#45 雪解け
ホームでも電車の中でも会話はなかった。
お互いの存在を確かめ合うように繋がれた手だけが熱を持っていた。
大丈夫って言ったのに、アユムは私の最寄り駅まで送ってくれた。
「今日はごめんね」と言いたいのに変なプライドが邪魔して言えず、「またな」とこんな時にでも頭をポンポンと撫でてくるアユムに心底惚れた。
頭をポンポンするのは、“可愛くてしょうがない”とか“守りたい”とか“特別”とか、そんな隠された素敵な意味があると聞いたことがある。
本当かどうかは分からない。でも今だけは信じたかった。
翌日は朝からバイトで、シフトが同じだった桜にデートのことを洗いざらい話した。
デートの前半は楽しかったこと、高校の同級生に偶然会って、その後アユムとのいい雰囲気が壊れたこと。『安心させて』と言って見事に玉砕したこと、デートの後半はほとんど会話すらなかったこと。
全部聞き終えると桜は真面目な顔で『ご愁傷さまです』と言った。
本当に『ご愁傷さま』だ。
心はまだ痛くて気持ちは沈んだまま。
大した発散もできないままバイトを終えて、寄り道する気にもならずに真っ直ぐアパートへ帰る。
その帰り道、振動しないスマホを気にかけては、アユムからの連絡が来ていないかチェックする。
来ているわけがない。
昨日あんなことがあったってアユムは仕事に専念しているはずだ。頭の中を好きな人でいっぱいにして上の空で仕事をしている私とは違う。
でも電話にしてもメッセージにしても、連絡をもらったところで、この気持ちを抱えたまま一体何を話せばいいのだろう。
帰ると、部屋が夕日に照らされて、くすんだオレンジ色に染まっていた。
レースのカーテンを開けて外を見ると、半熟卵の黄身のような色の夕日が、低い建物の向こうに沈んでいくところだった。
私のこの気持ちも夕日と一緒に、地平線の奥深くへ沈んでしまえばいいのに。
そんなことを思いながらカーテンを閉めると、ソファの上に置いたバッグの中で、スマホが振動した。慌てて取り出すと、画面には意外な名前。ふっと肩の力が抜けて通話ボタンを押した。
「も……」
「ヒナァァァ!ひさしぶりー!」
“もしもし”という前に、紗知の明るい声がつんざくように鼓膜を揺らした。
「紗知~久しぶり。どうしたの?元気?」
紗知だった。紗知の声を聞くのは一ヶ月半前の紗知の結婚式以来である。
元気?と聞いたけど、わざわざ聞くまでもなかったかもしれない。
「元気元気~!なんか色々バタバタしちゃってなかなかヒナに連絡できなくてさぁ!最近落ち着いたとこ!」
ソファに座ると、紗知の姿が近くに感じる気がした。
「結婚生活どう?楽しい?」
「うん!喧嘩もたくさんするけどねぇ……でも結婚いいよ!ヒナもどう?」
おいしいお菓子を勧めるみたいに、紗知の言い方は軽かった。
「ねぇ、アユムくんとはどうなってるの?」
ああ、それね。それは今あんまり触れられたくない。
でも紗知はエスパーじゃない。昨日のデートの話じゃないことくらい、すぐにわかった。
「紗知の結婚式のあと、少し経ってから、また付き合ってほしいって告白されてヨリ戻したよ」
「えー!よかったー!私まで嬉しい!」
紗知はスマホ越しでもわかるくらい興奮した様子で言って、そのまま言葉を続けた。
「じゃあ誘いやすい!」
「何?」
「私たち夫婦とヒナとアユムくんのカップル四人で旅行行かない!?」
「旅行?」
青天の霹靂みたいな言葉だった。
「うん!私の叔父が伊香保でホテルの経営始めてさ、まだオープンしたばかりだから知り合いに泊まってもらって感想聞きたいんだって!宿泊費無料でいいって!」
声が、縁日で見かけるスーパーボールみたいに色づいて、弾んでいた。
「久しぶりに四人で遊び行きたいなと思って!ねぇ、行こうよ!」
