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#42 言えない気持ち



翌日になっても、胸に残るわだかまりは消えないままだった。

昨夜はお酒の力を借りてそのわだかまりを消そうとしたけど、無駄な抵抗だった。お酒を口にすればするほど、桜に向けたアユムの優しい顔ばかり浮かんできた。その顔は私が知らないアユムみたいで寂しささえ覚えた。


アユムは誰にでも優しい。

昔、ディズニーランドのアトラクションで私たちの隣の椅子に小さな子供が座っていた時、子供の隣にお母さんを座らせてあげようとアユムが言い出して、私たちの席をその子供の母親に譲ったことがあった。

私はその場所が良かったから余計なことをするアユムに腹が立った。

そういうことは一度じゃない。

エレベーターを降りた時、乗り合わせた高齢者の方に気がつくと、アユムはわざわざ外からエレベーターのドアを押さえてあげていた。

その時は、混み合うスイーツ店に早く行きたくて急いでいたのに、アユムの気遣いと優しさのセンサーは困った人を見過ごせない。

会社でもそうだ。

女性社員からお土産やちょっとしたプレゼントをもらえば「ちゃんとお返ししたいんだけど何かいいかな」と真剣に悩んでいた。そんなことに真剣にならなくていいのに。


私が自己中心的なのかもしれないけど、アユムが誰かに優しくする度にイライラした。

誰にでも同じように誠実だから好きになったはずなのに、その誠実さに嫉妬してしまう。


だから桜が相談した時も。あの優しい眼差しは私だけに向けられているものじゃないんだと思ったら、自分の位置が揺れた気がした。

私だけの何かってあるのだろうか。

考えてもわからない。

朝になっても居座っているそんな気持ちを抱えたまま、憂鬱な気分でバイトへ出かけた。



「あ、ヒナ~!おっはようさ~ん!」


バックヤードで顔を合わせた桜は驚くくらい晴れた顔をしていた。

弾んだ声で私にそう言いながら鼻歌なんて歌って、エプロンの紐を結んでいた。


「藤宮さん、本当に今日はご機嫌ね」


先輩が横でクスクス笑う。


「はい!今日も一日頑張りマンモスです!」


ふざけたことを真面目な顔で言う桜は、昨日とはまるで別人のようだった。


「藤宮さん、そのテンションで開店準備もお願いね」


先輩の言葉に、はい!と桜が返事をすると、先輩は一足先にバックヤードを出ていった。

私はロッカーのドアを開けて、制服に着替え始める。


「おはよ、桜。何かいい事でもあった?」


お気に入りのニットを脱いで白いシャツに袖を通しながら桜に声をかけると、桜は突然抱きついてきた。


「ヒナ~!ほんっとにありがとう!感謝してる!」


桜はそう言って苦しいくらいに抱きしめてきた。

中途半端な身なりの状態の私は焦った。


「え?ちょっと、なに?」


「アユムさんに言われた通りに『安心させて』って優也に言ったら、伝わったの!『不安にさせてごめん』って言ってくれた!優也にとっては大進歩!」


「へぇ……よかったじゃん」


さりげなく、身体を離した。

桜は話すことに夢中で気づいていない。


「もう会わないようにするって!」


桜は満面の笑みを浮かべた。


「私が嫌だってわかってくれたみたい!」


自分のことのように一緒に喜んであげたい。

でも言葉は喉につかえるし、気持ちも動かなかった。笑顔なんて引きつっている。


「アユムさんてすごいね!頼りになるなぁ。お礼言っておいてね」


シャツのボタンを掛けながら、ますます顔が強ばる気がした。

今、桜の口から出るアユムの名前は聞きたくなかった。


「また優也と何かあったらアユムさんに相談したいな~」


「だ、だめ!」


思わずそんな言葉だけは、口をついて出てしまった。

私は今きっと、おもちゃを取られて泣きそうになる子供みたいな顔をしているかもしれない。

桜が驚いたような顔をしている。


「え?」


「あ……ほら、友達の彼氏に相談してるなんて旦那さんが知ったら、いい気持ちしないかもしれないし……アユムも忙しいし……」


慌てて取り繕いながら、畳まれたエプロンを広げる私を見て、桜はからかうような笑みを浮かべた。


「ははーん。もしかして嫉妬?」


私は黙ってしまった。

嫉妬。言葉にしてしまえばそうだった。

でもそんな単純なものではない気がした。


私が視線を逸らしてエプロンの紐を結んでいると、桜は“嫉妬”と受け取ったみたいだった。


