#52 夜の石段街
「やっべー!風呂上がりのビール最高ー!」
「いつも飲んでるじゃん」
ビールジョッキを掲げて雄叫びを上げる潤くんに、紗知が呆れた顔をした。
「いやいや、浴衣着て旅先のホテルのバイキングで飲んでる雰囲気が最高なんだよ」
黒地にグレーのストライプ模様の浴衣を着た潤くんは満足そうに笑ってジョッキを仰いだ。
私たち四人は食堂に来ていた。
外観からは想像できないほど広い会場に、ビュッフェスタイルの料理が並び、たくさんのテーブル席が用意されていた。
それでも家族連れやカップルで賑わっているので空いている席を探すのに少し苦労した。
並べられた和洋中の料理はどれも美味しそうで、紗知のおじさんのご好意でアルコールやソフトドリンクまで飲み放題。
それぞれ、プレートに思い思いにおかずを盛り付け、ビールジョッキを持って、私たちは大いに浮かれていた。
「おじさんに感謝しないとな。貸切露天風呂もすげーよかった。なぁー紗知」
「うん。景色、綺麗だったね」
紗知が何の気なしに笑う。
風呂上がりの上気した顔にピンクとパープルのストライプ模様の浴衣がよく似合っていて、いつもより色っぽく見えた。
髪も緩くまとめていて、よく見るとメイクも落としている。それなのにメイクしている時と変わらず綺麗だった。
私もあとでお風呂に入る。
そうすればメイクを落としてアユムにすっぴんを見せることになる。
長く一緒にいたのにまだ一度も見せたことがない私のもう一つの顔を見たら、アユムはどう思うだろうか。
「アユムとヒナちゃんも風呂入っとけば良かったのに。浴衣じゃないのも味気ないな」
昼間と同じ服装の私たちに潤くんは眉を寄せた。
待ち合わせた二十分前にも、今と同じような顔で同じことを言っていた。
「仕方ないだろ。話してて入る余裕逃したんだから。あとで大浴場行ってくるよ」
アユムがそう言って、静かにジョッキを傾けた。
「話してた?イチャイチャしてたんだろ」
潤くんが、酔っ払って下世話な話をするおじさんみたいにニヤニヤしているけど、アユムは無視を決め込んでいた。
すると潤くんの視線が私に向いた。
「ヒナちゃん、首にキスマークついてる」
「え!?」
心臓がひっくり返りそうになる。
私は唐揚げをつまんだ箸を持ったまま空いている手で、反射的に心当たりのある首筋に触れた。
「アユム、あの時つけた!?」
慌てた顔でアユムを見ると、アユムは静かな溜め息をついて、メガネのブリッジを人差し指で上げた。
潤くんが、くくくっ……と笑いを堪えていた。
「ついてないよヒナ。潤くんがからかったの」
紗知にそう言われて状況を把握した途端、恥ずかしくなって俯いた。
「ヒナちゃん素直だなー!イチャイチャしてたのバレバレ」
私は顔をあげると精一杯目を細めて潤くんを睨んだ。
「もうっ!潤くん、からかわないでよ!」
潤くんは悪びれるどころか、ハハハハハッ!と豪快に笑うと、喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「ねぇ、このあと酔い覚ましに石段街また少し歩かない?夜景が綺麗みたい」
紗知が話題を変えてくれて、助かった。
「アユムもそう言ってた!ねぇアユム、歩きたい」
目で訴えかけると、アユムは小さく笑った。
「約束したしな」
覚えててくれたことが嬉しくて、顔が緩んでしまう。
「じゃあその後は、部屋飲みな!」
「その後は風呂だ」
アユムは潤くんの盛り上がりを一蹴して、サラダを口に運んだ。
「じゃあ俺も入る」
「もう入っただろ」
「風呂上がりのうまいビールをまた味わいたいの!」
「勝手にしろ」
子供みたいに言う潤くんと、呆れたように笑うアユム。
私と紗知はそんな二人に笑いながら、おいしい料理を頬張った。
料理やお酒を何度かおかわりし、お腹いっぱいのいい気分になったところでビュッフェを切り上げた。
さあ石段街へ!と思ったら、「浴衣の方が雰囲気あるんじゃない?」という紗知の勧めで一度部屋へ戻って浴衣に着替えることにした。
クローゼットには、浴衣と羽織と帯と下駄と巾着まで揃っていた。
白地にピンクとベージュの花柄模様が入った女性用の浴衣と、黒地にグレーの花柄模様が入った男性用の浴衣。帯は女性がえんじ色で、男性がベージュ。二人の距離がぐっと近づくような色違いの浴衣だった。
初めて見るアユムの姿は後光が差して見えて、目を開けているのがやっとだった。
男らしい肩のラインに、腰の辺りで閉められた帯からうかがえる細身のウエスト。
合わせ目から覗く素肌に、目が釘付けになった。
かっこいい。その一言に尽きる。
そんなことを考えながらぼうっと突っ立っていると、アユムは片手で口元を軽く覆い、私の浴衣姿から目を逸らした。
そしてぽつり「かわいいな……」と呟いた。
外へ出ると静かで、夜の冷たい空気が酔って火照った頬をさらりと撫でた。
浴衣の羽織まで着てきて正解だった。
暦の上ではもうとっくに春だけど、山沿いのこの街は冬の香りが残っているようだった。
等間隔に並ぶ街灯が照らす狭い道を、何気ない会話を交わしながら歩く。