アユムと旅行。まだ見たことがない世界だ。
一日がふっと終わる頃の飾らないアユム姿や、一日が始まるように眠そうに目をこするアユムの朝の顔が見られる。
行きたい。でも行きたくない。行きたい。行きたい。行きたい……
「うん、行きたい」
心の声がぽろりと出てしまった。
「やった!じゃあ来週の土日ね!詳しいこと決まったらメッセージする!アユムくんには潤くんから話すって!」
「あ、でも私たち今、険悪ムード中でさ」
慌ててそう付け加えたけど、険悪なのは私だけでアユムは普通なのかもしれないと気づいた。
紗知はケラケラと笑った。
「平気平気!私たちも一年中喧嘩ばっかしてるから!私のプリン勝手に食べるなー!とか、リモコン争奪戦とか、私がトイレ入ってるのにふざけて電気消すな!とか。男っていつまで経っても子供だよね」
そんな子供みたいな喧嘩とはわけが違う。
「でもさ、きっといい気分転換になるよ」
紗知はそう言うと、じゃあねー!と、さっさと切ってしまった。
神経が細やかそうな女性らしい見た目とは裏腹に、相変わらず竹を割ったようなさっぱりとした性格をしている。
その軽さが、少しだけ羨ましかった。
もし同じ悩みを抱えていても、紗知だったらこんなにぐじゅぐじゅと悩まないのだろう。
浮き彫りになる自分の重さに目も当てられない。
普段ならもう少しサバサバした考えができるのにアユムのことになると、鬱鬱とした気持ちを連れてきてしまう。
アユムはただ、みんなに誠実なだけなのに。
アユムの愛情を疑うみたいに、本気で嫉妬してしまう自分が、いい歳をして小さな子供みたいで恥ずかしい。
気にしないか、あるいは、『これからおまえを誠実マンと呼ぶ!あ、誠実マンがまた優しくしてるぞー!』などと茶化すくらいの余裕があればいいのに。
アユムを、独り占めしたい。
手に入っているのに私だけのものじゃないからそう思うんだ。
誰かに見せたいのに誰のことも見てほしくない。
他人への優しさは小さじ一杯分で、私には有り余るくらいがちょうどいい。
利己的なのだろうか。でも、これが私なりの愛情表現なのかもしれない。
アユムとヨリを戻してから、土日のどちらかはアユムと会っていることが多かったが、この土日は違った。
私は新宿デートが尾を引いて、気まずさから会うことを躊躇っていたのだが、どうやらアユムは仕事が忙しいようで、金曜日の夜にメッセージが届いた。
『仕事が落ち着くまで会えそうにない。旅行楽しみにしてる!』
実際のところ、本当のことはわからない。
でも素直な私は信じた。信じたというより疑わなかった。むしろ、よかったとほっとした。
感情が整理しきれていないまま会うわけにいかない。かと言って、あえて会わない選択をするのも、次の土日に控えた旅行で顔を合わせるハードルを上げてしまう気がした。
だからアユムの多忙は私にとってはちょうどよかったと言える。何より、びっくりマーク付きのアユムの気持ちに、思わず顔が緩んだ。
それからは静かに日々が過ぎていった。
旅行の話を桜にすると『お土産はお土産話と饅頭でいいよ。色っぽい話とこしあん期待してる』とニンマリ笑われた。
そんなことないだろうと思いつつも、つけていく下着を気にし始めた。服装も決めかねて、その日のバイトの帰り、ひとりで池袋に出向いた。
伊香保と言えば有名な石段街。
足元はスニーカーで行きたい。ただのスニーカーじゃなくて可愛いスニーカーがいい。
ふらりと入ったDIANAで見つけた、パールとラメがあしらわれた白の春らしいスニーカー。
ひと目見た瞬間、これだと思った。
デパートでは下着売り場をうろうろし、ピンクや白の下着を手に取っては戻して、そそくさと退散した。
