#44 安心させて
───夜のテラス席から眺める夜景は綺麗なんだろうな。
大きな窓際のカウンター席に座り、外へ目をやって、温かいコーヒーをすすりながらそう思った。
ガラス越しに、サザンテラスを行き交う人たちの姿がよく見える。
マフラーに顔半分を埋めたり、ポケットに手を入れたり、みんな寒そうにしながら歩いている。
そんな光景を見ていると、寒さが伝染する気がして、両手で包み込んだカップを口に運んだ。
手のひらも身体の中も、じんわりと温まる。
目の前にはストロベリーカスタードタルト。
見ているだけで心まで温まった。
本当はテラス席に座りたかったけど、ビルの隙間を縫うように吹く北風が冷たくて、混み合った暖かい店内のカウンター席に落ち着いた。
パソコンを広げた若い男性と、夢中にスマホを眺める女子高生に挟まれた席だった。
「このあとどうする?」
タルトにフォークを入れながらアユムに尋ねると、アユムは一口飲んだコーヒーを静かに置いた。
「ヒナはどうしたい?」
「うーん……」
考えながら、フォークで刺したタルトの断片を口に入れた。
甘酸っぱいイチゴの果肉とまろやかなカスタードクリームが舌の上に広がっていく。
さくっと軽いタルト生地も魅力的だった。
「んー!おいしい!アユムも食べる?」
私は答えになっていない返事をして、切り分けた一切れをフォークに刺すと、アユムの口元へ近づけた。
アユムは笑みを浮かべたまま上品に口に入れた。
自分からしたことだけど、なんだか照れた。
それを誤魔化すようにタルトを頬張っていると、クスッと笑うアユムに、指先で口元を拭われた。
「ヒナ、ついてる」
どうしてこうも私は綺麗に食べるのが下手なんだろう。いつも拭われている気がする。
その度に胸が甘く疼く。
「桜川?」
不意に隣から名前を呼ばれて振り向くと、見覚えのある顔がこちらを見ていた。
「え?二階堂?」
高校の同級生の二階堂仁人だった。
黒の無造作にセットされた短髪にダボッとした黒のスウェット姿は、スーツ姿が板についているアユムとは正反対でどこか新鮮だった。
「やっぱり桜川か。ヒナって名前と声が似てるなーと思って。小坂の結婚式で会った時以来だよな」
そうだった。言われて思い出した。
「こんなところで会うなんて偶然だね。しかも隣同士なんて」
「たしかに。なに、デート?」
二階堂の顔がニヤッと緩んだ。
「うん。彼氏のアユム。アユム、高校の同級生の二階堂」
紹介すると、二人は軽く頭を下げ合った。
「二階堂は何してるの?仕事?」
「ああ。会社が新宿にあって、ちょっと息抜きしに。て言っても仕事持ってきてるけど」
「そうなんだ。随分ラフだね」
黒いズボンまでオーバーサイズ。
アユムが“色気と余裕の男”なら、二階堂は“青春の延長線上の男”のようだった。
「エンジニアだから。服装はわりと自由なんだ」
「ふーん」
興味無さそうに相槌を打つと、二階堂は身を乗り出すように口を開いた。
「あ、こないだ懐かしい奴と飲んで桜川のこと思い出したとこだよ」
「なにそれ。誰?」
「幸斗。お前ら、付き合った初日から、将来絶対結婚するーって言ってたよな」
それは消費期限が過ぎたおかずのように、顔をしかめたくなる酸っぱい香りがしそうな話だった。
「そんな話、忘れてた」
私は苦笑いを浮かべて言った。
「マジ?幸斗にあれだけ結婚したいって言ってたのに?」
「もうやめてよ、恥ずかしい!子供だったんだよ」
「いやいや、本気だったじゃん」
二階堂にケラケラと笑われながらそう言われて、アユムのことがふと気になった。
ちらりと横目で見ると静かにコーヒーを飲んでいた。表情は読めなかった。
「高校生だったし。初めての彼氏で浮かれてただけだよ」
私もコーヒーを一口飲んだ。
「あ、やべ。そろそろ会社戻らないと」
時計を見た二階堂が、残りのコーヒーをぐっと飲み干し、慌てて荷物をまとめ始めた。
「じゃあな。会えて良かった」
二階堂は立ち上がると、少し真面目な顔でそう言って去っていった。
その背中を見送っていると背後で言葉が落ちた。
「……へぇ。結婚したかったんだ」
振り向くと、アユムがコーヒーをテーブルに置いたところだった。
「俺とはまだ悩んでるのにな」
レンズ越しの目は責めているようで、少し寂しさも混じっているように見えた。
