#51 それぞれの愛し方
「ガキはどっちよね!すぐいやらしいことして!場所考えろっつーの!あーむかつく!」
紗知が鬼の形相で愚痴る。
私は黙って聞きながら、舗装された緩やかな坂道をほとんど引っ張られるように歩いていた。
こんなことは昔からよくあった。
ダブルデート中に紗知と潤くんが些細なことで喧嘩をして、紗知は私を引っ張り、潤くんはアユムを引っ張って。二手に分かれて歩くのが、いつもの流れだった。
都内デートをしていた時はそのまま帰ってしまったこともあったし、車で遠出した時は帰りの車内が険悪ムードでむせ返りそうなこともあった。
でも大抵、翌日には嘘みたいに仲直りしているのだ。
ずんずん進んでいくうちに、ときめきデッキという円形に広がる大きなウッドデッキがある場所にたどり着いた。
ドンドンドン!と力強い足音で、紗知は階段を上っていく。
階段を上がりきると目の前に広がったのは、人の多さも霞むくらいの伊香保の大パノラマだった。
「うわ~!すっごく綺麗!ね!ヒナ!」
柵まで駆け寄った紗知がこちらを振り向いた。
綺麗だった。大きな山々、小さく見える温泉街。空気が澄んでいて、広大な景色は悩みをちっぽけに思わせてくれて。
そんな壮大な景色を親友と見ている。なぜか涙が出そうになった。来れてよかった。
隣にアユムがいればもっとよかった。
「ヒナ?どうしたの?浮かない顔して」
「アユムとも見たかった……」
不貞腐れたように言って唇を小さく尖らせた。
「あ……ごめん。ちょっと座って話さない?」
紗知はすぐ側にあったベンチをちらっと見た。
私は景色を見ながら静かに腰を下ろした。
「潤くんね、気が利かなくて、周りも見えてなくて、二人になるとやたら触ってきて。不満なの」
紗知がぽつりと漏らした。
二人は夫婦の枠を飛び越えて親友みたいに仲がいいから、あまり緊迫した悩みには聞こえない。
それでも普段、威勢のいい紗知が沈んだ顔をしているからよっぽど悩んでいるんだ。
「アユムは周りが見えてて他人にもすごく優しいけど、それはそれで不満だよ。そのことで喧嘩したばっかり」
潤くんを否定するのも気が引けたし、こうしてみたら?ああしてみたら?とアドバイスするのも苦手な私は、自分の話を持ち出した。
「そういえば険悪ムードって言ってたけど仲良いじゃん」
「私が一方的に険悪になってただけみたい。でももう解決したの」
「そうなんだ。そっかぁ。周りが見えてても不満かぁ」
「私はヤキモチ焼きだからね。それにさ、触られてるうちが華だよ」
紗知が吹き出して、困ったように笑った。
「ええ?」
「触られなくなったら紗知に興味ないってことだよ。夫婦でそれは問題でしょ」
「まぁ、ね……」
少し納得したように頷いた紗知を横目に、私はため息をついた。
「私とアユムは恋人だけど、アユムなんて全然そういうことしてこないよ。私は前に付き合ってたみたいにもっと恋人らしい距離になりたいのに」
「アユムくんが手出してこないんだ。ヒナのこと大事にしてるんでしょ。優しくていいじゃん」
「優しいだけじゃ物足りないよ。もう軽はずみでそういう付き合いしたくないんだって。だから私は紗知が羨ましい」
「……ないものねだりだね。私たち」
顔を見合わせて、ふふっと笑った。
「ヒナ」
声の方に振り向くとアユムが立っていた。
隣には、どんな顔をしていいかわからないのか、わざとらしく仏頂面を浮かべている潤くん。
「アユム!」
迷子センターで親が迎えに来た子供みたいに、私の顔がぱぁっと明るくなった。
「アユムと景色見てきていい?」
紗知に尋ねると、紗知は血色のいい唇の口角を上げて頷いた。
私は嬉しくなって立ち上がると、こちらに歩いてくるアユムに駆け寄った。
「行こ?」
そっとアユムの手を握ると、優しく握り返してくれた。
アユムは潤くんにさりげなく目配せをすると、私はその手を引いて、その場を離れた。
デッキの中央に設置された『ときめきの鐘』。
せっかくだから二人で鐘を小さく鳴らした。
まるで結婚式を挙げているみたいで照れくさい。
そこから、さっき紗知と座っていたベンチがすぐそこに見えた。隣に潤くんが座っている。その後ろ姿はいつも通りの二人だった。
