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59/61

#59 これからも、よろしく



怒涛の四連勤をこなす金曜日の仕事中は、だいぶ眠い。

普段は月火木金でシフトを組んでいて中休みの水曜日があるのだけど、今週はたまたま月曜日に休みを入れてしまい、旅行明けから仕事しないで済んだ代わりに、地獄の四連勤になってしまった。

月曜日から金曜日まで働く人を尊敬したくなる。

旅行の余韻はすっかり消えたけど、明日はアユムとデートの約束をしてあるから、それを活力にもうひと踏ん張りできそうな気がした。

壁際の汚れたテーブルを拭いていると、壁に貼られたポスターに目が止まった。


『一緒に働きませんか?正社員・アルバイト・パート募集中!』


思わず、手が止まる。

こんなポスター、今までここに貼ってあっただろうか。

私と同じ制服を着た男女六人が、揃って笑顔で写っている。働くことは楽しい!とアピールしているかのような笑顔だった。


〝正社員〟という文字から目が離せないでいると隣に置いてあるゴミ箱の袋を交換している店長に声をかけられた。


「あら、桜川さん。そのポスター気になるの?」


肩まである黒髪をオールバックにした低めのポニーテールは、一本の髪も乱れていない。

そのきっちりとした髪型は、店長の几帳面な性格そのものだった。

実際、店長は何事も丁寧にこなす。

分別しないで捨ててあるゴミを分別し直したり、洗い足りないグラスを磨き直したり。

私が洗ったグラスを、目の前でそっと洗い直されていた時の絶望感といったら……。


「こんなポスター貼ってありましたっけ?」


私は慌ててテーブルを拭きながら尋ねた。


「ええ、桜川さんが入った頃からずっと貼ってあったわよ。気づかなかった?」


「はい……」


全然見えていなかった。

なにしろ正社員に興味が湧いてきたのは最近のことだから。


「なに?社員になること興味あるの?」


店長は大きなゴミ袋の口を結びながら笑顔を向けてきた。


「……少し」


意外だったのか店長は少し目を丸くして、ふっと笑った。


「そうなのね。桜川さんだったら向いてると思うわよ」


「え?」


「一つ一つ丁寧に仕事をこなしてくれるし、お客様へも明るくて親切だし。のんびり屋さんで失敗もあるけど、それも桜川さんらしさよね」


知らないうちにそんなところを見てくれていたなんて。思いがけない言葉にゆっくりと顔が緩む。


「もちろん、すぐに返事をしなくていいのよ。興味があるならいつでも相談してちょうだい」


店長はゴミ袋を手にすると「じゃこれ捨ててくるわね」とバックヤードへ入っていった。


私はもう一度、壁に貼られたポスターへ目を向ける。

正社員になった私も、こんなに眩しい笑顔が浮かぶのだろうか。

いや、浮かぶのは眩しい笑顔じゃなくて毎日に疲れ切った目の下の隈だけかもしれない。

思わず苦笑がこぼれた。



昨日の仕事中はあんなに眠かったのに、アユムと会っていると、あくびの仕方を忘れるくらい眠気なんて感じなかった。


久しぶりに訪れた新宿御苑の空気は、喧騒に染まったものとは違って爽やかでおいしい気がした。

何度も吸い込みたくなる。風に乗って梅の花の香りもかすかに漂ってきた。

春の足音が聞こえてくるようだけど、頬を掠める風の冷たさに冬の名残を感じる。


ピンクベージュのトレンチコートを着てきて正解だった。部屋の窓から見えた暖かそうな春の日差しに惑わされて、少し厚手のニット一枚で来ようと思った。

でもテレビの天気予報で北風が吹くと聞いて慌ててコートを選び、それに似合いそうなSNIDELのグレーのリブニットを手に取った。

大きく開いたデコルテのラインに、白のフリルがあしらわれて同色の紐のリボンも飾られている。

黒のミニスカートと黒のロングブーツを合わせ、旅行にも持って行ったコーチの白のバッグを肩から下げたら春のフェミニンスタイルが完成した。


アユムも春らしい服装だった。

スリムな濃紺デニムにVネックの質の良さそうなアイボリーのニットを合わせ、黒のテーラードジャケットを羽織っていた。

相変わらず私の心を掴んでくるコーディネートに思わず見惚れてしまう。


「ん?どうした?」


緑に囲まれたカフェのテラス席。

暖かい日差しを浴びながら、アユムの一言でハッと我に返った。


「なんでもない。アユムに見惚れてただけ」


素直に白状すると、アユムは照れたように視線を逸らして笑った。


「そりゃどうも」


「ほんとだよ。アユムと会うと疲れが飛んじゃうんだから」


「俺もだよ」


隣に座るアユムは、指先で私の頬をイタズラにくすぐった。そんな触れ合いが心地いい。


「でもいつも元気そうなヒナから、疲れが飛んじゃうなんて言葉、珍しいな」


「今週は四連勤だったの。いつもは大抵、水曜日の中休みがあるんだけど。だからバイトとはいえ疲れちゃった」


