#53 すっぴんの夜
───彼氏にすっぴんを見せるくらいなら、下着姿を見せる方がマシ。
高校生の頃、頑なにそう言っていた友達がいた。
あの頃は意味がわからなかったけど今ならその気持ちがよくわかる。
メイクを落とした素顔を見せるのはなんだか恥ずかしい。
お風呂もスキンケアもドライヤーも終えて、大浴場の脱衣場の鏡に本来の自分の顔を映した私は、ため息をついた。
「ん?どうした?」
隣で紗知が、長い髪をとかしながらこちらを少し振り向いた。
でも私が口を開くより先に、明るい声で話し始めた。
「ねぇ、大浴場、広くて気持ち良かったね!一人で入るヒナが心配でついてきたけど、入って正解だったわ」
紗知は私のため息なんてなかったかのように、鼻歌をハミングしながら鏡に向き直った。
「……アユムにすっぴん見せたくない」
「え?」
「まだ一度も見せたことないの。ビックリされたらどうしよう……」
もともとファンデは薄づきだから肌の印象はあまり変わらないと思うけど、ナチュラルなつけまつ毛やアイラインで作りこんだ微細な目元の印象は変わると思う。
眉毛の原型があるのだけは救いだった。
「そんなに変わらないよ?ちょっと幼くなるくらいで可愛いんだし、肌も綺麗。化粧品会社に勤める私のお墨付きだよ」
紗知は明るく軽く言う。
大学卒業後、大手化粧品メーカーの商品企画部に就職した彼女からのお墨付きで少し心が弾んだ。
「潤くんに初めてすっぴん見せた時、どうだった?」
「そりゃあ……燃えたわよ」
恥ずかしそうに笑う紗知を見て、一瞬で悟った。
私とアユムがそんな雰囲気になっても困る。
「あ、もう待ち合わせ時間になるよ。そろそろ出よう」
紗知が時計を見ながら、鏡の前のテーブルに並べたブラシや小物をまとめ始めた。
私はこのままここに隠れていたかった。
大浴場の入口の前にはジュースや酒類などの自販機が並び、漫画がぎっしり詰まった本棚と、ソファが置かれていた。
快適な待ち時間を送れそうで、すでにアユムと潤くんはソファに腰掛け、漫画を広げて待っていた。
「お待たせ~」
紗知が声をかける。
アユム達に近づくと、紗知の後ろを歩いていた私は顔を俯かせた。
「おー。大浴場どうだった?」
「最高!気持ちよかった!」
潤くんと紗知のやり取りにも目を向けず、紗知の後ろに隠れるようにして下を向いていると、視界にホテルのスリッパを履いたアユムの足が映り込んできた。
「ヒナ?どうした?」
私は首を横に振った。
「な、なんでもない」
いつまでも隠し通せるものじゃないことくらいわかっている。
でも、今この状態で不自然に顔を上げて見せるより、お風呂から出てきた流れで自然と見せた方が良かったのかもしれない。そうできなかった20秒前のことを悔やんだ。
「ああ、ヒナね、アユムくんにすっぴん見られるのが恥ずかしいみたい」
「ちょっと紗知!」
言わないでよ!と言わんばかりに、私は思わず顔を上げて牽制した。
「え、可愛いじゃん」
そう言ったのは潤くんだった。
私はハッとして両手で顔を覆った。
「でしょ?」
紗知の呆れる声が聞こえた。
「なんかあどけない。な、アユム」
指の隙間から穏やかに笑うアユムの顔が見えた。
「ヒナ。もっと見せて」
アユムは私の手首を軽く掴んで、顔を覆っている両手をそっと手をおろした。
「あっ………」
間抜けな声と共にすっぴんの顔が披露される。
アユムの反応にドキドキする間もなく、アユムの顔が優しく崩れた。
「可愛すぎ」
それはアユムの今日一番の笑顔だった。
そのまま流れるように紗知と潤くんの部屋へ。
「ここで飲もーぜ」と潤くんはビールを何本か抱え、スリッパを雑に脱ぐと和室へ上がった。
私たちの部屋にもあった六畳ほどの和室。
そこにぽつんと置かれた正方形のテーブルの上に、さっき売店で買ったお菓子や珍味が袋に入ったまま置かれていた。
潤くんに渡された冷えたビールを、プシュッと小気味いい音を立てて開けた。
「かんぱーい!」
ここでもアユム以外の三人の声が重なった。
温泉で暖まった体に冷たいビールが流れ込んでいく。
「ッハー!うまい!」
潤くんは素早く喉を鳴らし誰よりも早く感動の声を上げた。
「んー!お風呂上がりのビールいいね~!」
