#48 安心のかたち
「高速降りるぞー」という潤くんの声で前へ目を向けた。
伊香保ICの料金所を抜けると“渋川・伊香保”と白い文字で書かれた青い看板が見えた。
「群馬~!」
紗知が弾んだ声を上げながら、窓を開ける。
山あいらしいひんやりした空気が後部座席に流れ込んできた。
一般道に合流して伊香保方面に向かうと、高速の無機質な速さと違って周りの車の流れが少し緩くなった。
今度は伊香保を示す標識看板が目に飛び込んできた。その向こうには小さい山々が見える。
そこから二十分ほど走ると右手にはENEOS、その奥には茶色の大きな山が現れた。ところどころに雪が点在している。
フロントガラスいっぱいに、青い空と白い雲、その向こうに山並みが広がる。東京では見かけない雄大さに目を奪われた。
「あれ何の山かなー。拓海いるかなー」
潤くんが前方を見て呟くと、紗知がすかさず突っ込んだ。
「誰それ」
「藤原拓海だよ。イニD知らねーの?この渋川市の榛名山が舞台になってる車の漫画」
「知らない。ヒナ知ってる?」
「わかんない……アユムは?」
「知ってるよ。昔、潤にさんざん見せられたから」
「高校生の藤原拓海がさ、ハチロクっていう車に乗って、夜な夜な、紙コップの縁ぎりぎりまで水を入れて車内に置くんだよ。それをこぼさないように猛スピードで山を走り抜けるの。すげードラテクなんだよな~」
潤くんが熱弁する隣で、紗知は欠伸なんてしている。
「ふぅん。単なる漫画でしょ。フィクション」
「紗知、おまえ夢ねぇーなぁ。夜の榛名山に行けば拓海がいるかもしれないだろ」
「いない」
今度はアユムが冷静に突っ込んだ。
「とにかく俺は今、伊香保に着いてわくわくしてるんだ!」
潤くんが子供みたいに笑う。
そうこう話しているうちに、窓の外では山が少しずつ近づいていた。
紗知の叔父さんが経営するホテルは石段街の近くの坂道を登って細い小道に入った辺りに佇んでいた。
老舗の温泉宿が並ぶ中で、築浅そうなそのホテルは少し浮いて見えた。
グレージュの外壁に大きなガラス窓、六階建ての外観はどこか高級マンションにも見える。
「到着~!潤くんお疲れ様~!」
建物の目の前にある駐車場に車を停めると、紗知が元気な声で言ってシートベルトを外した。
車から降りると、肌寒い空気に包まれながら、改めてホテルを眺める。
エントランスには緑が並び、IKAHO HILLSというホテルの名前が掲げられていた。
「わぁ、綺麗なホテル……」
思わず声が漏れる。
「半年前にできたばっかりだからね」
紗知が少し自慢げに笑った。
「荷物、運ぼうぜー」
潤くんの言葉でトランクへ回り込む。
自分の旅行バッグに手を伸ばそうとすると、アユムが先に掴んだ。
「重いだろ。持ってやるよ」
不意を突かれて、ほんの一瞬、言葉に詰まった。
「あ……ありがとう」
アユムは自分のバッグと私のバッグを手に取ると軽々と持ち上げ、トランクの扉を閉めた。
自動ドアを抜けたホテルの中も洗練されていた。
白と黒を基調としたロビーは、老舗の温泉宿とは違い、ふっと心が緩む雰囲気ではないのに、不思議と穏やかな空気が流れていて心が休まる気がした。
「おお~紗知!よく来てくれたな!」
フロントの奥から紗知のおじさんと思われる人が出てきた。歳は40代後半くらいだろうか。スラリと背が高く、甘いマスクを隠すかのように鼻の下に髭を生やしている。
紗知の家系の高度な遺伝子偏差値に驚かされた。
「おじさん久しぶり!友達連れてきたよ。私の親友のヒナと、潤くんの親友のアユムくん。二人はカップルよ」
紗知の口から聞く“親友”という言葉に胸がくすぐったくなりながら、私はアユムといっしょにぺこりと頭を下げた。
「ずいぶん可愛い子とドえらいイケメンを連れてきたな。じゃあカップルにぴったりのスイートルームに案内しないとな」
