#39 戦闘態勢
「こうして20周年を迎えられたのも、社員のみなさん、取引先の皆様、そして支えてくださったすべての方々のおかげです」
優しい声をした社長のスピーチは、私を微睡みへ誘うかのようだった。話が長くて退屈したわけではない。角のない穏やかな雰囲気を持った声が、社長ということを忘れさせ、子守唄でも聞いているかのようだった。
創立20周年のお礼を述べ、社員と取引先への感謝、今後の展望。時間にしたら五分程度だったのに、その間、頭の中がふわりとした。それでも、アユムの会社ってこんなに大きかったんだ…と頭の中でぼんやり思った。
「それでは皆様、グラスを手にお取りください。Central Link株式会社の更なる発展を願って──乾杯!」
そのまま流れるように取引先のお偉い人が乾杯の音頭を取ると、みんなグラスを持ち上げて、チンと無数のグラスの音が重なった。
私たちも新しいシャンパングラスで乾杯をした。
「何か食べる?」というアユムの言葉に私は首がもげてしまうくらい頷いた。
丁寧で華やかに彩られたビュッフェは食べてしまうのがもったいないくらいの彩りだった。
でも私は何のためらいもなく、小さなスプーンに乗る、生ハムが折りたたんで挟まれた小さなシューを一口で食べた。口いっぱいに頬張る姿を見たアユムは「ハムスターみたいだな」と言って笑った。小動物に例えられるのは、可愛いと言われているみたいで嬉しい。
「アユム君?」
不意に知らない声が聞こえてそちらを向くと、長身で黒髪を上品に後ろでまとめた、スーツ姿の女の人が立っていた。片手には赤ワイン。綺麗な顔立ちの人で、私は口の中のものを思わずゴクリと飲み込んだ。
そして私はハッとして胸元のネームカードに目を落とした。Kyouka Yanoという印字。
───元同僚で元カノの矢野は綺麗なお姉さん系。
難しいテスト問題を目の前にした学生よろしく、頭に刻み込んだ言葉が蘇った。
「京香……」
アユムのその一言で、間違いなく元カノだ……と私は察した。
それと同時に、私以外の女の人を呼び捨てで呼んだことに、胸の奥がざらりとした。
「久しぶりね。アユム君のいる会社のパーティーだから、会うかなーなんて思っていたけど」
声まで落ち着いていて大人っぽい。それにヒールをコツコツ鳴らしながら近づく姿は色気があって、同じ女として劣等感を覚える。
アユムの隣に並ぶと絶世の美男美女カップルが誕生して、眩しかった。
「ねぇ。私が取引先の会社で働いてるなんて、運命感じない?」
京香さんが冗談めかして笑う。
「感じないな」
アユムは即答してシャンパンを一口飲んだ。
「もう。冷たいなぁ」
すると京香さんは白けた顔をして、隣にいる私に視線を向けた。
「可愛い子ね。彼女?それとも奥さん?」
意味深に笑う京香さんに、アユムは小さく息をついた。
「彼女だよ」
「そうなのね」
京香さんは言葉の表面に何か隠すように笑うと、すぐに綺麗な笑顔にすり替わった。
「初めまして。矢野京香です。アユム君とは元同僚なの。よろしくね」
「桜川ヒナです。よろしくお願いします」
「ヒナちゃん……名前も可愛いのね」
私は謙遜するみたいに小さく首を振って視線を落とした。
「歳は?」
「23です」
「わあ。私より5つも若い。ご職業は?」
「カフェで働いています」
「可愛いからてっきりアイドルかと思った」
京香さんは、少し近寄りがたく見えるその顔を緩ませてふふっと笑った。綺麗でこんな冗談めいたお世辞も言える。鬼に金棒だと思った。
「付き合ってどのくらい?」
「4年くらいです」
「長いわね。ねぇ、アユム君のどこが好き?」
「えっと……優しいところとかっこいいところです」
「へぇ……そうなの」
京香さんはそう言って少し目を伏せた。
「もういいだろ、京香」
アユムがため息混じりで間に入った。
「だってアユム君がこんなに可愛らしい子とお付き合いしてるなんて聞いて驚いちゃって」
アユムは京香さんから視線を逸らした。
「正反対なんだもの」
京香さんはもっと何かを言いたそうにアユムを見ていた。
「成瀬。ちょっといいか」
突然、上司らしき人物に声をかけられた。
「はい。……悪い、待ってて」
私にそう言って行こうとするアユムを、私は呼び止めた。
「アユム……」
振り向いたアユムにそれだけ言って不安そうに見つめると、アユムは一瞬何かを考えてから、京香さんに向かって口を開いた。
「京香。ヒナとここに居てくれないか。一人にさせると心配だから」
「ええ……いいわよ」
と言いながら、京香さんは少し困惑していた。
「悪い、ヒナ。少し待ってて」
「うん。わかった」
私はニコッと笑って返事をした。
本当はこの状況を呑み込めないでいる。元カノに今カノを預けるなんて特殊だ。それでも私は平気なフリをして笑った。
アユムは少し安堵したように笑って、この場を離れた。
「ヒナちゃん、アユム君のこと頼ってるのね。そんなヒナちゃんをアユム君も大事してる感じね」
アユムが離れると、すぐに京香さんが口を開いた。
「そんなことないです……」
照れ隠しみたいに否定したけど、アユムの思いはひしひしと伝わってきていて嬉しいものがあった。傍からもちゃんとそう見えてることが、さらに嬉しい。ゆっくり顔が緩んでいく。
ちょっと俯くと、京香さんが静かに言った。
「私ね、昔、アユム君と付き合ってたの」
やっぱり。私はあまり驚かなかった。