「ほんと!最っ高~!」
紗知と私が負けじと声をあげる中、アユムは静かに缶を傾けていた。
自分のすっぴん騒ぎに夢中で気づかなかったけどお風呂上がりのアユムはいつも以上に色気が増して見えた。
物憂げな表情、整髪料で整えていないラフな髪型、浴衣で露出がないのにどこか艶っぽい。
『集まれ!インテリ浴衣男子』そんな見出しの雑誌のグラビアを飾れる。それも表紙。
ビールを口に運びながら何度もアユムを盗み見ては、そう確信した。
「いやー伊香保いいわ。今日はいいもんいっぱい見れたしな。山に絶景に紗知の浴衣姿に、あとこのマンホール!」
マンホール?と怪訝な表情を浮かべていると、潤くんが嬉しそうにスマホの写真を見せてきた。
マンガのキャラクターが描かれたマンホールだった。
「石段街にあったイニDのマンホール!すっげー胸熱だった!」
少年のように目を輝かせている。
潤くんが指をスライドさせると、潤くんとマンホールのツーショット写真も出てきた。
マンホールを主役に少し上の角度から撮られていて、屈んだ潤くんがカメラを見上げている。
「神社の下で見つけた時、もううるさかったんだから」
紗知がゲンナリした顔を浮かべた。
潤くんはスマホをテーブルに置くとビールをぐっと飲んだ。
「そうだ。明日は、伊香保の観光名所になってる、おもちゃと人形自動車博物館に行くからな」
「なんだよ突然」
アユムが聞くと、潤くんは前のめり気味になって言った。
「そこにイニDの展示物がいろいろあんだって!キャラが乗ってた車とか!俺、絶対行きたい!」
隣で紗知はほとほと呆れていた。
「はいはい、行こうね」
「イニD、まじでかっこいいんだぜ。スポーツカー同士、ぶっ飛ばしてバトルすんだけどさぁ、」
「あ。スポーツカーと言えばさぁ、ヒナ覚えてる?」
紗知が潤くんの話を遮って、テーブルに広げた群馬限定のポテトチップスを摘んだ。
私は、ん?と首を傾げた。
「私が免許取りたての頃、パパのスポーツカー勝手に借りて、夜、首都高走ったの」
「は?おまえそんな無茶してたの?」
私が返事するより先に、潤くんが呆れた声を出した。
「だってまだ高校卒業したばっかりの頃だもん」
「覚えてるよ!かっこいい車に初心者マークつけて。紗知、スピード出すし、合流ためらわないし、すごい怖かったんだよ」
話しているうちに私はアユムに語りかけていた。
「怖いもの知らずだな」
アユムが静かに笑う。
「やべー。俺の奥さん強え」
紗知の新たな一面に潤くんはどこか引いている。
アユムは思い出したように笑った。
「潤なんて初めての首都高はビビってたもんな」
「うるせー。今でもびびってるわ」
潤くんの正直な告白にどっと笑い声が起こった。
お酒が進むにつれ、スナックや珍味もみるみるうちになくなっていった。
今日のできごとを振り返る潤くんと紗知の話を聞いていると、テーブルの下で不意にアユムに手を握られた。
こっそりとした見えないスキンシップは、お酒に負けないくらい酔いしれそうだった。
「やっぱ旅行っていいな」
潤くんは一口ビールを飲むと、缶をテーブルに置いてしみじみ言った。
「毎年来たいね、このメンバーで」
紗知が潤くんの横顔に笑いかける。
「おまえら早く結婚しろよ」
潤くんの煽りに固まる私を見て、アユムは呆れたように小さく息をついた。
「潤」
「あー悪い。ヒナちゃん、急かしたつもりはない」
私はなんて返していいかわからず曖昧に笑ってごまかした。
「急かす資格なんてないでしょ。潤くんだって散々、結婚怖がってたんだから」
紗知が潤くんに向かってせせら笑う。
「紗知のお陰で克服したよ。どうもありがとさん」
潤くんが憎まれ口を叩くみたいに言って紗知の頭に手を載せると、軽く髪をクシャッと乱した。
紗知は嫌そうな顔に嬉しそうな表情を滲ませた。
年下らしい紗知の顔が垣間見えた気がした。
「いや、でもさ、結婚って思ってたより断然いいよ。不安だったことも一緒にいると安心に変わるんだよな。なんつーか……」
そう言って潤くんが一瞬考えてまた口を開いた。
「焼肉。焼肉みたいな感じ」
「は?」
紗知が思い切り顔をしかめた。
「生肉に火通したら焼肉に変わるだろ。不安もさ、相手の温かさで安心に変わるってこと。だから不安があればあるほど安心できていいんだよ」
