#55 伊香保、二日目の朝
ジーパンは昨日と同じものを穿く。
トップスは、ジルバイジルスチュアートの淡いピンクのニットに袖を通した。
JILLという大きな刺繍に、小さなパールが散りばめられていて、お気に入りの一枚だ。
アユムは偶然にもグレーの服だから、並んだら相性がいい色合いかも!なんて和室で着替えながら一人で笑顔がこぼれた。
「ヒナ、そろそろ出れる?」
閉められた障子の向こうからアユムの声がした。
「もう時間?ちょっと待って。メイク直したいしヘアアイロンもしまってない」
障子を開けて返事をすると、さっきまで少し乱れていたベッドが整えられていることに気がついた。アユム自身も整っている。整髪料でセットされた黒髪が、艶がかっていてかっこいい。
「待ち合わせまであと五分くらい。だからあの時支度しとけって言っただろ。あとあと慌てないように」
まだ五分もあるのにアユムの小言が始まった。
「まだ時間あるんだからいいじゃん。急かさないでよ」
「五分なんてあっという間だろ」
「……うるさいなぁ」
洗面所に向かいながら小さくぼやく。
「聞こえたぞ」
アユムのため息混じりの低い声を背中で聞いて、私は洗面所のドアを開けた。
五分ぴったりで支度を終え、アユムにドヤ顔を見せると、アユムは呆れ顔で短いキスをした。
「五分あればもっとできたのにな」とぼやかれて、あの時急かしてきた意味がようやくわかった気がした。惜しいことをした。
部屋を後にするのも名残り惜しい。昔から旅行に来るといつもそうだ。
一日も過ごしていない部屋なのに、不思議と愛着が湧くのか、帰る頃になると決まってセンチメンタルになってしまう。
何年か前に紗知と二人で横浜へ旅行した時、帰りたくなくてノリでもう一泊したくらいだ。
私たちがドアを開けると、紗知たちの部屋のドアも開いて、出てきたのはほぼ同時だった。
「ねぇ、帰りたくない。もう一泊しない?」
紗知の泣き言みたいな言葉に私は激しく頷いた。
「うん、しよしよ。帰りたくないもん」
「いやいや、明日仕事だっつーの。なぁ、アユム」
潤くんが興ざめなことを言ってドアノブの上にカードキーをかざした。
アユムも同じことをしながら「ああ」と苦笑いを浮かべた。
みんなでぞろぞろとエレベーターへ向かう。
「やぁね、冗談よ。私だって仕事あるし」
私はきょとんとして、前を歩く紗知に身を乗り出すみたいに聞いた。
「え?紗知、まだ働いてたの?てっきり結婚を機に辞めたのかと思ってた」
「辞めるわけないよ。就職してまだ二年目だし、私、仕事好きだもん。それに自立してる自分も好きだしね」
「いよっ。キャリアウーマン!」
潤くんがふざけて言うと紗知は「やめてよ!」と言いながらもどこか嬉しそうに笑った。
バイトはしているものの、親からの仕送りにも頼っている私は少し恥ずかしくなった。
いくらハイスペに見えない潤くんも、ハイスペを絵に描いたようなアユムも、大手企業に勤め、自立している。三人が急に遠い存在に感じた。
四人の中で私だけ、お母さんの手伝いをして少ない小遣いを貰っている小学生みたいだ。
「ヒナは今もバイト?」
「うん」と短く返すと紗知はまるで私の姉かのように愛情を持った目で言った。
「就職もいいよ。大変だけど、それなりの対価ももらえるし。結婚してるからこそ私は働きたい。やりくりとか貯金とか、金銭面でも補えたらいいなって思うし」
「いい女だなぁ、紗知ぃ。自慢の嫁さんだよ」
潤くんは目元を腕で覆い、わざとらしく感動している。
その隙に紗知は私に、
「それに、自分のお金で好きな物買えるの嬉しいしね!」と耳打ちしてきた。
潤くんがエレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。
「まぁでも、フリーターもいいよ。稼ぎはそれなりかもだけど責任ねーもん」
「潤」
「潤くんっ」
ケラケラと笑う潤くんの発言に、アユムの低い声と紗知の鋭い声が飛んだ。
潤くんはハッとしている。
「ああ、悪い!無神経なこと言った!ご、ごめんね、ヒナちゃん」
少し凍りついた空気を溶かすみたいに、私は笑って首を横に振った。
潤くんの軽口は気にしない。
それよりも自分だけが子供っぽいことが気になった。小さな針であちらこちらから劣等感をちくちく刺され、痛い。ちょっといたたまれない。
よりにもよって、ここへ来て就職の話が浮上するなんて。
しがないフリーターで大した稼ぎも貯金もない。
それでいて、アユムに支えてもらおうとしているなんて、厚かましいのではないだろうか。
未熟な自分に加えて図々しさも加わり、いよいよ私はアユムに申し訳なくなってきた。
フロントにはチェックアウトを待つ宿泊客が何組か並び、スタッフが慌ただしく対応していた。
「ありがとうございました!」
