#04 会いたい心
セットしてあるスマホのアラームでうっすらと目が覚めた。
目覚めの悪い朝。まるで、別れ話を告げられた3ヶ月前の翌朝に戻ったみたいだった。
まどろみの中で起き上がって背伸びをした。
どうやら昨夜、私は玄関で泣いた後、そのままベッドに入って寝てしまったらしい。
昨日のままの服が、それを物語っていた。
おまけに視界の端で、自まつ毛に馴染むような繊細なつけまつ毛が、取れかけて揺れていた。目障りだからぺりっと剥がした。
顔も洗わずに眠ったようだった。
スマホを見ると、着信とメッセージが何件か届いていた。
アユムだったりして…なんて淡い期待を抱いて、少し胸を高鳴らせながらスマホを開いたら、桜からのものだった。
昨日の終電を逃したその後を心配したメッセージだった。
そういえば、桜に連絡し忘れたことを思い出した。
悪いことしちゃったな…と思い、私は小さく息をついた。
それと同時に、昨夜のアユムとのことは夢だと思いたかった。
ただ桜たちと飲みすぎて帰ってきて、シャワーも着替えもせず、着ていた服のまま寝てしまったんだ、と。
でも、桜の履歴の下にあるアユムの名前を見て、現実だったことを思い知らされた。
「もう甘えるな」。それだけならよかった。
それなのに「ヒナとよりを戻す気はないから」と、希望の芽を摘み取るようなことを言われて、胸の奥が痛かった。
いつかよりが戻るって、心の片隅でそう思っていたかったのに。
「アユムなんて大っ嫌い」。
防衛本能で思ってもいないことをつい言ってしまった。付き合っていた時も別れ話の時も、そんなことは一度も言ったことはなかったのに。
アユムはどう受け取っただろうか。
雨の中せっかく迎えに来てくれて、往復一時間もかけて送ってくれたのに。
アユムの優しさを思うと、心が重く沈んだ。
そんなことを思いながら、ぼんやりとフローリングに敷かれた毛足の長いラグに視線を落とした。
ネイビーのブルゾンが無造作に置かれている。
白とピンクの淡い色で統一されたこの部屋で、それは、ぽつりと浮いていた。
アユムが貸してくれたブルゾンだ。
昨夜、ベッドに入る直前に、アユムを感じたくなくて脱ぎ捨てたものだった。
慌ててベッドから飛び起きると、私はブルゾンを拾い上げた。
両手で持って思いきり顔を埋める。
鼻で大きく息を吸い込むと、鼻腔にアユムの香りが広がって、私はその場に崩れ落ちた。
ラグの毛足が、カサついた頬を包み込む。そこから見える、全身鏡に映る恍惚とした表情を浮かべている私は、気持ち悪かった。
飲みすぎたお酒で顔がむくみ、泣き腫らした顔をしていた。
そんな自分を見なかったことにして、アユムのいい香りがするブルゾンをギュッと胸で抱き締めた。
……こんなことしている場合じゃないのに。
ふと、冷静になり、息をついた。
「返しに行かなきゃ……」
昨夜、あんなことがあったばかりなのに。
会いたいという気持ちは、気まずいという気持ちを上回っていた。
まずは、泣き腫らした顔をどうにかしないと。そう思った。
スタッフオンリーと書かれた扉の向こうは少し狭く、コーヒー豆やダンボールが置かれている。
他のスタッフの声が遠くで聞こえる中、私はロッカーを開けてエプロンを付けながら、桜の圧に辟易していた。
「ほんっとに心配したんだからね!電話出ないしメッセージも返ってこないし!何かあったのかと思ったんだから!」
襟付きの白いシャツの上に、店のロゴがプリントされた黒のエプロンを付けた桜は、昨夜見せていた飲兵衛の姿とは違って可憐に見えた。
「ごめんごめん。うっかりしちゃって」
私は舌でもペロッと出すかのように軽く言った。
「まったくもう。まぁ無事なら良かったけど」
桜はさっきまでの圧を緩めて少し笑った。
遠慮なくずけずけと踏み込んでくる、ただの軽い子と思っていたけど、心配性の友達想いの子のようだった。
「実はね、あれからアユムに電話して迎えにきてもらったの」
「はぁ!?あんた何してんの」
思いきり顔をしかめた桜の顔には、昨日あれほど飲んだのにむくみひとつなかった。
「なんかお酒の力で、いろいろ大胆になっちゃった」
軽くそう言いながらロッカーの鏡で顔をチェックした。
蒸しタオルやフェイススチーマーを駆使して撃退したむくみは、時間と共に消えていた。
「大胆すぎ。でも迎えに来てくれるなんて、ほんといい男ね。え……いろいろって、まさかキスなんてせがんだりしてないわよね?」
ドラマで見る警察の取り調べみたいに、桜はジロリと疑いの眼差しを向けてきた。
「そこまではしてないけど……」
ロッカーの扉をパタンと閉めたと同時に、桜の眉を寄せた顔が私の顔に近づいた。
「なにしたの」
「……ひとりでいたくないからアユムの部屋行きたいってせがんだ」
言いにくそうに言うと、桜はますます眉を寄せた。眉と眉がくっつきそうだった。
「はぁ!?」
桜の声が一段と大きくなった。
「そしたら“ダメ”って拒否られた」
「いい男すぎるわよ。普通ならとっ捕まえられて食われて終わりよ。で、都合のいいセフレ街道まっしぐら」
腕を組んでそう言う桜は、私にほとほと呆れている様子だった。
「……アユムと繋がっていられるならそれでもいい」
私がぽつりと呟くと桜は大きなため息をついた。
「結婚はできないって別れておきながら、セフレでもいいって、あんたの頭どうなってるの」
「自分でもわかんない……。おかしいよね」
私はひと呼吸置いて続けた。
「でも……“もうよりを戻す気はないから、俺に甘えるな”って言われちゃった」
「え……一撃ね」
「それでつい、“アユムなんて大っ嫌い”って言っちゃった。あんなこと、今まで一度も言ったことなかったのに」
ロッカーに寄りかかると、金属のロッカーは冷たく、シャツの下の背中がひんやりした。
まるで昨夜の、突き放してきたアユムの心みたいだった。
私は軽く息をついてから続けた。
「部屋に帰ってからいっぱい泣いた。そのまま寝ちゃって、気づいたら朝だったの。だから桜に連絡し忘れちゃって……。ごめんね!」
両手を顔の前で合わせると、桜の顔を覗くように首を少し傾げた。桜は柔らかく笑って私の肩を押した。
「もういいわよ。それよりせっかく迎えに来てもらったのに何してんのよー。なかなかいないわよ、そんな元彼」
「うん……寒いって言ったら自分が着てたブルゾンまで貸してくれたの。うっかり着て帰っちゃったから、今日会って返そうと思って」
「また会うの?昨夜、そんなことがあったばっかりなのに?」
「だってブルゾンだよ?困るかもしれないじゃない」
「玄関にでも置いてきたら」
鋭いツッコミがグサッと刺さった。
「い、嫌よ。フレッドペリーのブルゾンだもん。盗まれちゃうかもしれないでしょっ」
私はわかりやすく視線を逸らした。
会いたくてたまらない気持ちが、口先から溢れ出ていたのかもしれない。
桜はからかうように言った。
「はいはい。会いたくて会いたくてしょうがないのね。いってらっしゃい。しっかりしてそうな元彼だから安心して送り出せるわ」
その時、扉の向こうから声がした。
「ふたりとも、準備まだー?」
「今行きます!」
桜が返事をして、私たちは慌てて出ていった。