デッキ内をゆっくり歩く。
柵に『WELCOME TO IKAHO ONSEN』と立体的な木材のオブジェが飾られていた。
立ち止まり、果てしなく広がった絶景に目を奪われる。
青空の下、冬の名残りのある山並みがゆるやかに連なっていた。
チラリとアユムを盗み見ると、アユムの目は真っ直ぐ前を見つめていた。
同じ景色を見て、きっと同じことを思っている。
それが幸せだった。
「ヒナ」
振り返ると、紗知と潤くんが腕を組んで笑っていた。
「仲直りしたの?」
「うん。ごめんね、二人とも巻き込んじゃって」
「悪い悪い!もう大丈夫だから!」
潤くんがニカッと笑う。
「触られてるうちが華だもんね」
紗知のウインクが飛んできた。
「触っていいよ、潤くん。ほれほれ」
紗知はふざけたように言いながら少し中腰になって、潤くんにおしりを向けた。
マーメイドラインの黒のロングワンピースに浮かんだヒップは、丸くて綺麗だった。
「そうじゃねーんだよ。奥ゆかしさが大事なの。な、アユム」
アユムは否定も肯定もしないで呆れたように笑った。
「これで安心して旅行を続けられるな」
アユムは誰にともなくそう言ったけど、視線が私に向いたから、私はうんうんと笑顔で頷いた。
「ねぇ、この景色をバックに四人で写真撮ろうよ!」
私はバッグの中から自撮り棒を出した。
紗知と潤くんが「いいね~!」と柵に近づく。
スマホをセットして自撮り棒を目いっぱい伸ばすと、画面いっぱいに絶景と私たち四人が映った。
「はい、チーズ!」
アユム以外の声が揃う。
みんなの唇が自然とほころび、笑顔になったその瞬間、私はシャッターを切った。
思う存分、見晴らしのいい景色を楽しんで、東京では見られない大自然を目に焼き付けた。
帰りのロープウェイは少し空いていて、アユムとちょうどいい距離感で乗れた。ちょっと残念のような安心したような……複雑な気持ちになった。
石段街へ戻ると、ホテルが近い中腹あたりでお土産屋をいくつかハシゴして見て回った。
地酒やレトロな和小物、ご当地キャラのぐんまちゃんグッズ。それらが並んでいて見ているだけで楽しかった。
桜に、勝月堂の湯の花饅頭を買って帰ろうと思ったけど、賞味期限が二日以内と知って諦めた。
その代わりにお土産ショップで売っている日持ちする定番の温泉饅頭を選ぶことにした。
「もう四時だ。そろそろホテル戻ろうか」という紗知の声で、店内にいた私たちはわらわらと店の外に集まってホテルへ向かった。
「売店で酒買って今夜みんなで飲もうぜ!俺の奢り!」
ホテルの自動ドアを抜けると、潤くんの口からそんな提案が飛び出した。
本当はコンビニで買おうかと思ったけど、無料で泊まらせてもらっていることを考えたらせめて売店で買い物をして恩を返したい、ということだった。
紗知は潤くんのことを「気が利かない!」と言っていたけど、いざとなると律儀で気が利く人なのかもしれない。紗知もそう感じていたようで、嬉しそうな顔をしていた。
ビールにチューハイ、スナック、珍味。私たちはそれらをカゴいっぱいに詰め込んだ。
六時に夕飯へ行く約束をして紗知たちと別れた。
部屋に入ると急に静けさが襲った。
賑やかさが嘘だったみたいに、沈黙が二人の間に落ちる。
先に部屋に入ったアユムが振り向いて私に近づくと、包み込むように優しく抱きしめた。
「こうすると疲れ吹っ飛ぶ」
落ち着いた声音が、耳にも心にも優しい。
それなのに物足りない。
でもそれを悟られないようにアユムの背中にそっと手を回した。
「私も」
半分本当で半分嘘だった。
今の私は、こんな優しいハグだけじゃ満足できない。
アユムがゆっくり体を離したのと同時に、私は顔を上げた。
穏やかな眼差しと唇が降ってきて目を閉じた。
重なるだけのキスは静かで、呼吸を止めたくなってしまう。少し苦しくなった頃、唇が離れていった。
目を開けると満足そうに微笑むアユムの顔があった。胸の奥が歯がゆさでいっぱいになった。
「ヒナ?どうした?」
私は昔から、思っていることが顔に出てしまう。
不満そうな顔をしているに違いない。
