#40 居場所
「じゃあ、アユム君、ヒナちゃん。さようなら」
京香さんは凛とした声でそう言って、パーティーの人混みの中へ消えていった。
未練も誘惑もないあっさり引いていく様子に、私はほっと胸を撫で下ろした。
「……で?どうだった?」
不意にアユムが聞いてきた。
「え?」
「元カノに実際会ってみて」
私は少し考えた。
綺麗で、大人で、優しかった。思っていたよりずっと。
「いい人だった。変な心配することなかった」
そう答えると、アユムはどこか安心したように息をついて笑った。
「アユムはどうだったの?久しぶりに会ったんでしょ?何か感じた?」
聞きたくないのに、気になって聞いてしまう。
「なにも」
無表情で短かく答えたアユムを、私は無意味に突っつきたくなった。
「でも本当にすっごく綺麗な人だったな~」
「そうだな」
「仕事もできそう」
「できたよ」
「おまけに優しそう」
「優しかった」
「アユム~……」
京香さんを褒めるアユムが面白くなくて、私は思わず、唇を尖らせて不服そうな声を上げた。
「そんな顔するなら聞くなよ」
アユムは困ったように笑った。
京香さんと別れたあとは、代わる代わるアユムの同僚や上司にまで声をかけられて、「彼女さんですか?」からの「はい」と答える尋問ラッシュだった。途中、仕事の話になって退屈したので「お手洗い行ってくるね」とアユムに耳打ちすると、お手洗いへ行くふりをしてビュッフェの方へ向かった。
不安から解放されて身軽になった私は『ドルチェ』と書かれたビュッフェのゾーンを攻めた。
数種類の小さなスイーツたちが等間隔にお行儀よく並んでいる。ラズベリーのムースにレモンケーキ、いちごのタルトやピスタチオのモンブラン。
それらをプレートに可愛く盛り付けるだけで満足したけど、それを口に運ぶと口の中に幸せが広がった。
そんな私は完全におのぼりさんのようになっていたに違いない。ちょっと恥ずかしい。
それでもスイーツに伸びる手は止まらず、今度は小さなショートケーキを掴んだ。
「なかなか戻らないと思ったら、やっぱりここにいたか」
近くで聞こえた聞き慣れた声に、危うくケーキを落としそうになった。
振り向くと、呆れたように笑うアユムがすぐ後ろに立っていた。
「お手洗い行ってくるなんて、嘘だろ?」
見透かされて、ちょっと焦る。
「うん、でもちゃんと戻るつもりだったもん」
「クリームつけたままで?」
不意にアユムの手が伸びてきて、口角の辺りについていたらしいクリームを、指先でそっと拭った。親指の腹がかすかに唇を掠める。その感触に甘い鳥肌がたった。
それからあれよあれよと時間は過ぎていき、会社設立から今に至るまでの歩みを振り返るムービーが流れたり、表彰式や抽選会を挟みながら、気づけばパーティーは終盤へ向かっていった。
最後は癒し系社長からの締めの挨拶。
大きな拍手に包まれながら、創立記念パーティーは綺麗に幕を下ろした。
会社でのアユムや元カノとの過去のアユム、嫉妬するアユムもまた見ることができて、私は満足気に顔を緩ませながら、アユムと手を繋いでパーティー会場を後にした。
ホテルを出ると外はまだ明るくて、時計を見ると14時を回ったところ。高い位置に登った太陽が暖かい日差しをたっぷりと降り注いでいた。
「パーティー楽しかった~!連れてきてくれてありがとう」
語尾を弾ませてご機嫌にアユムに笑いかけると、アユムも小さく笑った。
「スイーツいっぱい食べられたし、知らないアユムを知れたし、元カノのこともすっきりした」
「よかったな」
「うん。綺麗な京香さん見て、目の保養もできたしいい人そうで安心したよ」
喉に刺さった魚の小骨が取れた時みたいな爽快感に包まれていた。
「でもアユムと京香さんがお似合い過ぎて、そこはちょっとまだモヤモヤしちゃうけど」
明るく言って唇を少し尖らせた。
二人並んだ姿はファッション雑誌から飛び出したモデルのカップルみたいに美しかったから、目に焼き付いている。たぶん当分は消えやしない。
「俺たちの方がお似合いだ」
それが真実とでも言うように、アユムは揺るぎない瞳を私に真っ直ぐ向けた。
こうやって肯定してくれる彼氏がいれば、元カノなんて怖くはない。ラスボスは簡単に攻略されるのだ。
「そういえば京香、何て言ってた?」
「……アユムに結婚できないって言われて泣いたって。女泣かせ」
ちょっと非難めいて言うと、アユムの眉がピクリと動いた。
「ねぇ、アユム。もし、私が自立して強くなったら私から離れていく?」
アユムは一度、額を抑えて息を吐いた。
「……誤解があるな。京香は、俺と生きていきたい、って感じじゃなかったからだよ」
よくわからなくて、私は首を傾げた。
「結婚したいって言ってるのに?」
「結婚したい、とは言ってた。でも、俺じゃなきゃダメだって意味には聞こえなかった」
その違いを理解するのに少し時間がかかった。
結婚したい。アユムと結婚したい。
似ているようで全然違う。
