#49 ふたりの歩幅
「ヒナまだ〜?」と三十分も経たないうちに紗知がゴンゴンゴンと勢いよく扉をノックした。
キスの余韻に浸りながら抱き合っていた私たちはその声にゲンナリして名残惜しく体を離した。
「今行くー」と声を少し張り上げて返すと、今までポロシャツ姿だったアユムがジャケットを羽織り始めた。
外の冷気を思い出し、思わず身震いする。
私も持ってきたムートン風の黒いジャケットに袖を通した。
部屋を出る直前、扉の前でもう一度だけ軽くキスをして、ドアノブを下げた。
「遅い」
廊下へ出ると、ジトっと睨む紗知が出迎えてくれた。美人に睨まれても怖くない。
潤くんは壁にもたれてスマホを手にしていた。
気だるげにもたれてスマホをいじる姿はどこか色気があって、黙っていると端正な顔立ちが際立って見えてかっこいい。
「まだ三十分経ってないよ」
そう言った私の後ろで、アユムがドアノブの上にカードキーをかざして鍵をかけた。
静かな廊下に機械の音が短く鳴り響く。
「ねぇ、それよりヒナ!」
紗知は私の腕を引っ張り、アユムたちと距離を空けるように廊下を歩き始めた。
私の腕にしがみついて、ぴったりくっついている。
紗知は私よりも背が高いから、アユムたちにはでこぼこコンビみたいに映っていそうだ。
「アユムくんとそういう関係じゃないのに旅行なんて誘ってごめん!私てっきりもう……」
「全然平気だよ。アユムと旅行に来たかったし」
「でも夜とか気まずくない?」
そう言われて、うーん……と考える。
「あ、でも今夜で一歩前進しちゃうかもね!可愛い下着、持ってきた?」
エレベーターの前まで来ると、私は下の矢印のボタンを押した。
答えるか答えないか悩んで、口を開いた。
「……持ってきたよぉ」
勝手に話を進める紗知に少し辟易しながら、でも照れも混ぜて仕方なさそうに答えた。
「何を持ってきたん?」
いつの間にか後ろまで追いついた潤くんの声が飛んできた。
「……自撮り棒」
「おっ、ヒナちゃん準備万端じゃーん」
うまくごまかせてほっとする。
陽気に笑う潤くんの隣でアユムは静かに立っていた。目が合うと私は視線を落として、チンと音を立てて開いたエレベーターに急いで乗り込んだ。
「石段街、楽しみだな~!クレープ屋さんがあるみたいでさ、そこ行きたい!」
「いやいや、伊香保と言ったら温泉饅頭だろ」
「潤くんはどうせどっちも食べるでしょ」
「おまえもな」
私の前に立って笑顔でそんなやり取りをする紗知と潤くんをぼんやり眺めながら、私の頭の中は別のことでいっぱいだった。
『今夜で一歩前進しちゃうかもね!』という紗知の下世話な言葉が脳裏をかき乱している。
お気に入りの、いわゆる“勝負下着”を持ってきて、そんな展開になることを期待している自分が一番品がないけど。
「ヒナ?どうした?」
顔を上げると、そこには下心なんて一ミリも垣間見えない、紳士のようなアユムがいた。
さっきまでこの顔とキスをして抱き合っていた。冷静になると急に恥ずかしくなる。
今夜はもしかしたら、たくさんキスをして素肌で抱きしめ合って色っぽい声で名前を呼ばれたりして……。
そんなこと、アユムとはもうとっくに何度も経験済みなのに、別れてブランクがあったせいか気持ちが白紙に戻っている。
「顔、少し赤いぞ」
アユムの親指の腹が私の頬を撫でる。
今はそれさえも刺激的だった。
「なんでもないよ。ちょっと暑いだけ」
手でぱたぱたと仰ぐ。大した効力はない。
「暑くないよ。寒いくらい」
そう言って紗知が振り返る。
『あんたのせいでしょ!』と目で訴えると、紗知は、ん?とばかりに小首を傾げた。
エレベーターの階数を表示するディスプレイが1の部分を点滅させて扉が開く。
誰の視線も届かない影で、私はそっとアユムの手を握った。
ホテルから真っ直ぐ伸びた、来た道とは反対方向の細い小道を抜けただけで石段街に辿り着いた。
人で溢れた温泉街は、お祭りみたいに賑わっている。
「わー!これが石段街ね!すごい!」
紗知が歓喜の声を上げた。
ちょうど中腹部分なのか、右を見ても左を見ても石の階段が続いている。
古めかしい建物が多くて、レトロな街並み。緑もあって情緒ある風景だった。
「一番下に可愛いモニュメントがあるみたいだからそこで写真撮りたい!で、上まで登ろう?頂上には神社があるんだって!」
ガイドブックみたいに詳しい紗知の提案で、まずは下に降りることにした。
階段の両脇には飲食店やお土産屋さんが軒を連ねていて、歩いているだけでお腹が空きそうな場所だった。
一番下まで来ると景色は開けていた。
「あ~!あれあれ~!」
紗知は階段から目と鼻の先に飾られた『IKAHO』の文字を立体化したオレンジ色のオブジェを指さした。Oの中の空洞が、ハートマークになっていて可愛い。
「昔に来た時はあんなのなかったな」
「2021年から置かれたらしいの。夜はライトアップもするみたい」
アユムがぽつりと漏らした言葉に、紗知は自信たっぷりに答えた。
由緒ある石の階段とは違い、それは明らかに現代的で、観光客の心を掴んでフォトスポットにもなっている可愛いシンボルだった。
「さっちゃん詳しいな」
アユムが感心する。
「紗知は歩くガイドブックだもん。前もってたくさん調べてきてくれるの」
紗知と初めて旅行に行ったのは高校の卒業記念旅行で、行き先は韓国だった。
