#54 帰りたくない朝
六時前に目が覚めた私は、隣のベッドで静かに眠るアユムの寝顔をそっと覗いた。
メガネが外されていて、目を閉じていても美形だとわかる。
むしろ目を閉じているからこそ整った鼻や輪郭、形のいい唇までよくわかった。
これで性格もいいなんて。でもちょっと小言っぽいことを言うところが玉に瑕だけど。
美術館に飾られた絵画みたいなアユムの寝顔を眺めて得した気持ちになっていたのだが、顔を洗いに行った洗面所の鏡に映る自分との落差に落ち込んだ。
寝起きのすっぴんほど女子の自信を削ぎ落とすものはない。
私は慌てて顔を洗い髪をとかすと、ゆうべのうちに洗面所に用意しておいたメイク用品とヘアアイロンに手を伸ばした。
いつもよりアイラインがうまく書けない。つけまつげもうまくつけられない。
旅行先のホテルでは毎回こうだ。いつもと違う環境でのメイクはやりにくく緊張する。
それでもどうにかいつもの顔に仕上げ、髪も巻き終わったところに、洗面所のドアがゆっくり開いた。
「ヒナ。ここにいたのか」
「あ、アユム。おはよ……」
メガネをかけていない顔に心臓が跳ねた。髪には小さな寝癖が付き、浴衣の襟元が少し乱れていて鎖骨が見えている。それが朝から妙に色っぽい。
「起きたらいないからちょっと焦った」
手のひらで口元を覆う仕草すらいちいちずるい。
「驚かせてごめんね。早く目が覚めちゃったから、アユムの寝顔見て満足して、メイクしてた」
いそいそとメイク用品を片付ける。
「あー……、寝起きのすっぴん顔見たかったのにな」
まだ少し眠そうな気だるげな口調にドキッとしていると、アユムは私の横に立ってコップを手に取った。
うがいをして、そのまま顔も洗う。
「タオル取って」と濡れた顔をチラリとこちらに向けた時の、顔から水滴が滴り落ちる姿は妖艶で、心臓がもたない。
タオルから顔を上げたアユムと目が合った。
切れ長の優しい目が私を見ている。
「ん?」
私の胸を高鳴らせている自覚なんて、これっぽっちもなさそうだった。
『七時半に朝食行こう!』と紗知から連絡をもらい、ドアの前で待ち合わせをした。
「寝不足でさー」と意味深に潤くんが笑うものだからなんとなくこちらが気恥ずかしくなったけど、「イニDを語りつくして勝手に寝たくせに」と唇を尖らす紗知の言葉を聞いて、クスッと笑いが漏れた。
食堂は朝から混んでいた。まずは空いているテーブルを確保し、それから食事を取りに向かった。
白米やパン、おいしそうな様々な卵料理に揚げたての唐揚げ、マカロニサラダ、彩り豊かなサラダまで。他にも和洋の料理がずらりと並べられている。
「わぁ……」と感動の声がこぼれて、目を輝かせながら視線を巡らせているとアユムにクスッと笑われた。
「ヒナの朝はパン?ご飯?」
「うーん、パンかなぁ。アユムは?」
「俺もパンかな。気が合うな」
3年8ヶ月付き合っていた過去があるのに、朝を一緒に迎えることは初めてで、知らなかったアユムをまだまだ見つけられそうな気がした。
バイキングでの盛り付け方もそのひとつで、アユムは丁寧に盛り付けていく。
サラダを皿の半分ほど片側に盛り、その隣には小皿に盛ったフルーツを。メインにスクランブルエッグとロールパンを二つ乗せ、コーヒーを添えれば、あっという間におしゃれなカフェ顔負けの朝食プレートの完成だった。
あれもこれもと好きなものをついつい乗せてしまう私とはまるで違った。
アユムはこんなところまで綺麗なんだ。思わず惚れ惚れしてしまう。
アユムとテーブルへ戻るとすでに紗知と潤くんが戻っていた。
潤くんが私たちのお皿を見るなり何か言いたそうに含み笑いを浮かべた。
「なぁ、俺さ、昨夜のバイキングから思ってたんだけど……」
潤くんがもったいぶる口ぶりで話し始めた。
みんなそんな潤くんに注目した。
「バイキングの盛り付け方って、性格出るよな」
そう言われて何気なくそれぞれのお皿に順番に目を向けた。
アユムは色合いまで整えた、ホテルの広告写真みたいにきちっと。
潤くんは緑が一切見えない、唐揚げやポテトやベーコンがてんこ盛り。