「え、そんな部屋あるの?」
紗知が目を丸くした。
「ねーよ。冗談だ」
ははは!とおじさんは気持ちよさそうに笑った。
「でも見晴らしのいい最上階の部屋を用意しておいたから好きに使ってくれ」
おじさんはそう言って二枚のカードキーとホテルのパンフレットを紗知に渡した。
「そのパンフに載ってるけどな、夜と朝は三階の食堂でビュッフェ式の食事付きだ。あと、二階に大浴場と七階に展望貸切露天風呂があるぞ。貸切風呂は入るなら前もって予約してくれな。通常は有料だが無料にしておくからよかったら気兼ねなく使え」
「わぁ、何から何までありがとう、おじさん!」
「その代わりクチコミで広めてくれよ。じゃあごゆっくり」
おじさんはウインクをしてフロントの奥へ消えていった。
私たちはエレベーターへ向かって歩き出す。
「部屋割りは夫婦とカップルの別々でいいよね?はい、カードキーとパンフレット」
「あ、う、うん」
歩きながら紗知に差し出され、おずおずと両手で受け取って眺めた。
白いプラスチックのカードキー。
IKAHO HILLS 601と黒字で印字されている。
アユムと二人きりで夜を過ごして朝を迎えることを想像したら、今さら緊張してしまう。
「え、いいでしょ?」
紗知が不思議そうに聞いてきた。
「あ、うん。アユムとお泊まりは初めてだからちょっと緊張しちゃっただけ」
「ヒナちゃん初々しいなー。紗知なんて初めての時からでっかいイビキかいて寝てたぜ。緊張感ゼロ」
「そりゃ潤くんだもん。相手がアユムくんだったら話は別だけど」
「どういう意味だよ。おいアユム!」
潤くんは紗知を睨んでから、その矛先をアユムに移した。
「俺にすごまれてもな……」
アユムが困ったように言ってエレベーターのボタンを押すと、エレベーターはチンと音を鳴らしてすぐに扉が開いた。
乗り込むと、エレベーターの内装まで綺麗で魅せられた。
「ヒナとアユムくん、貸切露天風呂入る?」
何気ない紗知の言葉に私は固まって、心拍数だけが上昇していくエレベーターみたいにじわじわと上がっていく。
アユムと二人きりで露天風呂。そんな状況を想像しただけで頭が沸騰しそうになる。
「ヒナ?入る?」
そう聞いてきたのはアユムだった。
動揺を微塵と感じさせないその姿が余計に大人っぽい。
私は震えるように、小刻みに首を横に振った。
アユムはふっと笑った。
「え?入らないの?」
紗知が口を挟むと、アユムは少し照れたように笑った。
「ああ、やめとくよ。俺たちまだそういう関係じゃないから」
そういう関係……。
アユムはさらりと軽く口にしたけど、言葉の意味を考えると身体中の熱が集まったように顔が熱くなって俯いた。
「前も付き合ってたんだからいいじゃん。裸の付き合いしちゃえよ~」
潤くんが茶化すように焚き付けた。
「潤」
アユムの抑制するような声のあと、紗知のため息も聞こえた。
「潤くん、デリカシーないなぁ。ヒナが恥ずかしがってるでしょ!」
私だけが熱を帯びた空間にいるみたいだった。
六階に着いてエレベーターのドアが静かに開くと、さりげなく一目散に降りて大きく深呼吸をした。
「三十分後にここで待ち合わせね!石段街行こう!」と紗知が仕切って、部屋のドアの前で別れた。
カードキーをかざして鍵を開ける。
見かけによらず重厚なドアを開いて中へ入ると、和モダンの小綺麗な客室が広がっていた。
温かみのある絨毯張りの部屋にツインベッドが並べられ、小上がりになったゆったりとした和室、奥には伊香保の絶景を望める大きな窓と障子があった。
一目でわかる、高級感のある部屋だった。
「わぁー!すっごーい!」
私は思わず無邪気な声を上げて窓に走っていった。
山と、伊香保の街並みがよく見える。あれは石段街だろうか?