えへへ、と笑う。


「毎日朝から夕方までバリバリ働くアユムってすごいよ。尊敬しちゃう」


アユムは照れくさそうに笑ってコーヒーを口に運んだ。


「やっぱり大変?」


「ああ。大変だよ。でもそれがもう当たり前っていうか。やりがいもあるし、楽しいこともあるから頑張れる」


そう言ったアユムの瞳に嘘は感じられなくて、正社員として働くことへの不安が少し消えた。


「そういえば就職の話、どうなった?」


アユムがふと思い出したように聞いてきた。


「まだ悩んでるよ」


私はそう答えてカフェモカを一口飲んだ。


「昨日ね、店内に求人のポスターが貼ってあるのに気づいたの。見てたら店長に、興味あったら相談してきてって言われたんだ」


アユムは静かに私の話を聞いていた。


「いい加減、フリーターを卒業しなきゃいけないかなーって思う。……もういろんなことから逃げてる自分は嫌なんだ」


アユムは甘やかすような優しい目で笑った。


「そっか。前に聞いた時はいろいろ心配して取り乱したけど。ヒナが決めたことなら、俺は応援するよ」


胸に迫ってくる優しさに頬が緩んだ。


「ありがとう。でもその前にするべきことがあるんだけどね」


それは、アユムへの結婚の返事だ。


「なんだよ?」


わからないらしい。よかった。


「……ダイエットとかお肌のお手入れとか」


「就職と関係ないだろ」


「毎日、出勤するんだよ?常に可愛くいないと、かっこいいお客さんにナンパされないじゃん」


レンズの奥の目が細められ、アユムは呆れたようにため息をついた。


「……それ、本気で言ってる?」


私はふふっと笑った。


「冗談だよ。ナンパはもうこりごり」


アユムは小さく安堵のため息をついて、人差し指でメガネのブリッジを上げた。


「そういうところだ。危なっかしくて放っておけない」


「じゃあ放っておかないで?アユムがいてくれたら、人生頑張れそうな気がする」


コーヒーに添えられたアユムの手に、私は手を重ねた。


「大袈裟だな」


アユムは笑ってそう言ったけど、365段の石段を登って私は気づいた。

アユムがいたら、どんなことも頑張れる気がすると。

アユムは、私の人生のパズルに欠かせない一つのピースなんだと。


その気持ちを支えてくれるように、おばあちゃんの言葉も、結婚式での紗知の言葉も、その帰りのタクシー運転手さんの言葉も、一つ一つ胸の奥で息づいている。

そして何より、アユムがくれた温かい言葉の数々も。


「アユム」


手を重ねたまま真っ直ぐアユムを見つめると、アユムも見つめ返してくれた。


「ん?」


「ありがとう、そばにいてくれて」


「なんだよ突然」


私は手を引っ込めた。


「べつに。なんとなく」


素っ気なくならないように語尾を弾ませた。

アユムは目を細めて笑った。


「俺のほうこそ」


カフェモカのカップに添えていた私の手に、アユムの手が重なった。

すらりと長い指が、私の短い指先を包み込む。


「これからも、よろしくな」


胸の奥まで届く、優しい声音。

緑の木々が風で揺れる。

私たちは見つめあって笑い合った。

その時間が幸せで、いつまでも終わらないでほしいと願った。



それなのに別れの時間は訪れる。

時間にすれば八時間も一緒にいたというのに、まだ一緒にいたいなと思う。

八時間と言えば、昨日バイトで働いた時間だ。

その時は、時間が進むのが遅くて永遠にも感じられたのに、アユムとの八時間なんて一瞬で終わってしまった。

花を見て、歩いて、笑って、きゅんとして、カフェで一息ついて。

デパートではスワロフスキーの可愛いネックレスに目を奪われ、ショーケースに張り付いていたらアユムに剥がされた。そのあと少し早い夕飯も食べて充実していたのに、物足りない。


そんな名残惜しさを切り捨てて、改札に足を向けなくてはいけないのに、繋いだ手は一向に離れようとしない。

どのカップルも必ず通る道だけど、この瞬間が嫌で同棲するカップルもいるのだろうか。

私たち……いや、私には、まだその一歩はハードルが高い。だからやっぱりこの「またね」に慣れるしかない。


「またね」


「ああ。またな」


手を離そうとするとアユムは握り返してきた。


「なぁ、車で送るよ。そしたらもっと近くで一緒にいられる」


私の返事を待つ瞳はどこか寂しげで、でも少しだけ期待しているようにも見えた。

この言葉を待っていた訳じゃないのに、私の胸は熱湯を注がれたカップ麺みたいにふやけていく。


「嬉しい!ありがとう」


「またね」からは逃げられないけど、もう少し一緒にいられる。

電車で帰った方が早いのに、遠回りする帰り道の方が幸せだった。



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