紗知は野菜が多いかと思いきやよく見るとパンケーキやヨーグルトやフルーツで埋まっていた。
私はロールパンが乗っかり、ウインナーやポテトに唐揚げ、卵焼き、フレンチトーストまでごちゃまぜだった。
「俺は豪快。アユムは几帳面。紗知は堅実。ヒナちゃんは……無邪気!」
潤くんの診断結果に私は首を傾げた。
「無邪気?」
「好きなもん見つけたら、とりあえず全部のせちゃうタイプ。子供みたいに」
潤くんは面白がるようにくくっと笑った。
図星で言い返せず、私はちょっとむっとした。
「豪快も子供と変わらないだろ」
アユムがサラダをつっつきながらさらりと言い返してくれた。
「そうよ、ワンパク坊や」
紗知まで応戦してくれる。
「坊やじゃねーよ。色気盛りな男だ」
「はぁ?色気なんてないじゃない。あるのは食い気だけでしょっ」
「じゃあここでキスしてやろうか?」
イタズラっぽく笑う潤くんが紗知の顔を両手で包み込んだ。いや、わしっと掴んだ。
「ちょっとやめてよ!潤くん!」
「おとなしくしろって」
潤くんはジタバタしながら顔を背けようとする紗知の唇に迷わずちゅっとキスをした。
それを目の当たりにした私は一瞬、目を見開いた。
「ほらな。色気盛りだろ」
どうだ、参ったか!とでも言うように自信ありげに笑って唐揚げを食べる潤くんを、紗知は乱れた髪を指先で整えながら照れた表情で睨んでいた。
「ヒナ、何か言ってやって」
恨めしそうな声に、私は思ったことを口にした。
「潤くん、スケベ」
すると紗知が吹き出して、アユムも笑って、潤くんはむせて咳き込んでいた。
「これからまた貸切温泉行ってくる~!」と紗知が声を弾ませて、部屋へ戻った。
夫婦というだけで過ごし方が違って面白そうだった。
そんな紗知たちとは対照的に、チェックアウトまでの時間、私たちは部屋で静かにのんびり過ごした。そこだけを見たらドキドキが不足している熟年夫婦のようだ。
実際は、心臓が何個あっても足りないくらいアユムにドキドキしているのだけど。
結婚したらこの胸の高鳴りは落ち着いてしまうのだろうか。それもきっと、夫婦らしい形なのに少し寂しい気もする。
静かな部屋に、朝の情報番組の陽気な司会者の声だけがテレビから流れていた。
アユムは和室で着替えると、片隅に置いていた旅行バッグをベッドへ移動させ、身を少し屈めながら荷造りを始めた。
チャコールグレーの襟付きハーフジップのスウェット。胸にはフレッドペリーのロゴマーク入り。
ラフなのに、アユムが着るときちんと感が出ていた。その背にそっと近づいて抱きしめた。
「ヒナ……びっくりした」
アユムは肩越しに振り向いた。
「もう帰る支度?ゆっくりしないの?」
「終わらせてからゆっくりするよ。そういう性分なんだ」
また新しい発見だ。
面倒なことほど後回しにして、いつも時間に追われる私とは大違いだった。
「ヒナも帰り支度、始めろよ。あとで慌てないようにするために」
「うん」
私が適当に返事をすると、アユムにはそれが丸わかりらしく「絶対やらないだろ」という顔をされた。
「それより帰りたくないよ……アユムと離れたくなくなっちゃった」
「今更?俺はずっと離れたくないって思ってたけど?」
アユムがゆっくりと向き直り、私を見つめた。
口元には優しげな笑みが浮かんでいる。
胸元の服をそっと掴んで背伸びをすると、私はその口元にキスをした。
唇が離れると、アユムは目を丸くしながらもクールさを残したまま照れたように笑った。
「……それ、反則」
たまにはこういうことをして驚かせたい。
私は満足げにふふっと笑ってアユムと見つめあってから、ゆっくり目を伏せた。
「夫婦になっても、ドキドキするかなぁ……?」
「ヒナが相手ならドキドキしっぱなしだよ」
「どういう意味?」
私は顔を上げる。
「可愛くて、危なっかしくて、心配で。心臓が休まる暇がない」
恋愛の高揚感だけがドキドキじゃないのかもしれない。
可愛い。守りたい。心配になる。
アユムにとっては、その全部に愛おしさがぎゅっと詰まっているんだ。
自然と笑みがこぼれた。
アユムとの未来はきっと楽しそうだ。




