
「まぁ噂話だけどね、とにかく近寄らない方がいいよ」
そう言って女性は店の奥へ戻っていった。
けれどリシュアは橋から目が離せなかった。
感情が流れ込んでくる。
——寒い。
——痛い。
——怖い。
「……っ」
胸が締め付けられ、思わず胸元を押さえた。
ノアがすぐ隣へ寄る。
「シア」
その時、ルークが突然顔をしかめる。
「…なんだ…?」
額にじわりと汗が滲んでいる。
「ルーク?」
ノアが振り返る。
ルークは橋を見たまま、息を浅く吐いた。
「…気分が……」
橋の周囲だけ空気が重い。
まるで息が詰まるようで、本能的に危険だとわかった。
ルークは咄嗟に二人の前へ出る。
「お嬢様、あちらへは——」
その瞬間。
——なんで。
頭の奥へ声が響いた。
リシュアの瞳が揺れる。
——どうして私だけ。
——助けて。
——痛い。
涙が、ぽろりと落ちた。
「……いる」
ノアの顔が強張る。
橋の下から、冷たい気配が滲み出ている。
ルークは壁へ手をついた。
吐き気がする。
息苦しい。
身体が重い。
それなのに、リシュアは橋の方へ歩き出そうとしていた。
「お嬢様!!」
ルークが思わず声を荒げる。
「危険です、下がってください!」
けれどリシュアは、苦しそうに胸を押さえながらも首を振った。
「…一人に、できない」
その言葉に、ルークは息を呑む。
ノアは迷わなかった。
「シア!俺も一緒だ!」
そう言って、リシュアの隣へ立つ。
橋の下へ降りる石段は湿っていた。
ぽた…
ぽた…
水滴の音だけが響いていた。
空気が冷たい。
とても夏とは思えなかった。
そして、奥のほうに、それはいた。
最初は人の形ですらなく黒い霧状のもやだった。
——憎しみ。
——怒り。
——恐怖。
——苦しみ。
感情だけがそこに渦巻いているみたいだった。
ルークはその場で息を呑む。
黒い塊のような何かが見える。
本能が危険だと叫ぶ。
恐ろしさで足が震える。
二人を止めなければならないのはわかっているのに、立っているだけでもう精一杯だった。
「……っ」
リシュアの目から涙が溢れる。
感情や情景が流れ込んでくる。
——冷たい石。
——濡れた服。
——腹部の激痛。
——遠ざかる足音。
必死に助けを呼んだ。
でも誰も来なかった。
「……怖かったよね」
その瞬間、黒い靄が揺れた。
「痛かったよね」
少しずつ…少しずつ。
黒いもやの奥から、人の輪郭が見え始める。
長い髪、細い肩。
それは若い女性だった。
けれどその瞳は、深い絶望で濁っていた。
——憎い
——なんで、なんで…
「……なんで私だけって、思ったよね」
女性の表情が歪む。
——怒り。
——憎しみ。
——奪われた未来。
女性の感情が溢れ出してくる。
リシュアは泣きながら、それでも目を逸らさなかった。
「生きたかったよね」
女性の瞳が、大きく揺れる。
——悔しい
「助けてほしかったよね」
その瞬間だった。
女性の顔が歪む。
怒りではなく、ずっと押し殺していた苦しみが、一気に溢れ出したみたいだった。
女性の瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちている。
ルークは呆然とそれを見ていた。
あんなに恐ろしかったはずなのに、今見えているのは、苦しんでいる一人の女性だった。
リシュアも涙を流していた。
——痛い
——苦しい
今すぐ逃げ出したい…でも、この人をこんなに悲しい気持ちのまま、ここでまた一人にして良いとは思えなかった。
すると、ふわふわと。橋の陰から、小さな風の光が現れた。
水の光と木漏れ日みたいな淡い光も現れた。
今まで近づけなかった精霊たちが、恐る恐るだが集まってきた。
女性は涙を流しながら、その光たちを見る。
精霊たちは女性に無理に触れない。
だが、ただ静かに、手を差し伸べた。
—— もう大丈夫だよ。
—— ほら、一緒にいこう。
そんなふうに。
女性の肩が小さく震える。
戸惑いながらだが、ゆっくりと、震える手を伸ばした。
あたたかい光が女性の指先へ触れた瞬間、黒い靄が、さらさらと崩れていった。
それはまるで長い悪夢が終わっていくみたいだった。
女性は泣きながら、小さく笑った気がした。
——ありがとう。
風が、優しく吹き抜ける。
橋の下へ、ようやく夏の空気が戻ってきた。
ルークはその場へ座り込んだまま、しばらく動けなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、震える声で呟く。
「……あの人……」
——目の奥が熱い。
——怖かった。
——本当に怖かった。
けれど。
「……苦しかったんですね」
リシュアは小さく頷いた。