フロントに響く声の主は紗知のおじさんだった。宿泊客を見送ったところで、私たちに気がつくと甘いマスクをさらに柔らかく緩ませて駆け寄ってきた。
「おお、みんなおはよう!どうだった?楽しんでもらえたか?」
「うん!部屋も料理もお風呂も最高!石段街までも近いし、言うことなし!」
「ね!」と紗知が私たちに同意を求める。
私はうんうんと頷いて頭を下げた。
「ありがとうございました」
「お世話になりました。また来ます。今度は自腹で」
アユムの言葉におじさんは目尻に皺を作って笑った。
「そん時は三泊くらいしていけよ!潤もな!」
「三泊もしたら会社クビになりますって」
潤くんが苦笑いを浮かべて、どっと笑いが起こった。
おじさんにカードキーを返すと「また来いよ!」という声に見送られながら、私たちはホテルを後にした。
この時期の伊香保の朝はまだ寒い。
日差しは春っぽいけれど、時折吹く冷たい風に肌をくすぐられると、東京よりも季節が少し遅れているように感じる。
ジルのピンクのニット、一枚で着たかったけど、黒のムートン風ジャケットを羽織ってきて正解だった。
バタン!と車のドアが重なって閉まり、シュッ、カチャッとシートベルトを締める音が続く。やがて低く唸るようなエンジン音が響いた。
「よし!おもちゃと人形自動車博物館、行こーぜ!」
潤くんが張り切った声を出して車を発進させた。
「俺、楽しみでゆうべ寝れなかったんだー」
「嘘。いびきかいてぐーすか寝てたでしょ」
紗知の容赦ないツッコミが入ると潤くんは大袈裟に首を傾げた。
「あれれ?そうだっけ?」
朝から繰り広げられる夫婦漫才に、私とアユムは顔を見合わせて小さく笑った。
「ねぇ、今日のランチはどうする?」
私が弾んだ声で口を挟むと、車内に笑い声が広がった。
「ヒナ、さっき朝ごはん食べたばっかりだよ。もうランチの話?」
紗知がシートの向こうから顔を覗かせてクスクス笑う。
「ヒナちゃんてほんと食べること好きだよな。見てて気持ちいいよ」
褒められているのか。いじられているのか。
喜んでいいのかわからない。
どうやら私は、食いしん坊ということを自分から暴露してしまったらしい。
頬がぽっと熱くなった。
「何でもうまそうに食うから見てて飽きないんだよな」
極めつけのアユムの言葉で〝恥ずかしい〟を浴びせられ、私はすっかり大人しくなった。
私が縮こまっている間に『ランチ相談会』が発足され、またうどんにする?とか、群馬といえば上州牛!とか会話が飛び交っていたけど、答えが出ないまま、あっという間に目的地に着いた。
車から降りると、冷たい空気をめいっぱい吸い込んで思い切り吐いた。
ホテルで感じた劣等感の恥ずかしさや、たった今、食いしん坊を暴露した恥ずかしさが少しだけ逃げた気がする。
建物に近づいて見上げるとギョッとした。今にも動き出しそうなスパイダーマンがいた。
本物は見たことないけどリアルで、映画から飛び出してきたみたいだった。
「あ!スパイダーマン!やべ、アユム、写真撮って」
潤くんが声を上げて、放り投げるようにアユムにスマホを渡した。
「紗知!ヒナちゃんも!」
興奮気味の潤くんは紗知の手を引っ張り、ぶんぶんと手招きをしながら私を呼んだ。
潤くんを真ん中に、三人でくっついてピースサイン。
にっこり笑って「はいチーズ!」と三人の声が揃った。
「サンキュー。お、いいじゃん。両手に花~」
潤くんがスマホの画像を確認して顔じゅうで嬉しそうに笑う。
アユムは面白くなさそうな顔で一瞥し、私の手を握ってさっさと歩き出した。
「ねぇ、私も画像見たかったな。可愛く撮れた?」
「……あいつと距離近かった」
アユムがぽつりと呟いた。
「え?」
「……いや、なんでもない」
なんでもないと言いながら、少しだけ不満そうな横顔がたまらなく愛おしい。
普段、大人のアユムが見せる小さな独占欲は、続きが気になるドラマより見逃せない。
私はアユムの腕にぎゅっとしがみついて顔を寄せた。
「でも、こんなに距離が近いのはアユムにだけだよ」
するとアユムはなぜか困ったように笑って私の頬を軽く摘んだ。
「……近すぎ」
ん?と、私が目を瞬かせた時──。
「そこ!イチャイチャすんな!」
少し離れた後ろから潤くんの野次が飛んだ。
立ち止まって振り返ると、当の本人は紗知の肩に腕を回している。それに今朝だって人前で紗知にキスをしていた。
「潤くんに言われたくない」
思わず笑って言い返すと、紗知が「ほんとそれ」と肩をすくめた。
「俺らは夫婦だから何してもいいんだよ」
私たちに近づいてきた潤くんは謎に胸を張る。
アユムは鼻で笑った。
「イカれたルールだな」
「アユム、枠にハマらない人生を楽しめ」
潤くんはさも名言かのように言って、紗知の肩に手を回したまま、私とアユムの間に割りこんで先を歩いて行った。