酔っ払った潤くんが「紗知~」と言って紗知に抱きつくと、紗知は本気で嫌がっていた。
賑やかだったその雰囲気は夜の石段街を目にすると一瞬にして静まった。
暗い中で吊るされた幾つものライトが柔らかく灯り、幻想的な世界を作り出していた。
昼間とは違って人通りも少ない。店も閉まっている。
藍色の空にオレンジ色の灯りが浮かぶその光景は、どこか異世界へ迷い込んでしまったようだった。連なる光の帯が上まで続いていた。
「綺麗……」
息を呑み、思わず言葉が漏れた。
「本当だね。すごく綺麗。伊香保、来てよかったな」
紗知のしみじみした言葉に、私たち四人は顔を見合わせて笑い合った。
「ね、せっかくだから二手に分かれて少し歩こうか。30分後にここで待ち合わせね」
紗知はそう言って潤くんの腕にしがみついた。
潤くんの顔が一瞬、嬉しそうに崩れる。でも本人はそう見せまいとクールな表情を作る。
嬉しさを隠そうとする表情とのせめぎ合いが面白い。
「じゃあ私たちは上行くね。またあとでね~」
紗知と潤くんが上へ上がっていく。
自然とぎゅっとくっつくその後ろ姿は妙に大人っぽくて、夫婦という結びつきが少し羨ましく思えた。
「ヒナ。俺たちも行こう」
アユムの差し出した手を握る。
歩き出すと、石段街に下駄の音が響いた。
石段街を作った人は、浴衣を着て下駄で石の階段を下りたことがなかったのかもしれない。
もし知っていたら浴衣用にエスカレーターでも作ってくれたのではないか。
そう思いながら、浴衣の裾を少しあげるようにして不器用そうに歩いていた。
「大丈夫か?」
隣で、浴衣なんてものともせずに綺麗な姿勢で器用に歩くアユムが、ぎこちない私を気にかける。
「うん、浴衣って新鮮でいいけど歩きにくいね」
それでも下駄をカランと鳴らしながら必死になって一段一段、足を下ろす。
アユムが息を吐くように笑った。
「なに?」
「いや……。ヒナって、いつもそんなふうだなって」
「そんなふう?」
「不器用なんだよな。恋愛も、こういうことも」
「不器用?そんなに?」
ちょっと納得いかない。
でも少し立ち止まりながらゆっくり歩く姿は不器用そのものなのかもしれない。
「男に騙されて泣きながら電話してきたり。勢いで俺と寝たと思ったら次の日には逃げたり。新宿でも店飛び出したり」
一挙に私の不器用ヒストリーを披露されて恥ずかしくなった。
「結婚のことだって、ちゃんと答えを出そうとしていっぱい悩んでた」
結婚の話まで飛び出してきて少し面食らった。
「……焦れったい?」
ああ、と言われたらヘコむ……そう思いながら聞きにくそうに聞いた。
「いや。ヒナらしくて微笑ましい。だから俺は待てる」
私は階段の途中で立ち止まった。
一段下にいるアユムが振り向く。こんな角度から見るアユムもかっこいい。
かっこいいのに、可哀想にも見えてくる。
『待てる』という言葉が、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「でもアユムの不安や不満は消えてないよね?」
思わずそんな言葉が口を突いて出た。
私を見上げていたアユムは視線を逸らした。
「……ああ」
寂しげな声で焦った。
それなのに、喉の奥に言葉が詰まって何も言えない。
私たちの横を浴衣を着たカップルが楽しそうに通り過ぎて行く。
カランカランという下駄の無邪気な音がうるさくて気が散った。
私は真っ直ぐアユムを見つめた。
「私、アユムと結婚したい」
言い終わると、それはすごく簡単な言葉だったのに100メートル走を全力で走った後みたいな息切れがした。
アユムの視線が私に戻る。
レンズ越しの目は少し見開かれていた。
「まだ少し怖いけど……大丈夫だよ」
アユムに言っているのか自分に言っているのか、わからなかった。
アユムは苦笑を浮かべた。
「ほんと、不器用だな」
「え?」
「それじゃ俺が無理に言わせたみたいだろ」
私は俯いた。
少なからずそんな気持ちがあったからだ。
「俺の不安を解消させたいっていう気持ちは嬉しいよ。でもヒナの意思でちゃんと聞かせて」
アユムは一段上へ上がって私と並ぶと、少し崩れた私の浴衣の襟元を直した。
私の乱れた心を直すように。
「待ってるから」
温かみを感じる言葉に、ようやく息がつけて笑みを浮かべた。
「うん。でもね、紗知と潤くんを見てて、夫婦って羨ましいなって思ったよ。私もアユムとあんなふうになれたらいいな。……なーんてね」
ちょっと恥ずかしくなってごまかすように笑うと、アユムは白けるくらい真剣な顔を向けてきた。
「俺は『なーんてね』で終わらせたくない。ヒナと夫婦になりたい」
「じゃあ夫婦になったら何する?二人で旅行?」
アユムは少し身を屈めて私の耳元に唇を寄せた。
「さっきの意地悪の続き」
色っぽい声で囁かれ、想像した私は、頭が沸騰した。
身を起こしたアユムの口元には笑みが浮かんでいた。
「なんてな」
二人で小さく声を立てて笑い合う。
「そろそろ戻るか」
「うん」
私はアユムと手を繋いで光溢れる石段を登った。
不器用に、焦れったく。




