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#60 バースデーイヴ



穏やかに季節は移ろいでいく。

桜はつぼみをつけ、満開を迎え、儚く散っていった。

新緑が芽吹き出し、色鮮やかな若葉たちが存在感を放つように初夏の日差しを浴びて輝いている。

そんなふうに自然はゆっくり変わっていくのに、私の日常は何一つ変わらないままだった。

正社員を気にしながらバイトに精を出し、アユムとは順調なのに結婚の返事をまだ伝えられていない。

仕事も恋も、あと一歩が踏み出せずにいた。

でもようやく、新しい自分に生まれ変わらなくちゃと奮い立った。

私の誕生日が明日に迫ってきたからだ。


数日前のこと。

「前日が日曜日だからその日にお祝いしたいんだけど、空いてる?」

というアユムの誘いに、私は目をきらきらと輝かせながら頷いた。

「じゃあ昼間は神宮外苑を歩いて、夜は麻布台の夜景が見えるレストランを予約するよ」

という言葉には、きゃー!なんていう歓声を飲み込みぴょんぴょん飛び跳ねて「ありがとう!」と満面の笑みで答えた。


だからこの日は、とっておきの服を着る。

ジルバイジルスチュアートのオフホワイトの半袖のツイードワンピース。

クローゼットの中でも一番のお気に入り。

ミニ丈だけど上品なデザインで、昼間のカジュアルなデートと夜景の見えるレストランをつなぐデートにはぴったりだと思う。

足元はベージュのヒールパンプスを履く。

バッグはお馴染み、COACHの白のキルティングバッグ。キティちゃんのキーホルダーを外して。



「わぁ!綺麗な緑!」


神宮外苑いちょう並木。

その入口に立つと、私は思わずそんな声を上げた。

五月半ばの景色は黄金色のいちょうではなく、目に優しい新緑に染まっていた。


「初夏の景色もいいもんだな」


手を繋いで隣を歩くアユムがいちょうの木を見上げる。

パリッとした襟付きの黒いシャツに、黒いジャケット。休日なのに仕事のできる大人の雰囲気をまとっている。

ちらりと見える黒いベルトの腕時計までがよく似合っていて、私がドキッとしていることなどきっとアユムは知らない。

でもそんなことを悟られたら恥ずかしいから、何食わぬ顔で口を開いた。


「もう初夏かぁ。明日が誕生日だなんて信じられないよ」


「23歳を終える感想は?」


「うーん……?アユムがどれだけ大切な存在か気づいた、大事な一年だったよ」


「それは嬉しいな。24歳のヒナにもそう言われたいよ」


「じゃあ頑張ってね」


アユムの顔を覗き込んで茶化すように笑って答えると、アユムは呆れたように笑った。


足はそのまま、並木道に佇むカフェへ向いた。

新緑に馴染む茶色いレンガ造りのそのカフェは、テラス席がある開放的な空間。若葉になった気分で初夏の爽やかな日差しをたっぷり浴びられそうだった。

秋にも訪れたことがあるけど、新緑というだけでカフェの雰囲気も違う気がした。


偶然、テラス席のいい席が空いていて座ることができた。

パスタセットとカフェラテを待つ間、並木道を行き交う人たちを頬杖をつきながら何気なく見ていると、アユムが切り出した。


「なぁ。ずっと思ってたことがあるんだけどさ」


「なに?」


「ヒナって五月よりも三月生まれっぽい名前だよな」


「あー」


私は思わず笑った。


「それ学生のころ友達にも言われたことあった」


「ヒナって名前聞いた時、勝手にひな祭りが連想されて、三月生まれなのかなって思った」


「そう。みんなそう言ってた。私も不思議で親に聞いたら、『17日生まれだからその数字の当て字よ』って言われたの」


私がそう言うと、アユムは顎に手を当ててふっと考える表情になった。


「……ああ、たしかにヒナって読めるな」


「ヒナって名前は気に入ってるけど、なんか適当だよね。もっとドラマチックな由来があるかと思ったのに。メイとかサツキとかも候補にあったみたい」


「へぇ。でもヒナはヒナって名前がしっくりくるな」


「そう?」


首を傾げると、アユムは頬杖をついて愛おしげに私を見てきた。

緑に染まった並木道をバックに、そんな姿も絵になって見惚れてしまうくらいかっこいい。

何か甘い言葉を期待してしまう私に、アユムは口元を緩めて言った。


「ああ。飛ぶのを怖がってる可愛いヒナ鳥ってかんじで」


……そういうことじゃないんだけど。

私は心の中で肩を落とした。


「なにそれ。子供扱いしてるでしょ」


むくれるとアユムはクスッと笑った。


「もうすぐ飛べるもん」


私は照れ隠しにそっぽを向いた。

視界の端に映るアユムは楽しそうにクスクス笑っていた。


おいしいランチを終えると、イチョウ並木を抜けて表参道までふらりと足をのばした。

車が行き交う大きな道路沿い。

その両脇にはケヤキが立ち並び、緑のわたあめみたいにふんわり茂った若葉が、ふわっと初夏の風に揺れている。

気になる雑貨屋を覗いたり、ショーウィンドウに飾られた夏服を眺めたり。

目的もなく歩いているのに楽しくて、砂時計の砂が落ちるみたいに時間はさらさら流れていく。


アユムといると、怖いくらい時間の流れが早い。

その時間に邪魔されず、アユムと私だけが動いている世界ならいいのに。

結婚すれば四六時中一緒にいて、そんなこと思わなくなるのだろうか。


歩き疲れた頃、通り沿いのカフェで冷たいアイスコーヒーを飲んだ。

いつもならシロップを二つ入れるけど、今日は一つにした。苦くて笑顔が消えそうになる。

こうやって少しずつ大人になっていくんだ。

ブラックコーヒーをおいしいと思えて、甘やかされなくても人生を歩いていけるような、そんな大人になっていく。

