#08 隣の芝生は青い
上野公園の近くにある、桜おすすめのその店は、まだ昼前だというのに若い女性やカップルたちで賑わっていた。
外に飾られたイタリアの国旗がそよ風にヒラヒラと揺れ、店の黒い壁に掛けられた大きな赤い看板には白い筆記体で“Buono”と書かれている。
店内はレンガの壁とウッド調の家具で統一され、おしゃれな雰囲気だった。
少しガヤガヤとうるさいのは、人気店の証だろうか。あまり広くない店内の席は、隣同士の距離が少し近く感じた。
和と洋が調和された料理はどれも綺麗で手をつけるのがもったいなかった。
それでも私は、彩りよく盛り付けられた前菜をバーニャカウダに付けて食べた。
「ヒナちゃんて初めて会ったのに、そんな感じしないね」
航平くんの笑う口元から、片方の八重歯がちらりと見えた。
「え、そうかな?」
「うん。人懐っこい笑顔がそう思わせるよ」
えへへ…と、私は笑ってみせた。
「ヒナちゃん何歳だっけ?23?24?」
「今年の5月で23になったよ。航平くんは桜と同い歳だよね?25?」
「あ、俺は早生まれだからまだ24」
アユムより四歳も年下だ…と思ってから、アユムを基準にし過ぎな自分に内心ハッとした、その時だった。
「あれ?もしかして、こないだのカフェの店員さん?」
聞き覚えのある声の方に顔を向けると、そこにはアユムの例のデート相手とアユムが、私たちの隣の席に案内されたみたいに立っていた。
「え……アユム……?」
私はアユムたちから目を離せず動揺を隠せない。
まるでカフェで再会したあの日のようだった。
「ヒナ……」
アユムは静かに驚いたように私を見ていた。
「わぁ、やっぱりそうですよね?偶然ですね!」
彼女は屈託のない笑顔を浮かべた綺麗な顔を私に向けると、細い体でテーブルの間をすり抜け、私の隣の椅子に座った。シトラスの爽やかないい匂いがふんわり香った。
アユムは航平くんの隣の椅子に座ると、この状況に動揺したのか、ずれた眼鏡のブリッジを指先で上げた。
いくら人気店とはいえ、まさかこんなところで会うなんて。
それも隣の席同士なんて。どれだけ世間は狭くて、神様は意地悪なんだろう。強く引かれ合う磁石みたいな再会を、私は呪った。
「ヒナちゃん、知り合い?」
ただでさえクリッとした航平くんの丸い目が、少し驚いているのかさらに丸くなっていた。
視界の端にアユムの姿があって、心が落ち着かない。
「あ……うん。バイトしてるカフェのお客さん」
私、嘘はついていない。
するとデート相手の彼女が航平くんに、にっこり笑いかけた。
「海堂ありさです。こっちはお友達の、アユムくん」
初めて知った彼女の名前よりも、“お友達のアユムくん”という言葉が私に安心を与えてくれた。
「佐々木航平っす。今日はヒナちゃんと、友達として初デートなんす」
「え、そうなんですね!おふたり、お似合いですよ」
ありささんがイタズラっぽく笑う。思いがけないことを言われ、航平くんは嬉しそうに笑ったが、私は曖昧な笑顔を浮かべた。
たしかに、金髪と茶髪に子供っぽい雰囲気の私たちはお似合いかもしれない。アユムとありささんがお似合いのように。
「私たちも今日は友達として2回目のデートで。国立西洋美術館に行くんです。モネとかゴッホを見たくて」
ありささんはイメージ通りの人だった。
アユムとありささんの美術館デート……それは、新鮮な野菜とバーニャカウダみたいに、よく合っていた。
「じゃあ…」と告げるようにありささんは口元に感じのいい笑みを浮かべると、軽く会釈をしてアユムの方を向き、メニューを広げた。
「何にしようか~?どれもおいしそうだね」
ふふふっ、なんてやっている。
アユムがメニューを覗き込むと彼女も顔を寄せ、ふたりの距離がぐっと近くなる。
それを見てしまった私の頭と心は乱れに乱れ、視界までやられそうだったので慌てて目を背けた。
目の前にある彩り豊かな前菜を見て、心を落ち着かせる。名前は分からないけど緑の葉っぱ、アスパラ、ブロッコリー。
目にいいとされている緑にすがるように、その野菜たちを密かに凝視した。
「あ、そうだ。桜ちゃんに聞いたけど、ヒナちゃん、彼氏と別れてまだ間もないんだってね?」
「え?」
私は顔を上げた。そしてほんの一瞬、目だけを動かしてアユムを見た。アユムはまだメニューを覗いていた。
「実は俺も彼女と別れたばかりでさ。て言っても5ヶ月前の話だけど。ヒナちゃんはどのくらい?」