「ねぇアユム、あそこって」
窓に張り付くようにして見ていたけど、そう言いながら肩越しに後ろを振り返ると、いつの間にかアユムがすぐ後ろに立っていた。
「……石段──」
言い終わらないうちにアユムの手が肩に触れ、唇が静かに重なった。
私は息をすることも目を閉じることも忘れ、目を瞬かせた。
柔らかな感触がゆっくり離れていく。
「……悪い。我慢できなかった」
アユムは腕を回してそのまま私を抱きしめると、深く息をついた。
「やっと、触れられた……あの日からずっと、遠かったから」
「あの日?新宿デートの時?」
「いや……創立記念パーティーの別れ際」
そう言われて、あ……と思い出す。
そういえばあの日、桜に優しいアユムを見てから少しずつ気持ちが傾き始めた。
あれからもう三週間くらい経っている。
「急に帰りたがるヒナを見て、何かあるなとは思ってた。でもあの時はその理由がわからなかった」
その時の苦い不安を思い出して、私はアユムの腕を両手でぎゅっと握った。
「そのあと新宿で会った時にヒナの不安がわかった。でも、あの時の俺には少し身勝手に思えたんだ。だからつい感情的になってヒナを責めた……あんな言い方するんじゃなかったって後悔したよ」
背中越しに、アユムが小さく笑う気配がした。
私は何も言わず唇をきゅっと結んだ。
時間が止まったみたいな静けさだった。
「ヒナが嫌なら、誰にも彼にも優しくするのは気をつける。悪かった」
「……もういいの」
いいわけないのにそう言った。
「安心させてほしいって言ってたよな」
「……うん」
私が小さく頷くと、アユムは私を強く抱き締めた。
「こうしたいと思うのはヒナだけだから……俺を信じて」
抱きしめる強さで愛を測れるなら、私はすごく愛されているかもしれない。
不安が消えたわけではないのに、その言葉と温もりにほだされてしまう自分がいた。
そもそも安心とは、相手を信じることから生まれるものなのかもしれない。
信じることのもっと先を形にしたのが“安心”なんだ。
今までアユムが私にしてくれたことを思うと、私は安心できる要素をたくさん持っていたのに、それに気づけなかった自分が恥ずかしい。
「アユム……」
私はアユムの腕をほどいてアユムと向き合った。
何か言いたいのにどんな顔をしていいかわからず俯く。
「ヒナ。一緒に悩もうって言ったこと、考えてくれた?」
私は首を横に振ってアユムを見上げた。
「ごめん。ひとりで答え出した……」
「どんな答え?」
アユムは一瞬だけ目を見開いたがすぐにいつもの冷静な表情に戻った。
「そのままのアユムでいて?誠実なアユムが好き」
アユムが何か言う前に、アユムの胸にそっと沈んで大きな背中に両手を回した。
「でもそのあとは私を抱きしめて」
その言葉に答えるようにアユムは息を吐くように小さく笑い、私の腰の辺りにふわりと腕を回して包み込んだ。
「ヒナの不安が消えるなら何度でもこうするよ」
甘い声を聞きながら暖かい胸の奥にどっぷりと沈んだ。
「情熱的なキスもね」
そう言って体はくっつけたまま、上を向く。
甘い眼差しと一緒に唇が落ちてきて、私の唇に重なった。
次第に、チュッ……と音を立てたついばむようなキスに変わり、それを少し堪能すると、熱を持ったアユムの唇はゆっくりと離れていった。
これでいい。
こんなふうに愛情を伝えてもらえたら、私の嫉妬心はきっと消えていく。