「高校生の頃の話だもん。今はアユムとの結婚、もう前向きに考えてるよ」
「でもちゃんとした返事はまだもらってない」
「それは……」
「それは?」
すぐにそう聞き返され、私は一瞬言葉に詰まってから小さく口を開いた。
「アユムが、いつまでも待つって言ってくれたから……」
なんだかそれが悪いことのように思えてきて、私は視線を落とした。
ガヤガヤとした店内の賑わいの中で、私たちの間に静かな沈黙が流れた。
「……いつまでも待つって言ったけど、時々不安になるんだよ」
アユムが静かに言った。
「またヒナは俺から逃げていくんじゃないかって思えて」
「……もう逃げないよ」
本心だった。そう言ってアユムの手を握ろうとすると、さりげなくかわされて、私の手は行き場を失った。
アユムの曇った横顔は私の視線さえも避けたように、こちらを向かない。
私は急に苛立ちを覚えた。私だって不安はある。
「私ばっかり不安にさせてるみたいに言わないでよ……」
尖った言い方になってしまったかもしれない。
でももうどうでもよかった。
波にさらわれていく砂の城みたいに、私たちの穏やかな時間は静かに崩れ始めたのだから。
「私だって不安なのに……」
「……何が不安?俺はちゃんとヒナの気持ちに応えてきたつもりだけど」
「私の気持ちだけじゃなくて、みんなの気持ちに応えてる!」
つい感情的になってしまったことに気づいて、はっと口を閉じた。
ちらりと周りを見ると、みんな自分たちのことに夢中で、私の溜め込んだ気持ちは喧騒に紛れたみたいだ。
「こないだの友達の相談に乗ったことと、関係ある?」
アユムは曇った表情を変えないまま、責めるわけでも怒るわけでもなく、ささやかな疑問として聞いているようだった。
私はおずおずと頷いた。
「……私に優しくするみたいに他の人にも優しいのが嫌なの。自分の位置が揺れるの。みんなと同じは嫌なの……」
堰を切ったように、気持ちが言葉になって溢れ出す。
言葉にして初めて思った。これは、自信がない故のわがままなのかもしれない。
アユムはコーヒーカップに添えた手に視線を落としたまま何も言わない。
私は勢いのままに口を開いた。
「私を、安心させてほしいの」
アユムは私に視線を向けて鼻で小さく笑った。
「自分のことばっかりだな……ほんと」
冷たい声音に、突き放された気分になった。
「俺の気持ち、考えてくれたことある?」
なかった。私はいつだって自分のことしか考えてない。だって自分のことで精一杯だから。
「誰にでも優しいんじゃなくて、人として誠実でいたいだけ。じゃないと自分自身が嫌になりそうだから」
そこまで言うとアユムは小さく息をついた。
「それにこないだのはヒナの友達だったから。大事にしたいと思った。でもそれがヒナの不安の材料になって苦しめてるのはショックだよ。そういうのわかってくれてると思ってた」
アユムの愛情を独り占めしたいとしか考えてない私に、そんなこと理解できるわけがない。
アユムは悪くない。でも私も悪くない。
ああ私たちは、自分が安心したい一心で、お互いの不安を見る余裕がなくなっているのかもしれない。
アユムを責めたい気持ちがあるのに、アユムの悲しそうな表情に居た堪れなくなる。
「ヒナは俺の何を見てきたんだよ。自分は特別で愛されてるってなんで思えない?」
アユムの胸に溜め込まれていた不安や不満が、ふつふつと湧くお湯のように静かに溢れ出す。
私はただ安心させて欲しかっただけだ。
桜から聞いた話みたいに「不安にさせて悪かった」って言って欲しかっただけなのに。
それなのに私の自己中や自信のなさという短所をえぐるように突きつけられている。
黙ったままでいる私に呆れているのか、アユムは聞こえよがしにため息をついて言葉を続けた。
「俺だけが頑張れば安心できる?だったら不安にさせないようにもっと頑張るよ」
愛情なのかそれともヤケクソなのか、もうわからないでいるとアユムの口はさらに言葉を紡いだ。
「でも、俺の不安は誰がなくしてくれる?」
不安と絶望と怒りで滲む瞳が、黙りこくる私を捉えた。
「教えてくれよ」
静かだけど、恋焦がれている私の胸を身震いさせるような低くて強い声。
アユムが怒っている姿を私は初めて見た。
視線がぶつかり合って、息を飲んだ。
「……ごめん」
