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#05 猫みたいなひと



池袋東口の交差点前にある喫茶店、服部珈琲舎。

高級感のあるレンガ造りの外装は、老舗らしい風格がある。

歩道沿いの大きな窓から、ほんのり明るい店内の様子が見えた。

チェーン店のような賑わいはなく、都会の喧騒の中で静かに落ち着く場所という空間だ。

仕事帰りの人達や、デートを楽しむカップルの姿がぽつぽつとあった。


ただ静かにコーヒーを飲む人、楽しそうに談笑する人たち。その中にアユムはいた。

窓際のテーブル席。スーツ姿で長い足を組み、コーヒーを片手にスマホをいじっていた。

その落ち着いた様子は、外からよく見えた。

きっと、私が見つけやすいように気を使ってくれたに違いない。

アユムにはそういう優しいところがある。


「アユム。ごめんね、待った?」


店へ入り、アユムの座る席へ駆け寄ると、アユムは小さくため息をついて私を見上げた。


「……10分遅刻」


長い指先でメガネのブリッジを上げながら言う。

その懐かしい仕草が、当時と変わらず色っぽく見えた。


「相変わらず細かいね。デート相手にもそんなこと言ってるの?」


私は明るく皮肉を言って、アユムの向かいの席に座った。


「デート相手はヒナみたいにルーズな子じゃないから、ヒナにだけだよ」


“ヒナにだけだよ”。その言葉に特別感がキラキラ瞬いていて、密かに口元が緩んでしまう。


昨夜、“アユムなんて大っ嫌い”、そう言って最悪の別れ方をしたはずなのに、何事もなかったかのようだった。


「ご注文は?」


店員が来たので、私は慌てて口元を立て直した。


「ブレンドコーヒーお願いします」


店員は軽く一礼をして行ってしまった。


「また、来てくれてありがとう。今度はメッセージ送ってごめんね」


昼間、私はアユムに簡単なメッセージを送った。

“ブルゾンを返したいから今夜7時に池袋の東口駅前にある服部珈琲舎に来て欲しい”と。

アユムからは、“わかった”と、簡潔な返事が届いた。


「あと…昨夜は迎えに来てもらったのに大っ嫌いって言ってごめん」


「……べつに気にしてない」


アユムはコーヒーをひと口飲んで言った。

本当に気にしていなさそうだった。

気にしていて欲しかった。

あの一言でメッタメタに傷ついて立ち上がれなくなるくらい、心に残っていて欲しかった。


「はい、これ昨日のブルゾン。すぐ返した方がいいかなと思って。着て帰っちゃってごめんね」


ブルゾンが入った茶色の紙袋の取っ手を両手で持って、アユムに渡したはずだった。


「……ヒナ」


アユムの呆れた声。

私は取っ手から手が離せずにいた。


「離したら、アユムとの繋がりがなくなっちゃう……」


そう言ってから、ハッと我に返って手を離した。


「ごめん……」


アユムは顔色ひとつ変えずに袋を受け取ると、自分の後ろに置いて口を開いた。


「ずるいよな、ヒナは」


「え?」


「別れたっていうのに、そうやって俺のこと惑わせてばかりで」


それだけ言うと、アユムは目を伏せて静かにコーヒーを飲んだ。


「惑わす?」


アユムの気持ちがよくわからなかった。


「お待たせ致しました、ブレンドコーヒーです。ごゆっくりどうぞ」


目の前に、ソーサーに乗ったコーヒーカップが、丁寧に置かれた。

湯気と一緒に奥深いコーヒーの香りがふわっと立ちこめる。

私はカップを両手で持って静かにすすった。


「熱っ……」


カップからすぐに口を離すと、アユムがふっと笑った。


「猫、みたいだな」


「猫?」


「そう、ヒナは猫みたいだよ。熱いものが苦手で、自由気ままで。好かれてるのかそうじゃないのか、惑わせてきてさ」


「好きだよ。アユムのこと。付き合ってる時も、今でもまだ……。簡単に忘れられないよ」


心よりも先に口がそう動いてしまった。


「ゆうべ、アユム、私とより戻す気ないって言ったよね。少しもないの……?」


自分でも驚くくらい、切なさが滲んだか細い声が出た。


「ヒナは俺と、どうなりたいんだよ」


アユムはため息をついた。


「結婚する気はない。でも好き。矛盾してるだろ。」


レンズ越しのアユムの瞳は少し苛立っているように見えた。私をしっかり捉えて離さない。


「それとも俺と遊びたいだけ?だったらそういう付き合いしてやろうか?傷つくのはヒナだけどな」


余裕のある優しい男が、一瞬だけ崩れたように見えた。ゾクッとした。


私はゆっくりと目を伏せた。


「自分でもわからないの……」


声が震えた。

ひと呼吸置く吐息も、喉も、膝の上でギュッと握りしめている両手も、全部小さく震えた。


「どうなりたいかわからないの……でもアユムが離れていくのは寂しいよ……」


俯いた顔に垂れる茶色の髪が、吐息で揺れた。


店内に流れる心地いい静かな音楽とともに、沈黙が流れた。

おずおずとアユムを見ると、目を伏せたまま、一瞬、言葉に詰まった様子で吐き捨てるように言った。


「……依存するなら他探せ」


突き放す言葉が胸に沁みた。

傷口に消毒液を垂らしたようなピリッとしたあの痛みが、全身に走った。


「依存するくらい好きなんだよ。でもアユムは違うんだね。本当に私のこと好きなら手放さないはずだもん、ずっといっしょにいるはずだもん」


隣のテーブルでコーヒーをすすっていたお爺さんと目が合って、思わず感情的になっていたことに気がついた。


アユムはテーブルに片肘をついて、その手を額に当てると深いため息をついた。


「本当に好きだから結婚したかった。でもその気がないヒナを縛り付けるのは可哀想だから、別れたんだろ」


その言葉で、煌々と燃えるロウソクの火がふっと消えたみたいに、私はおとなしくなった。


「私、そんなの望んでない……」


アユムは口を開かなかった。


「アユムは、私がいなくても平気なんだね」


私は静かにそう言うと、バッグを持って立ち上がった。


「アユムの方が猫みたいだよ……」


アユムは目を伏せたままだった。

本当はずっとここに留まっていたい足を、私は前へと足早に踏み出した。

アユムとどんどん離れていく。

距離だけじゃなく、心までも遠ざかっていく気がした。


追いかけて来て引き止められるのを期待したけど、そんな甘いドラマみたいな展開にはならなかった。


ふと、駅の鏡の前で立ち止まる。

頬に流れる一筋の涙だけが、ドラマティックに光っていた。


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