「えっと……3ヶ月くらいかな」
「お待たせ致しました。海老とサーモンの和風バジルソースがけパスタでございます」
私が言い終わると同時に、店員が2皿のパスタを持ってきた。
海老とサーモンのオレンジ色とバジルの緑色が鮮やかなパスタだった。
バジルの香りがふわりと鼻をかすめた。
「3ヶ月ってめっちゃ最近じゃん。どのくらい付き合ったの?」
「3年半くらいだったかな……」
ちょっとだけバジルソースがかかった海老をフォークの先で弄んでから口へ運んだ。
海老の甘みがするすると舌の上にほどけていく。
「おお、長いね。え、どっちから別れ話?」
航平くんがパスタを食べようと視線を落とした隙に、私はさりげなくアユムを見た。
アユムは店員さんに注文しているところだった。10人の話を同時に聞ける聖徳太子みたいに器用なアユムのことだから、絶対、聞いていると思う。
「……彼の方から」
「え、マジ?ヒナちゃん振るなんて許せないなぁ。どんな男よ?」
視界の端にいるアユムは、こちらを全然気にしていない。一瞬、言葉に詰まりながらも答えた。
「……優しくて、大人っぽくて、しっかりした人かな」
「そんな人がなんで振るの」
私はパスタに視線を落とすと、手持ち無沙汰のようにフォークでパスタとバジルソースを混ぜた。
パスタがグリーンに染まっていく。
こんなふうに自然に、それもいとも簡単に、アユムと私もまたいっしょになれたらいいのに。ぼんやりそんなことを思った。
「……価値観が合わなかったの。彼には強い結婚願望があって、私にはまだなくて……」
「え、俺らもそう」
「え?」
私は思わず顔を上げた。
「俺らは逆だけどね。彼女に結婚せがまれてさ、でも俺は覚悟できなくて別れちゃった」
航平くんは悪びれることなく笑っていた。
そこは笑うところじゃないでしょ、と思ってしまった。私はアユムに悪くて笑うことなんて、できなかった。
「じゃあさ、俺とヒナちゃんは結婚願望ない者同士、似てるね。気、合うかもな」
その言葉に、体中の毛が逆立つくらいゾワッとした。それはそれで嫌だった。
自分と同じ、子供っぽすぎてまるで魅力を感じない。
視線をそっとアユムに移す。
クールな顔に楽しさをにじませて笑っていた。
自然と目がいってしまう長い指はグラスに添えられ、ジャケットの袖口からチラッと黒革ベルトのスタイリッシュな腕時計が見えた。
「このパスタ、めっちゃうまいね」
航平くんのその言葉にハッとして、視線を航平くんに戻した。
パスタを巻き付けるフォークを持った指は、小指と中指のゴツい指輪に引き寄せられて見てしまう。童顔と似合わない男らしい指をしていて、指輪のせいで指が少し苦しそうだった。
派手な色のパーカーの袖口から見えた黒の時計もゴツかった。
アユムと、全然違う。雰囲気も、話し方も、身につけているものも。
私はゆっくり目を伏せてパスタを食べた。
バジルソースの爽やかな渋みが口いっぱいに広がった。
「ねぇ、アユムくんの元カノってどんな人だったの?」
ありささんの無邪気な質問が私の耳にも届いた。アユムがなんて答えるのかドキドキして、私は視線を落としたまま、パスタをスプーンの上で巻いた。
「……少しワガママだけど守ってあげたくなるような子かな」
こんがり焼けたクッキーみたいに、私の心も焼けて熱くなった。
アユムに守られてたんだ、私……。
「へぇ~。なんかイメージ違うなぁ。年下?」
「5歳下。どうしようもないくらい子供だった」
グサッ。痛い。
痛みに喘ぐ私の隣で、ありささんが柔らかく笑った。
「アユムくんが年下の子に振り回されてるの想像するとおもしろい」
私は、アユムを振り回していたのかな。
ワガママを聞いてもらうだけ聞いてもらって、結婚ははぐらかして、最終的には結婚はできないって拒んだ。
それってもう“結婚するする詐欺”みたいなものだ。馬の目の前にニンジンをぶら下げて走らせるよりも、ずっと悪質でひどい。
「この後さ、動物園行こうか?俺、フラミンゴ見たい」
航平くんの子供みたいな笑顔につられて、私も笑顔で頷きながら、もう一度だけ、アユムの方を見た。
ありささんに夢中だ、と言わんばかりに彼女のことを真っ直ぐ見つめて話していた。
いつか復縁できたらいいな、なんてバカみたいに淡い期待を抱いていたけど、私が入り込む隙なんてどこにもなかった。




