#43 冬の新宿デート
新宿駅、ぺんぎん広場。
広いテラスの中央にはあどけない表情のぺんぎんのブロンズ像が佇んでいた。
その奥に見える柵はガラス張りになっていて、眼下には幾つもの線路が広がり、次々と電車が行き交っている。
私が使う小さな最寄り駅とは違って、人と街を繋げる大きな駅だということをまざまざと感じる。こういう街が似合うアユムを少し羨ましく思えた。
スーツ姿のサラリーマンや買い物客が行き交う中で、私はぺんぎんのブロンズ像が見える花壇の縁に座って、冬の柔らかな日差しを浴びながら、日向ぼっこをする猫みたいにアユムを待っていた。
足は閉じて、プラダのミニバッグを膝の上に抱え、背筋を伸ばす。丸まっていたら本当に猫みたいになる。
あと数日で三月だというのに、青空の下では冷たいからっ風が吹き抜け、空気も冷凍室のように冷えきっている。暖かな日差しを味方につけても、冬が最後の底力を出してきたような寒さには身震いをする。
寒いと思って選んだ華奢に見えるショート丈の黒のダウンは、こんな日の救世主だ。
両サイドのポケットにキラキラしたビジューがあしられ、ウエストにベルトも施されているから、スタイルアップも叶っている。
首元からちらりと見えるオフホワイトのニットは、大胆にも肩から袖にスリットが入っていて、ダウンを脱げば素肌が覗いている。
そしてスカートと悩んで選んだのは黒のフレアジーンズ。パンツ派のアユムに合わせたかった。
少しウォッシュ加工がされていてカジュアルだけど、ハイヒールを合わせてきたからきっとスーツ姿のアユムと馴染んでくれる。
バッグから小さな鏡を取り出して、前髪が乱れていないかチェックする。
アユムとは長い付き合いだけど、半休を取った昼デートは初めてで、なんとなくそわそわした。
前髪を整えていると、なぜか急に嫉妬のことが頭をよぎった。
昨日は、デートに何を着ていこうかという浮かれた悩みが頭の中を占領していたけど、今になってそれを思い出してしまった。
ああ、私は今日、うまく笑えるだろうか。
鏡に映る目は心許なくて不安そうだった。
そんなことを思っていると不意に影が落ちて、誰かの気配に気づいた。
「お待たせ」
聞き慣れた声に顔を上げると、穏やかに笑うアユムが立っていた。
その顔を見た瞬間、私の顔は自然と綻んだ。
「アユム!お仕事お疲れ様」
自分でも驚くくらい声が弾んで、手元を見ずに鏡をしまいながら思わず立ち上がった。
アユムの顔に見惚れていてすぐ気づかなかったけど、改めてよく見ると、アユムは黒のスーツに黒のチェスターコートを羽織って、片手には仕事用のバッグを持っていた。
仕事終わりほやほやのアユムは、まだ仕事の空気を少し纏っているように見えた。ネクタイもまだ緩めていない。そのまま私に会いに来てくれたと思うと胸の奥がくすぐったい。
嬉しさが表情に出てしまい、ふふっと照れ笑った。
「どうした?」
「今日のアユム、ちょっとかっこいいなって思って……」
「ちょっと?」
口元は笑っているのに、レンズ越しの目は冗談っぽく不服そうに細められた。
気づけば私は笑顔が止まらなかった。
「うそ。いっぱい」
アユムは安心したような表情を浮かべて、私の頬を指先で軽く撫でた。
「よかった。いつものヒナで」
「え?」
「心配だった」
アユムは低く静かにそう言って、優しい眼差しを私に注いだ。
この甘い言葉や優しい眼差しは私だけに向けられたものなのか、それとも誰にでも変わらないものなのか。
私は複雑な気持ちになったことを悟られないように笑った。
「私、そんな顔してた?」
「してた」
怖いくらい真顔で即答だった。
それくらい真剣に私を思ってくれている証拠だろうか。
「今日は最後まで笑顔でいるね」
私はアユムの手を握った。
うまく笑えているか心配だったけど、アユムの目が嬉しそうに細くなるのを見て、ほっとした。
「期待してるよ。じゃあランチしに行くか」