「やぁね。取って食べたりなんてしないから安心してよ。素敵だな~とは思うけど恋愛感情はないよ」


そういうことではなかった。

桜に敵対心を抱いているわけではない。


「そうじゃなくて……アユムって誰にでも優しいからモヤモヤしちゃったの……」


胸の奥にしまいこんでいた気持ちを、私はためらいながら口にした。

アユムの長所を短所のように見ている自分が嫌だった。


「あー。そっちかぁ。かと言って、周りに優しくない男もやでしょ?」


「それはそうなんだけど……なんていうか、私に配慮しつつ周りにも優しくしてって感じ」


「わからなくもないけど、それってわがままよね」


桜はヘアゴムを口にくわえて、髪を後ろでまとめ始めた。


「じゃあ、ヒナも言ってみたら?『私を安心させて』って」


自分がいい結果になったから、桜は簡単そうに言う。

髪を結んだ横顔はすっきり上がった口角がよく見えた。


『私を安心させて』。

それは私にも必要な言葉なのだろうか。




今日は散々だった。

お客のオーダーを聞き間違えて提供し、中身が入ったグラスをひっくり返し、作ったばかりのサンドイッチを床に落とした。

何をやってもうまくいかない。

順調な恋愛が原動力の私にとって、今置かれている状況はわりと最悪だ。

それは仕事の出来に表れるからよくわかる。

それでも反省の気持ちよりも、炭酸水の気泡みたいにアユムの顔が浮かぶ。

ところ構わず優しさを振り撒き、私をこんな気持ちにさせて憎たらしいのに、アユムに会いたくなる。


バイトから帰ってシャワーを済ませると、テーブルに置かれたスマホを手に取った。

電話帳を開いて、一番上に出てきたアユムの名前に触れる。

そのまま電話をかけてしまおうか悩んで指が止まった。


『何かあったら電話して』と言われて別れた。

桜のことを報告しようか。今日の失敗談を話そうか。

でもそんな口実がなくても意味なく電話をしてもいいのだ。

何事もなかったかのように電話をして、デートに誘って、アユムとまた会えば、この気持ちもなかったかのようになるだろうか。


エイッとアユムの番号に触れると、コール音が鳴った。四回目で途切れた瞬間、アユムの声が鼓膜をなぞった。


「はい。ヒナ?」


短い言葉なのに、アユムの声には私を落ち着かせる周波数でもあるのだろうか。聞いた瞬間に張り詰めていた胸がクタッと崩れた。


「アユム?今、大丈夫?」


「ああ。電話もらえて嬉しいよ。どうした?」


「どうもしないよ。アユムとデートしたいなと思って電話したの」


アユムはクスッと笑った。


「唐突だな。何かあった?」


「何もないよ……ただ会いたいだけだよ」


事実だった。

会って顔を見て、いつもみたいに笑い合えれば、この嫉妬心はリセットされるかもしれない。そう思った。


「昨日の帰り際のこと、話したくなったのかと思った」


昨日のことを少しも忘れられなかったというような口ぶりだった。

ちゃんと私を気にかけてくれていた。

その優しさに触れると、悩まされていた心がすっと晴れる。

でも、アユムの優しさはいつも私以外の誰かにも向いていることを思い出す。

そう思うと一瞬で心に雲が覆った。


「あれは……もう忘れて。大丈夫だから」


本当は全然大丈夫じゃない。

嫉妬の塊みたいなものが胸の奥に引っかかっていて取れそうにない。

声が沈みかけて、慌てて明るい声で続けた。


「それより、次はいつ会えそう?」


「ああ、そうだな……明後日の午後かな。一時頃に仕事が終わって半休取れる予定だから」


「明後日ならバイト休み!じゃあ午後から会おうよ!新宿デートしたいな。ランチしてカフェでスイーツも食べて夜ご飯も一緒に食べて~、それから~……」


勝手に話を繰り広げていると、受話口の向こうからクスクス笑う声が聞こえてきた。


「食べてばっかりだな」


そう言われて、私は急に少し恥ずかしくなってしまう。


「じゃ、じゃあ、一時過ぎにぺんぎん広場のブロンズ像の前で待ち合わせね!」


「わかった」


「それじゃまたね」


アユムの返事を聞いてから静かに通話を切った。

何もなかったみたいに、とはいかなかったけど、意外にもすんなりとデートに誘えた。

この調子でデートを楽しんで、つまらない嫉妬なんてすんなり忘れよう。



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