最後にLily BrownでMARY QUANTとコラボした白のリブニットを購入すると、不思議と胸が満たされた。少し誇らしげに二つの紙袋を腕に下げ、浮き足立った足取りで家路についた。
その夜、紗知からメッセージが届いた。
『いよいよ明後日だね~♡アユムくんを迎えに行ってから朝8時にヒナのアパートに行くね!』
『楽しみ!ありがとう♡』と短く返事をしてスマホをテーブルに置くと、今度は着信でスマホが震えた。
手に取るとアユムからだった。ドキドキした指先で通話ボタンを押した。
「も、もしもし?」
「ヒナ?久しぶり」
久々に聞いた愛しい声。穏やかで、落ち着いていて、鼓膜に優しい。
「久しぶり、アユム。電話もらえて嬉しい」
デレッとしてしまう。
あれだけ嫉妬や罪悪感に苦しんでいたのに、一瞬、そんな気持ちは溶けて消えた。
「仕事、ようやく落ち着いた。さすがに疲れた。ヒナは元気だった?」
こないだのぎくしゃくした雰囲気が嘘みたいに普通だった。
「お疲れ様。うん、元気だよ」
「へぇ。長いこと俺に会えなくて意気消沈してると思ったけど。元気そうでよかった」
皮肉めいた意地悪な言葉にさえ胸が甘く鳴る。
「寂しかったけど、こないだの気持ちをまだ少し引きずってて……どんな顔で会えばいいかわからなかった」
電話越しだからだろうか。魔法にかかったみたいに正直に話してしまった。
「素直すぎるだろ。俺もそうだったのに」
アユムは笑った。
「潤から聞いたけど、気まずいのに旅行はOKって、勝負に出たな」
「だってアユムと旅行行きたかったんだもん」
一瞬の沈黙の後、受話口の向こうで小さく笑った息づかいが聞こえた。
「嬉しいよ。あの日、ヒナの気持ちが俺から離れていくんじゃないかと思ったから」
「離れるわけないじゃん」
自然と穏やかな笑みが浮かんだけど、アユムには見えていないのがちょっと悔しい。
「それ聞いて安心した」
きっとアユムは、疲れきった顔でもそう見えない柔らかな表情を浮かべているんだろうな。そんな声だった。
会話のキャッチボール。次は私の番なのに、なんて返そう、何を話そう、そう思えば思うほど沈黙が落ちた。
「……旅行の準備した?」
話を切り出したのはアユムだった。
「ううん、まだこれから。アユムは?あ、忙しかったからまだか……」
「ああ、これから。旅行なんて久しく行ってないから準備に手間取りそうだよ」
「私も……」
大した返事ができず、また、途切れてしまう。
顔が見えない静かな沈黙は少し居心地が悪い。
それを払拭するように私は明るい声を出した。
「アユムは伊香保、行ったことある?」
「ああ、昔、家族旅行で行ったよ。石段街、夜はライトアップされてて綺麗なんだよな」
「そうなんだ。私行ったことないから、楽しみだな」
「じゃあホテルが近くて雨じゃなかったら夜歩くか」
「うん!楽しみ!」
「俺も」
その一言のあと、また沈黙が落ちた。
何か話したいのに言葉が続かず苦笑いが浮かぶ。
「……なんかぎこちないな」
アユムが軽く笑った。
「ちょっとね……」
私は認めるようにクスッと笑った。
「じゃあ旅行の日、会えるの楽しみにしてる」
「うん。私も」
「おやすみ、ヒナ」
「おやすみ、アユム」
静かにそんなやり取りをして通話を切った。
胸のわだかまりが少しだけ軽くなった気がする。
もう3月。
雪がゆっくりと解けていくように、この胸のつかえも少しずつ解けていけばいいのに。
いつもお読みいただきありがとうございます。
少し執筆のストックを作るため、次回更新まで少しお時間をいただく予定です。その間、以前執筆した別の作品を投稿予定です。
初めて書いた作品なので今作よりも拙い部分もあるかと思いますが、楽しんで頂けたら嬉しいです。