「うん!」
指を絡めてきたアユムの手は温かくて、私の凍てついた気持ちを溶かし始めた。
アユムに手を引かれて、駅直結型商業施設のNEWoMANへ。
迷いなく進んでいくアユムの足取りは、この場に慣れていることが伺えた。
「何食べたい?」
歩きながら訊ねられる。
何食べる?とか、何食べようか?でもなく、何食べたい?とはっきりと私の気持ちを優先して、それを言葉にして聞いてくれるところが好きだ。
「うーん……、寒いからラーメン!」
本当はラーメンが食べたいわけじゃない。
アユムの困った顔が見たくて、ちょっと言ってみた。NEWoMANにラーメン屋さんがないことはリサーチ済みだった。
案の定、アユムは苦笑を浮かべた。
「ラーメン屋はここにはないな。ラーメンがいい?」
私の嘘を真に受けて立ち止まり、本気で確認してくるこの真剣な顔も好き。
「ううん。じゃあパスタが食べたい」
あえて嘘だったとは言わないで、臨機応変な彼女を気取る。
アユムの困った顔が見れて、アユムの優しさも向けてもらえて、最後に『こいつ融通が利くな』と思ってもらえたら儲けものである。
それはポイント三倍デーみたいにお得だ。
私がそんなことを考えてるなんて知らないアユムは優しく笑った。
「了解」
アユムは短く言うと、また私の手を引いて歩き始めた。
この、胸が満たされるような優しさは私にだけ。そう思いたい。
館内に足を踏み入れた途端、さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠のいて、心を落ち着かせるいい香りが鼻を掠めた。
大きな窓からたっぷり差し込む太陽の光が、館内を明るく照らしている。
お洒落な場所で少し身構えたけど、あちこちに飾られた緑を見ているだけで心が緩むようだった。
「6階まで行くか」とアユムのエスコートでエスカレーターに乗り、6階へ。
アユムが先に乗って、私はすぐ後ろからついて行く。アユムとの距離が近い方がよくて、アユムの一段下に立つ。
アユムは手すりに軽く寄りかかるとおもむろにシャツの一番上のボタンを外し、ネクタイを少し緩めた。下から間近で見上げるその仕草は官能的で心臓に悪い。
私の熱い視線に気づいたのかアユムが私に視線を落とした。優しくほほ笑みかけられて、私の心拍数は早くなる。
そんなことアユムは知らない。
アユムの優しさを疑っていることも、アユムの他人への誠実さにうんざりきていることも。
カップに入って二層に分かれたチョコレートムースみたいに、好きという気持ちの中に疑心暗鬼が詰まっている。
つまらないことを考えてたせいで降りる時の足がもたついた。ハイヒールということも手伝って、体勢を崩しかけた。
「きゃっ!」と短い悲鳴が漏れて、先に降りて咄嗟に支えてくれたアユムの胸の中へ、私は倒れ込んだ。
一瞬だったけど聞こえたアユムの胸の鼓動。それは綺麗に正常で、乱れていたのは私だけだった。
「大丈夫?」
アユムは冷静にそう言った。
大丈夫?と聞きたいのはこっちの方だ。
突然好きな人が自分の胸の中に倒れ込んできたのに、鼓動のひとつも乱さないなんて。
そんな不満が顔に出そうになったけど、慌ててニコッと笑って体を起こした。
「うん、ごめんね、ありがとう。ハイヒールのせい」
ちょっと高いヒールに全部の罪をなすり付けた。
アユムは私の手を引いて、次のエスカレーターに乗ると小さく笑った。
「ハイヒールは危なっかしいけど、こういうアクシデントがあるならいいもんだな」
「え?」
「ヒナの髪が香ってちょっとドキッとした」
そう言うわりには、アユムの表情はどこまでも穏やかだった。
私は思考が一瞬止まって、すぐ笑顔になった。
でも今度はすぐにジトッと目を細めて唇を尖らせた。
「ちょっと?」
アユムは何かを思い出したみたいに笑った。
「うそ。いっぱい」
そのやり取りはまるで、デジャブのようだった。