アユムの声は静かだった。
「俺と人生を送りたいっていうより、結婚そのものに憧れてる感じだったんだよ。俺は必要とされたかったんだ」
そう言われて、アユムの結婚に対する思いの輪郭がぼんやりと見えてくる。深い眠りから覚めた時、焦点が合わないあの感じ。
私のぼやけた視界を整えるみたいに、アユムは言葉を続けた。
「相手の人生の中に自分の居場所が欲しいっていうか……俺がいてよかったって思われる関係が欲しかった」
相手の中にある居場所。
私はそれをちゃんとアユムに与えられているのだろうか。
「京香とは同じ職場で、共感しあえるとこもあったけど……その分、無意識に張り合うこともあってさ。気が休まらなかった。今思えば、あれも理由の一つだったんだろうな」
アユムはワイシャツのボタンをひとつ外して、ネクタイを緩めた。
「だからヒナが自立して強くなったとしても離れていかないよ」
信号待ち、風に煽られた私の髪を直すアユムの指先が肌に触れる。
「居場所があれば?」
からかうみたいに聞くと、アユムは少し睨むように目を細めながら微笑を浮かべただけで何も言わなかった。
「ねぇ、もう一人の元カノは?」
「ん?……ああ、高校生の頃。もう大昔だから言われるまで忘れてた」
「メンチ切りたいから会いに行こう?」
どうやら私は京香さんと会ったことで、元カノと対峙する自信がついたらしい。
するとアユムは堪えきれず笑った。
「連絡先なんて知らないし、女の子がメンチ切りたいなんて言うな」
アユムは私の頬をむにっと掴んだ。指の軽い圧力で唇が縦に変形する。
「冗談らよ」
上手く喋れないまま柔らかく笑ったけど、結構本気だった。
「俺も心配したほうがいい?」
「なにを?」
「ヒナの元カレ。たしかいたよな?人数までは聞いたことなかったけど……何人いる?」
言葉とは裏腹な、この余裕そうな顔を崩したくなる。
「うーん、100人!」
思わずだいぶ盛りすぎた。さすがに現実味がなさすぎる。5人くらいのほうがリアリティがあったかも。
「すごいな。100人か」
「みんなイケメン。でもアユムが一番イケメンだよ」
「それはどうも。……それで?本当は何人?」
「5人」
私は即答した。
「ヒナ」
すかさず、隣から疑いの眼差しが降ってくる。
「……高校生の頃にたったの一人」
アユムは静かに息を吐いた。
「……一人でよかった」
「え?」
「5人もいたら、さすがに心穏やかではいられないから」
アユムの横顔から余裕が少しだけ消えた。その顔を見て、私の意地悪な心が熟した。
アユムのそんな顔がもっと見られるなら、5人くらい元カレがいればよかったのに!と悔やんでしまった。私は少し性格が悪いかもしれない。
「それに後悔もしただろうしな」
「何を?」
「もっと早くヒナと出会いたかったなって」
余裕の戻った微笑みに添えられたその言葉は、ストレートな嫉妬より何倍も私の胸を打ってきた。
そんなことを言われたら何も言い返せない。その嬉しさに思わず言葉を失った帰り道だった。
いつまでもその余韻に浸っていたかったのに、池袋で電車を降りた時に届いた桜からのメッセージで、それはあっけなく吹き飛んだ。
『今から出てこれる?池袋東武タカノフルーツパーラーで話したい!!』
語尾についた二つのビックリマークが、桜の殺気立っている感情を物語っていた。
私はアユムの手を引いて人の流れから外れると、素早く返事を返した。
『何の話?アユムと一緒でパーティーの帰り道。今、ちょうど池袋着いたところ』
返事待ち、浮かない顔でスマホを眺めているとアユムが顔を覗き込んできた。
「何かあったのか?」
「あ……バイト先の仲良い友達がね、今から池袋出てこれる?って。なんか話があるみたいで……」
そこまで言うと桜から返事が来て、私はスマホの画面に視線を落とした。
『旦那の愚痴!!!じゃあ今彼も連れてきて!男の人の意見聞きたい!窓際の席にいる!』
まだ誘いに乗ったわけじゃないのに私が行く前提で話が進んだ。でも三つに増えたビックリマークが怖くて行かないわけにいかない。
彼氏も連れてきてなんていう唐突な展開に、返事を打つ指が動かない。
そんな私を不思議に思ったのかアユムの声が落ちてきた。
「ヒナ?」
私はアユムを見上げた。
「えっと……旦那の愚痴聞いて欲しいって。男の意見も聞きたいから彼氏も連れてきてって言ってる」
「旦那の愚痴?」
アユムは少し意外そうな顔をしてから笑った。
「俺で良ければいいけど?」
「え、いいの?せっかくパーティー帰りなのに、締めが旦那の愚痴なんかで……」
「全然いいよ」
アユムは腕時計に目を落とした。
「まだ別れるには時間も早いしな」
「ありがとう」
私はそう言って急いで桜にOKの返事を送ると、アユムの手を取ってゆっくり歩き出した。
華やかなパーティーに出て、京香さんに会って、その後はアユムの結婚観を聞いて。それが非現実的で夢だったみたいに、桜のSOSは私を現実に引き戻した。