潤くんは焼肉理論を満足げに披露してポテトチップスをバリバリッと豪快に食べた。
「よくわかんない」
そう言って紗知は不満そうな顔でビールを飲んでいたけど、私にはどこか響くものがあった。
相手の想いで不安が安心に変わる。
それは私にも起こりうるのかもしれない。
そう信じたくて、アユムの手をぎゅっと握った。
散々楽しく飲み散らかして、気づけば十一時を回っていた。
「これから夫婦で大人の時間を楽しむから」と、ふざけながらきりっとした顔の潤くんに見送られ、私とアユムは自分たちの部屋へ戻った。
夫婦で大人の時間。何をして過ごすのだろう。
二人でしっぽりとお酒を飲むのか。
それとも……。
聞くのも想像するのも野暮だった。
女友達との旅行なら、この時間は飽きるほど恋バナをしたり、買い物をしたもので謎のファッションショーを始めたり、爆睡していたりする。
でも恋人との旅行は違う。
キスをしてハグをして、その先へと続いていくような夜がある気がしてしまう。
それなのに。
曖昧な関係の輪郭を歩く私たちは、この夜をどう過ごせばいいのだろう。
せっかくの二人きりの夜を、すぐに眠ってしまうのは少しもったいない気がする。
でも近づきすぎは禁物だ。
私はアユムと距離を取って立ち尽くしていた。
シンとした静寂がうるさい。
「急に静かになったな」
壁際の長いボードにカードキーを置いたアユムの横顔はやけに大人っぽくて、この落ち着いた夜に似合っていた。
これがデート終わりのアユムなんだ。
一日を思い切り楽しんで、でもようやくふっと肩の力が抜けたような。
そんな姿を前にしただけで心臓の音がうるさい。
「……うん」
アユムがゆっくり近づいてきて私は少し視線を落とした。
抱きしめられるかも。浴衣の裾をぎゅっと握った。
甘い空気に包まれたら、きっと私はもっと先を望んでしまう。
そっと顔を上げて窓の向こうに目をやった。
「わ、夜景きれい!」
言い終わるやいなやアユムの横をすっと通り過ぎて窓に駆け寄ると、へばりつくようにして外を見た。
窓にぼんやり映る素顔の自分の姿と、肩越しに振り返ったアユムの姿は見ないようにして、その向こうにある夜景を、目を凝らして眺めた。
暗闇にぽつぽつと温泉街の灯りが浮かんでいる。
ケーキに立てられたローソクの火みたいに揺らいで見えた。
「ヒナ」
アユムに呼ばれて、窓越しにアユムを見た。
アユムはまた一歩、近づいてくる。
これ以上逃げ場のない私は、観念したみたいにアユムの方を向いた。
あと五歩。あと三歩。あと……というところで、
「お手洗い行こうかな~」
私はアユムの横を通り抜けるように歩き出した。
するとすれ違いざま、アユムに腕を掴まれて胸の中へ引き寄せられた。
一瞬だけ、時間が止まったようだった。
「ヒナ。避けるなよ」
アユムが困ったように笑う。
腕の中にすっぽりおさまった私は胸を高鳴らせながらも大人しくなってしまった。
「色気ないな」
アユムがクスッと笑った。
私は身体を少し離すとアユムを見上げて言い返した。
「今、色気があったら困るでしょ」
「もう困ってるよ。すっぴんのヒナが可愛くて」
穏やかに細められた眼差しと、思いがけない言葉にきゅんとなった。
何も言い返せないでいると唇が降ってきた。
目を閉じる間もないくらい短いキスだったのに、身体中に甘みが染み込んだ。
卵液をたっぷり吸ったフレンチトーストみたいに、ふにゃりと力が抜けた。
「そんな顔するなよ。もっとしたくなる」
今度は焼き色を付けられるみたいにじわっと熱くなった。
「こ、これ以上はダメだよ!」
慌てて言う。アユムは安心感溢れる優しい笑みをくれた。
「わかってるよ。俺が言ったことなんだし」
親指の腹で頬を軽く撫でられる。
「お互いの理性が試される夜だな」
アユムは自信なさそうに笑った。
「じゃあさ、まだ寝るのももったいないし、今日のこと話そうよ」
私はアユムの手を引っ張って、ベッドの縁に座った。
スプリングが小さく弾む。
重なった手の温もり、アユムの笑った顔、窓から見える夜の景色。
どれも特別で、大事にしまっておきたくなる。
この夜が、もう少しだけ続いてほしいと思った。