少しはアユムと釣り合うかもしれない。


「珍しいな。今日はシロップ一つ?」


「明日から24歳だからね。ちょっと大人になろうかなって思って」


沈殿するシロップをストローで混ぜながら胸を張って言ってみた。


「ヒナはそのままでいいのに」


アユムは少し目を細めた。

スマートなレンズの向こうの瞳は優しかった。


「え?なんで?」


「甘いものが好きで、天真爛漫で。そういうヒナが可愛くて、好きだから」


アユムは苦そうなブラックコーヒーに顔を歪めることなく自然に飲みながら、さらりと殺し文句を吐いた。

その姿はこの季節みたいにすごく爽やかで、私の心を簡単にさらっていった。

恥ずかしくてまともに視線を返せない。


「……じゃあやっぱりもう一つシロップ入れる」


にやける顔を抑えきれないまま、私はもうひとつのシロップに手を伸ばした。



空が夕暮れを知らせるみたいに、青色から優しいオレンジ色に変わり始めた。

それに気づいたのは骨董通りにあるセレクトショップから出たところだった。ふと時計を見ると、時刻は17時半過ぎ。

19時に予約してあるというレストランへ向かうことになり、大通りに出てタクシーを拾った。


麻布台ヒルズも華やかだった。

高層ビルに複雑な曲線を描く建築が街を彩り、その向こうには赤く光る東京タワーも見える。

華やかと言っても、少し落ち着いた大人の夜景というのだろうか。

静かに洗練された雰囲気だった。

東京の郊外に住む私の街と比べると、同じ東京なのに、別世界のように感じてしまう。

木々がライトアップされた外の広場を少し歩いてから、アユムの案内でレストランへ向かった。


33階。エレベーターの中で、耳がキンとなる。

レストランの入口横のブラウンの木目調の壁には〝Hills House Dining 33〟と描かれていた。

賑わう店内に足を踏み入れた瞬間、息を飲んだ。

思わず、足が止まる。

背の高い大きな窓から見えるパノラマ級の夜景。

煌々と光る東京タワーと煌めく都内の街並みが一望でき、その綺麗さに開いた口が塞がらない。


窓際の席に通される。夜の闇に浮かぶ東京タワーは迫力があって、こんなにも近くに見たのは初めてだった。


「綺麗……」


夜景から目を離せずにいると、不意にアユムの視線を感じた。


「この夜景をヒナに見せたかった」


夜景を背にしたアユムは、一段とかっこよく見えた。

この上品な夜景に溶け込んでいて、違和感がない。まるでアユムのためにあるみたいな景色だ。


「アユム、ここ来たことあるの?」


「ああ。仕事の関係で何度か」


「そうなんだ。じゃあアユムはもう見慣れてるね」


「いや。仕事で来るのと、好きな人と来るのは全然違うよ」


アユムは肩越しに振り返り夜景をちらりと見ると、私に視線を戻した。


「いっしょに見られて幸せだ」


心臓がトクンと静かに波打った。

これまで何度、アユムの優しさに触れてきただろう。

その度に心が温まってアユムに恋してきた。

きっと、この先も変わらない。

私はこれからも、何度だってアユムに恋をする。



料理も綺麗でおいしくて、ひと皿ごとに華があった。

どれも目新しくて運ばれてくるたびに、私は小さな歓声を上げた。

食事が終わると最後に、HAPPY BIRTHDAYと書かれたスイーツプレートが運ばれてきた。

アユムは誕生日だといつも、こんな嬉しいサプライズを用意してくれている。

胸がいっぱいになりながらフォークで突っついていると、視界に白いリボンがかかった青い小箱がスッと映り込んできた。

顔を上げると、アユムが優しい目元で私を見つめていた。


「誕生日おめでとう。気持ちだけど、プレゼント」


アユムと小箱を交互に見ながら、何度も瞬きをした。次第に顔が緩んでいく。


「ありがとう!」


弾む気持ちを抑えながら、手に取って蓋を開ける。


「え、これ……」


それは数ヶ月前、新宿御苑でデートをした帰りにデパートで見つけて心を奪われた、スワロフスキーのネックレスだった。


「欲しそうに見てたから。ヒナに似合うと思って」


「嬉しい……ありがとう!」


嬉しすぎて言葉が見つからず、ありきたりなお礼になってしまったけど、胸は今にも弾けそうで、顔には笑顔がこぼれた。


「アユム、付けて?」


甘えたように言うと、アユムは立ち上がり、ネックレスを手に取った。

私の後ろに回るアユムに合わせて、両手で髪をまとめて少し上に持ち上げた。アユムは首元にそっと手を近づけて、優しい手つきで付けてくれた。

うなじあたりに触れるアユムの手の感覚がくすぐったい。


「似合うな」


耳の近くに落ちる声。

後ろからネックレスを覗き込んできたアユムの顔が近くに現れて、心臓がもたない。


「あ、ありがとう……」


バッグから鏡を取り出して首元を映してみる。

素肌の上できらりと輝いている。ガラスの向こうに広がる夜景にも負けないくらい綺麗だった。いや、この夜景の一部を閉じ込めたみたいな煌めきがあった。


「大切にするね。アユム、大好き!」


アユムは一瞬、呆気にとられたように私を見つめ、それから照れたように笑った。


「ストレート過ぎて照れるな」


そんなアユムを見ていると、なんだかこっちまで照れてしまう。


「アユム」


名前を呼ぶと、アユムは照れたままの目を向けてくれた。


「今日は最高のバースデーイヴだったよ。本当にありがとう」


「喜んでもらえて、よかった」


23歳の終わりは穏やかで、忘れられない夜だった。


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