#58 旅の終わり、恋の続き
他愛ないお喋りを楽しんでいると、気づけば車は高速を降りて東京に入っていた。
空はオレンジ色に染まり、フロントガラスから差し込む夕日が眩しい。
「もう東京なのね……」
紗知が窓の外を見ながら、盛り下がった声で呟いた。
目に飛び込んでくる景色が見慣れたものに変わっていく。
気のせいか、アパートが近づくにつれ、車内のお喋りの濃度が薄くなっていく気がした。
左に出したウインカーの音がやたら響いている。
シートに無造作に置かれたアユムの手をそっと握ると、窓の外を眺めていたアユムがこちらを向いた。
優しく笑いかけると、アユムは柔らかく笑ってくれた。
「あぁ……ヒナのアパートに着いちゃう!」
住宅街の合間から私のアパートが見えた時、紗知が大袈裟に嘆いた。
まるでこの世の終わりみたいだ。でもすごく共感できる。
旅の終わりは日常の始まりであって、それはこの世の終わりといい勝負なのだ。
「旅行楽しかった!誘ってくれてありがとね」
助手席のシートに手をかけて紗知を覗くと、紗知は肩越しに振り向いて名残惜しそうに笑った。
「私も楽しかった。また絶対、旅行行こうね」
「うん。潤くんも運転ありがとうございました」
運転する潤くんの横顔がふっと緩んだ。
「おう。またな」
私はバッグを肩にかけて、最後にアユムの方を向いた。
「アユムも。色々ありがとう。また連絡するね」
私が言い終わると同時に、車がアパートの前の路肩にゆっくりと止まった。
「ああ」
アユムはそう短く返してから潤くんに言った。
「潤、悪いんだけど。ヒナの荷物、部屋まで運ぶからちょっと待ってて」
「おう」という潤くんの返事と、「え?」という私の返事が重なった。
「土産もあるから荷物重いだろ」
さらりとスマートなことを言って、アユムは車の外へ出た。私も慌てて外へ出る。
石段街で買ったお土産が三袋と、帰りのサービスエリアで買ったお土産が二袋。
それと大きな旅行バッグを、アユムは簡単に持ち上げた。
バタン、とトランクのドアを閉めた。
本当に旅行が終わってしまったんだなと、胸に冬みたいなからっ風が吹いた。
と思ったのも束の間。
「行くか」
その言葉は私の心に一瞬、春をもたらした。
なんだか〝二人の部屋に帰る〟というふうに錯覚してしまった。
夢から覚めたあとにもアユムがいる。
それは終わりを知らないデートのようで。
今まで知らなかった感情かもしれない。
紗知と潤くんに手を振り、私はアユムと並んでアパートへ入った。
部屋の鍵を開けてドアを開く。
昨日と何一つ変わらない玄関なのにひどく懐かしく感じた。その瞬間、本当に旅行が終わったことを実感した。
背後でドアがゆっくりと閉まった。
アユムは荷物を置くと少しだけ私を見つめ、静かに抱きしめた。
私もアユムの背中に腕を回す。
「ありがと、アユム。旅行、楽しかった」
「俺も楽しかったよ」
てっきりその言葉で、身体がゆっくり離れるかと思った。
「……紗知と潤くんが待ってるよ」
「ああ……でも離したくない」
離れるどころか、抱きしめた腕に力が入る。
二人きりになった途端に漏れたアユムの本音が嬉しくて、私はふふっと笑った。
「またすぐ会おうよ」
アユムは恥ずかしそうに笑って身体を離した。
「悪い……ガキみたいだな」
「ガキみたいなアユムも好き。どんなアユムも───」
言い終わらないうちに、アユムは片手で私の頬を包み込み、不意にキスをした。
驚いて、一瞬目を瞬かせたがすぐにそっと目を閉じた。
洗いたてのシーツみたいないい匂いが鼻先をくすぐる。マルジェラの優しい香りは、いつも私を安心させてくれる。
名残惜しそうに唇が離れると、私は急に恥ずかしくなりながら、
「……かっこよくて好き」
キスで遮られた言葉の続きを、小さく口にした。
「そんなこと言われたらますます帰りたくなくなる」
アユムはほとほと参ったように笑った。
その時、プッ!とクラクションが短く鳴った。
きっと待ちくたびれた潤くんの仕業だろう。
「ほら、待ってるよ」
「ああ。じゃあ、またな」
アユムの手が私の頭を優しくポンポンと叩いた。
口元に笑みを浮かべて、アユムは玄関を出ていった。
アユムを見送ると、心に訪れた春が少しだけ陰った気がした。
夢みたいな二日間だった。
翌朝目が覚めてからもまだ、楽しかった旅行をベッドの中で引きずっていた。
時計を見る。昨日の今頃は、みんなで朝食を食べてたなとか、揚げたての唐揚げがおいしかったなとか。
思い出せば思い出すほど、心にぽっかり穴が空く。
そんな私を見て、ベッド横のサイドテーブルに飾ったアユムキューピーが笑う。
昨日、アユムと別れてから旅行バッグの中身を片付けて、アユムのキューピーを目がよく止まる場所に飾った。
小さいキューピーだけど大きな存在感があるそれは、アユムと同棲している気になる。
なんて、それは言い過ぎだけれど、アユムの存在を感じられるような気がした。