六階へ到着すると、左手に見えたROSEMARY’S TOKYOに入った。
カジュアルなのにどこか洗練された雰囲気に、なんとなく身だしなみを整えたくなって、私は前髪と顔周りの髪を整えるようにそっと触った。
窓際の席へ案内されると、背の高い大きな窓の向こうには緑が広がっていて、新宿にいるということを忘れてしまいそうな景色だった。
そんな景色を見ながらダウンを脱ぐと、アユムの視線が止まり、「ヒナはそういう服が似合うから困るな」と軽く笑っていた。
メニューに載った、小難しい名前のパスタをオーダーし、昨日見たテレビの話や、近所で見かける可愛い野良猫の話なんかをしていたら、あっという間にパスタが運ばれてきた。一口食べたら美味しくて、それだけで感動。
夢中になって食べていたらアユムは笑って「うまそうに食べてる姿が好き」とさらりと言ってくれた。
そんな一言だけで嬉しくなる。
もっと私だけを見てほしい。そう思った私は、欲張りなんだろうか。
ふと手元をよく見ると、フォークに巻いたパスタさえも量が多くて自分の欲の多さが垣間見えた。
少し量を減らしてから口へ運んだ。
食事を終えて店を出ると、そのまま館内を見て回った。アパレルショップにカフェにコスメ。
どうしてもカフェの前で足が止まってしまう。
ランチにデザートも付いていて、甘いものはもう食べたけど今すぐカフェに入りたい気分だった。
でもあまりにもすぐなので、もう少し後にしようと心を鬼にして通り過ぎた。
本屋で15分くらい足止めされ、館内を一通り見終えると「サザンテラス歩くか」というアユムの提案で外へ出た。
たった一枚のガラスで隔てられているだけなのに館内で感じていた静けさがふっとほどけた。
冷たい風に頬を撫でられながら、私たちの足はサザンテラスへ歩き出した。
ビル街に挟まれた長い遊歩道、サザンテラスにはレストランやカフェが立ち並んでいて、平日の昼間だというのに様々な人で賑わっていた。
ここのイルミネーションが綺麗で、見たいなぁと思ったら、二月の中旬までらしく一足遅かったようなので、昼間の景色だけを楽しむことにした。
それだけでも不思議と心が軽くなっていきそうな気がした。
自然と会話も弾んだ。
「わぁ!あの人のコート可愛い!どこのだろ?」
「ヒナのコートの方が可愛いよ」
「あ!このお店テレビで見た!」
「へぇ。入ったことあるけどうまかったよ」
「なんかいい匂いする!お腹空くね」
「今食べたばっかりだろ」
目に入ったものをきっかけにころころと話題が変わったけどアユムは笑って相槌を打ってくれた。
「最近、仕事どう?」というアユムの問いかけで、いつかのバイトでの失敗談を話していたら、ふと思い出した。
「そうだ。桜の旦那さんね、桜の嫌な気持ちわかってくれたみたい」
「よかった」
「アユムに言われた通り『私を安心させて』って言ったら伝わったんだって。アユムにお礼言っておいてって言われたよ」
「そんな大したことしてないけど。俺で良ければまたいつでも聞くよって言っておいて」
アユムは笑みを浮かべながら何気なく言った。
心が鉛をつけられたみたいにゆっくり沈んでいく。
『わたし以外の人にそんな優しい顔見せないで』
喉まで出かかったその言葉は、飲み込んだ。
黙り込んだ私を不思議そうに、アユムがそっと顔を覗き込んだ。
「ヒナ?」
名前を呼ばれて、はっとする。
「う、うん。伝えるね」
ぎこちない笑顔になってしまった。
「……ヒナ、もしかして」
「あ、アユム!スタバ行きたい!」
私はスタバを見つけると、アユムの言葉を遮るようにして慌てて明るい声を上げた。
「ねぇ、行こう?」
甘えるように繋がれたアユムの手を少し引っ張ると、アユムは何か言いたそうに私を見つめた。
けれど結局、何も言わなかった。
「……ああ」
アユムは短く返事をして、私と一緒にスタバの方へ歩き出した。