アユムの瞳は真っさらで、眩しい。そんな目を見ていると、自分だけがいかがわしいことを考えているみたいで恥ずかしくなった。
「やっぱり、抱きしめて唇に触れるキスだけじゃ嫌……。もっと……前進したいよ」
どんどん声が小さくなって、俯いた。
前にも、恋人だったのに。飽きるほど体を重ねて愛し合った仲なのに。
今は何もかもが初めてみたいに緊張してしまう。
きっとアユムは困った顔で笑って呆れてくれる。
そう思ったのに、アユムは私の顎先を軽く掴んで上げると、意地悪そうに笑った。
「前進?それってどんな?」
余裕たっぷりの大人の顔を見せられて、私は固まった。
「ヒナ、教えて?」
ずるい。
でもそんなアユムに、胸をときめかせている自分がいる。
手の届かないアイドルに歓声を沸かすような、そんな胸の高鳴りが聞こえる。
「……耳にキスしたりとか」
消え入りそうな声で言うと、アユムの唇が、私の露になっている耳の輪郭をなぞるように触れた。
思わず肩が小さく震え、「んっ……」と喉から声が出たのと同時に吐息が鼻から抜けた。
「それから?」
耳元に落とされた低い声にゾクッとした。
アユムの手がすっと私の腰に回る。
「唇と首筋にもキ……んっ」
言い終わらないうちに不意に唇を塞がれて、頭がくらっとした。
さっきしたものとは違う、深くて貪欲で息をつく間もないキス。頭の中が真っ白になる。
どちらの唾液かわからないアユムの濡れた唇が、今度は滑るように首筋に落ちた。
「……この先は?」
私の口からはもう甘い吐息しか出ない。
「ヒナ、ちゃんと言葉にして」
アユムは私を煽るみたいに、執拗に音を立てて首筋にキスを繰り返しながら言葉を紡いだ。
時おり柔らかい舌先が皮膚をなぞってゾクリとする。
「んっ……胸にも……」
恥ずかしさから目をキュッと閉じて口にすると、アユムが私の服を遠慮なくたくし上げた。
虚ろな目で見下ろすと、ぷるんと揺れるゼリーみたいに現れた柔肌は、花の刺繍がされた純白の白いブラシャーに包まれている。
アユムが谷間のあたりに吸いつくようなキスを落としていくたびに私の呼吸が乱れた。
「……この後はどうすればいい?」
ふにっと胸を触られる。
快楽に足が震えそうになって限界を感じた私は、アユムの肩を押した。
「……あんまり、意地悪しないで……」
息も絶え絶えに、思わず助けを求めるようにアユムを見つめると、アユムはハッとした表情を浮かべて私を強く抱きしめた。
「……ごめん、遊びすぎた」
アユムは大きく息をついた。
「可愛かったから、ちょっとからかうだけのつもりが意地悪しすぎた」
「恥ずかしかった……」
えへへ……と力なく笑った。
自分から言い出したことなのに、こんなふうになるなんて思ってもいなかった。
緊張と恥ずかしさで心臓はまだ落ち着いてくれない。
「ヒナ」
アユムが身体を離して優しい声で呼んだ。
「……本当は俺だって我慢してるよ」
捲し上げられた洋服を直してくれる。その指先は丁寧で、さっきまでの自分を思い出すと恥ずかしい。
「すぐにでもヒナが欲しい」
さっきとは違う、熱を含んだ目に見つめられて心臓が飛び跳ねた。
「でも曖昧なまま進みたくない。ヒナが後で後悔するのも嫌なんだ」
予想外の言葉に、私は首を横に振った。
「私、後悔しないよ?」
自信たっぷりに言うと、アユムは少し困ったように、でも優しく目を細めた。
「前みたいにヒナが黙って距離を取るのを見たくない。勢いのまま進んだら、これでよかったのかなってヒナが揺れる日がまたくるかもしれないだろ」
ふと、思い出す。
ヨリを戻す前に勢いでアユムと体を重ねたあの日の夜、少しだけ後悔した気がする。
朝、逃げるように帰ったのがその証拠だった。
感情で動いて、あとで後悔してひとりで抱え込む。そんな性格だ。
「だったら、大切なものは急いで手に入れるんじゃなくて、ちゃんとゆっくり手にしたい。ヒナが不安にならないように」
アユムが先に進まない理由は、石橋を百回叩いて渡るような慎重さからだと思っていた。
でもそうじゃなかった。全部が繋がった気がした。
アユムはただ慎重なだけじゃない。
いつだって、アユムの中心には私がいる。