片付け終わって一息ついているとアユムから『今家着いた』とメッセージをもらい、そのあと紗知からも『着いたよ~!またねー!』とメッセージが届き、旅行が無事に終わったことに安堵した。
少しの夢を楽しんで、日常に戻る。
その〝少し〟がいいんだ。
何日も楽しんだら現実に戻りたくなくなる。
今頃みんな、旅行に行ったことが嘘みたいに、いつもの日常に戻っているのかな。
少し寂しく思いながら、私は呑気にあくびをしてスマホのアルバムを見返す。
旅行で撮った写真がズラリと並んでいる。
一枚一枚に思い出がある。交わしていた会話が聞こえてきそうだった。
するとスマホが震え、メッセージが届いた。桜からだった。
『旅行どうだった~?話聞かせて♡今日15時に石神井公園駅前待ち合わせ、どう?』
私にはまだ旅行の余韻にどっぷりと浸れる場所があった。
この時ばかりは桜の強引な誘いが嬉しくなる。
『OK♡』
短く送ってスマホをサイドテーブルに置いた。
せっかくの休みだ、もう少し寝よう。
仕事に向かっているアユムや紗知や潤くんには申し訳ないけど。
フリーターもそれなりにいい。
誰にも何も言われずに昼まで寝て、起き抜けに、旅行へ行く前に買っておいたプリンを昼食代わりに食べる。
自由すぎるこの生活をもう五年も続けているのに、ちっとも飽きない。このままではいけない気もするけど、快適が染み付いて抜け出せない。
のんびりとメイクをして着替える。
クローゼットを開けて手に取ったのは、リブニットのロングニットワンピース。
春らしいピンクでマーメイドシルエットが気に入っている。
今日は肌寒そうだから旅行でも着ていた黒のムートン風ジャケットも羽織っていく。
お土産を持って、黒のショートブーツを履いて、部屋を出た。
駅からすぐ近くのカフェへ入ると、パート終わりの桜は六時間働いたとは思えないくらい生き生きとした顔で私の話を聞いてくれた。
「石段街で食べ歩きして射的して……あ!これアユムが射的で取ってくれたの!」
そう言ってバッグに付けたままのキティちゃんのぬいぐるみを見せると楽しそうに相槌を打ってくれて、「アユムのお陰で365段の石の階段を登りきれたの!」と言えば、さも一緒に歩いたかのように感動してくれた。
「水沢うどん食べて、ロープウェイにも乗って、キューピーのペイントもしたよ」
私のキューピーとアユムのキューピーのツーショット写真を見せると、桜は可愛いと言うように笑ったあと、ニヤリと笑った。
「それで?夜の部屋はどうだったの?」
親身になって聞いてくれていたけど、本当に聞きたいのはその話なんだなと、わかりやすかった。
「な、なんにもないよ。桜が期待するようなことは」
アユムに意地悪されたことを思い出して、ちょっと言葉に詰まってしまった。
それを見逃さなかった桜は、言葉で突っついてきた。
「えー?なんかあったんじゃないのー?」
「まぁちょっとはあったけど……」
あったけど……の声が小さくなる。
言うか言わないか一瞬悩んだけど、目を輝かせて前傾姿勢になっている桜を目の前にしたら言わないのは酷だろう。
「なになに?」
「もっと前進したいって言ったら、いっぱいキスされて一線を超えそうになって……でもアユムが踏みとどまったの」
「惜しい!」
桜はなぜか悔しそうにパチンと指を鳴らした。
ほんとだよね……と思いながら私は力なく笑った。
「アユムね、勢いで先に進んだら私が後悔して悩むんじゃないかって心配してるの。だからゆっくり進みたいって」
「大切にされてるね。今に始まったことじゃなさそうだけど」
桜は一口飲んだコーヒーを静かにソーサーに置いた。
「え?」
「もう何ヶ月も前の話だけど、別れてる関係なのに、ヒナが終電逃してアユムさんに電話したら迎え来てアパートまで送ってくれたじゃない」
ふと思い出す。
たしかそれは秋が深まってきた去年の10月中頃。まだ五ヵ月前のことなのに、もう随分と経っているように思えた。
アユムから逃げたくせに忘れられず、滑稽なくらいもがいていた自分。
「その日からじゃなかった?別れた二人の距離がまた近づいたのって。ジャケット借りたから返さなきゃとか言って次の日また会ってさ」
私は思い出すように頷くと、自然と笑顔がこぼれた。
「そうだったね。懐かしい」
「須藤さんに騙された時だって自分のデート放って迎えに来てくれたじゃない」
ああ、そんなこともあったっけ。私は苦笑した。
「ずっと大切にされてきたんだね」
桜は優しく目を細めた。
その言葉を噛み締める。
アユムはいつも私を想ってくれていた。
三年八ヶ月付き合っていた時も、別れてからも、よりを戻した今も。
自分の都合よりも、私の気持ちを大切にしてくれた。一途に、真っ直ぐに。
こんなにも私のことを大切に思ってくれる人は他にはいない。
アユムの愛情が改めて胸に流れ込んでくる。
胸がいっぱいになって、今にも溢れてしまいそうだった。
鼻の奥がツンとする。涙をこらえてゴクッと唾を飲み込んだ。