私は胸を弾ませていただけだったけど、紗知は観光に困らない程度の韓国語をマスターして、行きたいお店やその場所なども率先して調べてきてくれた。
「スマホでちょちょいとね。便利な世の中ですから」
「ハネムーンで行ったハワイもさ、初めて行ったのに現地住民レベルよ。すごいの」
潤くんが自慢そうに笑う。
「ねぇそれより写真の列並ぼう!」
紗知の一声で列に並ぶと、何組か待ったところで順番が回ってきた。
私たちはモニュメントのすぐ後ろに並んだ。
ひとつひとつが結構大きくて、Aの字のてっぺんがアーチ状に丸くなっているのだけど、それが私の胸の下あたりにくるほどだった。
単に私の身長が155cmと低いせいもある。
四人仲良く並んだはいいものの、撮り手がいない。
「潤くん何してるの、カメラセットしてきて」
紗知が呆れた顔をして少し低い声で言う。
潤くんは慌ててスマホをセットしに行った。
自分でカメラを設置する小さなテーブルがあったけど潤くんはうまく設置できず、私たちの後ろに並んでいた大学生くらいの女の子たちに声をかけて撮ってもらった。
スマホを受け取って戻ってきた潤くんは、
「かっこいいって言われちゃった」
とデレッとしていた。
紗知はそんな潤くんを華麗にスルーすると、
「よし!神社目指して登るか!」
と勇んで石段街に向かって歩き出した。
「この石段はね、365段あるんだって。一年365日この温泉街が賑わうようにって、願いが込められてるみたい」
アユムはまた紗知の知識に感心していたけど、私は「365段!?」とそちらに驚いた。
四人一緒に登り始めたのに、気づくと紗知と潤くんは景色を眺めたり話をしながら余裕ですいすい先へ進んでいく。
慌てて後を追ったけど足が重い。すぐ前にいたアユムとの間にも少しずつ距離ができていた。
考えてみたら、私は階段を登ることが大の苦手だ。
駅でも好んでエスカレーターを使うし、生活の中にある階段はアパートの一階から二階に上がるだけのちょっとした段数だけ。
それだけでも、ふぅと息をついている私が、目の前に延々と続くこの無数の階段を登りきることなんてできるのだろうか。
早くも最下段を少し上がったところで足が止まった。視線がスニーカーに落ちる。
せっかく買ったDIANAのスニーカーなのに全然活躍させてあげられず、情けない。
「ヒナ」
顔を上げると心配そうな顔をしたアユムが、人波を縫うように上から降りてきた。
「後ろにヒナがいないから焦った」
「ごめん。疲れちゃって……」
「まだ登り始めたばっかりだぞ」
私の二段上まで降りてきてアユムがクスッと笑う。
「私、階段苦手だったの。アユム、おんぶして?」
「自分の足で登れ」
呆れたふうに見つめられ、優しく窘められた。
「じゃあ抱っこ」
私の子供みたいな要求に、アユムは笑いながら息をついた。
「もう少し登ったところで潤たちが待ってる。さっちゃんが言ってたクレープ屋があるから食べようって」
「クレープ!?」
私の目の色が変わって、声も弾んだ。
「アユム、行こ」
アユムの手を引いて、軽い足取りで歩き出した。
「はいはい」
アユムの声を背中で聞きながら、さっきより軽くなった足は1歩ずつ石段を上がっていった。
石段に小さく『55段』と記されたところにクレープ屋はあった。
山のイラストの上にCREAMと描かれた小さな丸い看板が掲げられたこじんまりとした可愛いお店だった。
「ヒナ~!大丈夫?」
クレープ屋の短い列の最後尾に並んでいた紗知は私と違って元気そうだった。
「ヒナちゃん、バテるの早すぎ」
潤くんも元気そうで、私だけお年寄りみたいで恥ずかしい。えへへ……と笑ってやり過ごした。
十五分くらい待ってようやく買えたクレープは細長くて、手にずっしりきた。
ラズベリーやイチゴがたっぷり乗っているのが可愛くて、スマホで写真を撮った。
その横で、甘いものはいらないと言うアユムはアイスコーヒーを飲んでいた。
「オープン当日にね、東京五輪の聖火リレーがここを通過したんだって。だから聖火をイメージして作られたみたい」
ここでも紗知の伊香保ウンチクが披露され、三人揃ってその面白い知識に「へぇー」と感嘆した。
クレープで元気を取り戻すとまた石段と向き合うこととなって、それはまるで何かトレーニングをさせられているみたいな気持ちになる。
それなのに紗知と潤くんは軽やかに登っていく。
体の中に綿でも詰まっているのだろうか。本気でそう思いたくなる。
私の前を歩くアユムは私を時々振り返っては穏やかな笑みを浮かべた。
「ゆっくりでいいよ」
そう言って私のペースに合わせてくれる。
歩幅も恋愛も。
以前はそれがいいと思ってた。でも最近はそれが不安になる。
アユムの負担になっているんじゃないかと、相手の気持ちを考えてしまうようになった。
新宿デートでアユムの不満を聞いてから。
前はアユムの優しさに甘えているだけでよかった。でも今はその優しさに甘えてばかりでいいのか考えてしまう。
「アユム、私に合わせなくていいよ。自分のペースで歩いて」
私の口からそんな言葉が出てきたのが意外だったのか、アユムは少し驚いたあと柔らかく笑った。
「ヒナと歩きたい。ずっと」
それは、この石段街のことなのか、それとも人生のことなのか。
今の私には紛らわしかった。