そう言って先に目を逸らしたのは私の方で、この不穏な空気に耐えきれず、バッグを持って店を飛び出した。
「ヒナ」
アユムの呼び止める声を背中で聞きながら、私は冷たい空気に飛び込むように店の外に出た。
冷気が肌を刺す。周りの景色が滲んで見えた。瞬きをしたらポロッと涙が零れた。
でもそんなことお構いなしに、私の足は駅へ向いた。
結局、私はまた逃げた。今度はアユムの不安や不満と向き合わずに。
自分の不満をぶつけるように漏らして、優しいアユムを追いつめてしまった。それで最後は逃げようとしている。最低だ。
何と言っていいかわからなくて涙も見られたくないから、アユムを残して思わず飛び出してきてしまったけど、これでよかったのだろうか。
いいわけはない。
走るまでいかない、でも少し急いだ足取りだったのに、駅の入口に来たところで、追いかけてきたアユムに手を掴まれてしまった。
「ヒナ、待てって」
人が行き交う中で私たちだけが立ち止まる。
アユムに手を引かれて端の方へ寄った。
コートとバッグを片手に持ったアユムの息は少し上がっていて、肩がわずかに上下に揺れていた。
「……ほらな、また逃げた」
アユムはそう言って困ったように笑った。
さっきまでと違う、いつものアユムだった。
「アユムが怒ったの初めて見た……」
「……悪い。余裕なかった」
私はアユムを困らせている。
そう思ったら不甲斐ない自分が情けなくて、また涙が込み上げた。視界が滲む。
「なに泣いてんだよ」
苦笑するアユムに親指の腹で涙を拭われ、私はそれを煙たげにして顔を背けた。
「……ヒナ、今すぐじゃなくていいからちゃんと話そう?」
ぽつりと落ちてきた言葉に私は首を横に振った。
うまく答えを出す自信すらないから、時間が解決してくれればいいと思った。
いや、それよりも、私の不満を聞いたアユムが何とかしてくれる。そんな甘えが心のどこかにあった。
「うやむやにする気?」
図星だった。
嫌なことから目を逸らし、そのうち何となく元に戻れればいい。そんな考えが私にはあった。
視線を落としたまま小さく頷くと、アユムは大きく息をついた。
「ダメだ」
呆れたような声が降ってきた。
私は思わず顔を上げた。
「アユムは話せば解決すると思ってるみたいだけど、話したって変わらないこともあるよ」
「例えば?」
「私が嫉妬してるって言ったら?それって話せば変わるの?嫉妬しなくなるの?」
「嫉妬する必要なんてないだろ。ヒナのことしか好きじゃないんだから」
「そう言って安心させて、また誰かに優しくするんでしょ?その度に私は苦しくなるの!」
語尾を少し強めてしまったけど喧騒に飲み込まれた。
電車のアナウンスや、通り過ぎていく人たちの笑い声、喋っている声が、ごちゃまぜになって聞こえてくる。
「結婚を待たせてることでアユムを不安にさせてるのも苦しい……」
私は視線を落とした。
堂々巡りだ。いい加減、アユムも諦めるかもしれない。向き合うことではなく、私に。
沈黙が、冷たい風と一緒に私たちの間を流れる。手を伸ばせば届く距離なのに、アユムがひどく遠く感じた。
私が離れていっているのか、アユムが離れていっているのかわからない。
もう元に戻れないのかなと絶望に似た思いが頭を過ぎった時、アユムが私の手を取った。
「ヒナ。一緒に悩もう?」
話し合おうでも、向き合おうでもない。
アユムは優しい猫みたいにそっと隣に寄り添ってきた。
いつもの私ならそんなアユムにも、猫にだって、デレデレして喜んでしまう。でも今の私は少し違った。
「……無理」
唇をきゅっと結んで、首を横に振った。
「そんなこと言われても、不安はなくならないもん」
「どうすればなくなる?」
「わかんない……」
「だから二人で悩もうって言ってるんだろ」
「考えとく……。もう帰りたい」
投げやりにそう言って小さく息をつく。
漂う白い息が、疲れきった私の魂みたいに見えた。
私はなんて自己中なんだろう。
寄り添ってくれようとするアユムの気持ちを蔑ろにしてしまい、せっかくのアユムの半休をこんな喧嘩で終わらせようとしている。
それなのにアユムは、何も責めなかった。
「わかった。帰ろう」
アユムは手を離さないまま改札に向かって歩き出した。
その手の温もりに、安心感と罪悪感が同時に芽生えた。