でもこうして直接聞くと、過去のこととはいえ胸の中は穏やかではなくなって顔もみるみるうちに暗くなる。
「そうなんですね……」
「正直、あなたと私、正反対過ぎて驚いてる」
「私もです……。京香さんとの方が100倍お似合いに見えます……」
しぼんだ声の調子が戻らないままそんなことを呟くと、京香さんは驚くように笑った。
「素直な子ね」
そう言ってワインを一口飲んだ。
「でもあなたの方が大切に思われてるって、すぐ分わかったわ」
「え?」
「私が声をかける前、あなた何か頬張ってたでしょ?」
京香さんが思い出したようにクスクスと笑う。
そんなところを見られていたのか……と、私は急に恥ずかしくなった。
「そんなあなたを見つめるアユムくんの顔がね、すごく優しかったの。私にはあんな愛おしそうな顔、してくれなかったわ」
京香さんは少し悔しそうに口にして笑った。
「敗北感、感じるみたいであんまり見たくなかった」
私はもう敗北感をバケツいっぱいに浴びせられている。見たくない気持ちで言えば同じだった。
「実は……今日は元カノも来るかもしれないってアユムに聞いて、来たんです」
「あら……そうだったの」
「久しぶりに再会して、また二人が惚れあったら嫌だなと思って……それを食い止めに……」
そこまで言うと、京香さんは吹き出すように笑った。
「ヒナちゃん、面白いわね」
私が、“私は真剣です”と言わんばかりの顔をすると、京香さんは頭を横に振って静かに笑みを浮かべた。
「今さらそんな気はないわ。もう終わった恋だもの」
その言葉を聞いて、体の力が少し抜けた。
「私たち、付き合ったのは2年くらいでね、私は結婚したかったんだけど、アユム君はそうじゃなくて。二人で別れを選んだの」
すると京香さんは弱々しく笑った。
「今のあなたくらいの時よ。結婚は考えられないって言われて、泣いたなぁ」
驚いた。アユムが結婚を考えていなかっただなんて。「私、アユム君と付き合っていたの」という告白よりも意識が向いた。
アユムは、結婚願望しかない男だと思っていたのに。
「アユム君と結婚、考えてる?」
「……待たせています」
ぽつりと呟くように言うと、京香さんは耳を疑うかのような表情になって私を見た。
「え?」
「アユムに結婚したいって言われてて。でも私は結婚に臆病になって逃げてて……待たせています」
京香さんは細くて長い指を口元に当てて、しばらく放心しているようだった。
「……そうなんだ」
短い言葉だった。でもその中にたくさんの気持ちが内包されているのは、鈍感な私にでもわかった。
「私ね、アユム君に聞いたの。どうして結婚できないの?って。そしたら、“京香は俺がいなくても大丈夫そうだから”って言われたのよ」
言葉を紡ぐ口元が切なく歪む。
「自立してて精神的にも強くて頭も良くて、それって長所なのにね」
京香さんは寂しそうに笑った。
「その点あなたは、一人にさせると心配になっちゃうような子で。羨ましいわ。ちゃんと人を頼れるし必要としてるって伝えられるんだもの。私はそういうのうまくできなかったから」
京香さんは笑顔なのにどこか切ない顔で遠くを見つめている。完璧に見える人でもこんな顔をするんだ。かける言葉を見つけられずにいると、京香さんは苦笑した。
「なにより私ね、こう見えて結婚にすごく憧れがあって、いつか家庭を持ちたかったの。それが見え見えだったのかな」
やっぱり私たちは正反対なのかもしれない。
私は結婚に憧れなんて持ってない。
「悪い。待たせた」
アユムが戻ってきた。
「本当よ。待ちくたびれちゃった」
京香さんはそう言いながらアユムの腕に少し触れた。その光景を観て私の脳内は軽いバグを起こした。
「今のはヒナに言ったんだ」
「わかってるわよ」
京香さんは肩をすくめて笑った。
「ヒナちゃんに私たちのこと話したの。昔付き合ってたって」
「ヒナを不安にさせたくないから余計なこと言うな」
「あら。黙ってた方が不穏じゃない」
ねぇ、と京香さんは私に同意を求めて、私はうんうんと頷いた。
「アユム君、ヒナちゃんに結婚待たされてるんだってね」
そう言って京香さんはアユムに接近し、アユムの胸にそっと手を置いた。
「ねぇ。だったら私にしておかない?私、あの頃よりも可愛い女になったわよ?」
私は固まった。さっきは終わった恋だと言っていたのに、目の前で繰り広げられる会話はどう見てもそう見えない。
今日はこういう時のためのストッパー役として来たはずなのに、京香さんの色気に圧倒された私は一言の言葉も発せられずにいた。
「アユム君って素敵だから、何度だって恋に落ちちゃう。私ともう一度、愛し合わない?」
そう言った京香さんの口元が楽しそうに緩む。
それでいてアユムを見つめる顔は艶やかで色っぽい。アユムは少しも動じていない。
普通、こんな美女に言い寄られたら、公衆の面前とは言え、鼻の下を伸ばしたりデレッと目尻が下がったりしそうなものなのに。
アユムは煙たげな顔をして胸元に置かれた京香さんの手を軽く払った。
「ヒナの前でそういう悪い冗談はやめてくれ。愛し合う相手ならもういる」
それは自分のことだと思うと、私は一瞬にしてシュワッと溶けてしまいそうになる。
「はいはい。ごちそうさま。ちょっとからかっただけよ」
京香さんは両手を少し上げながら笑い、簡単にアユムから離れたので私はほっとした。
でも油断はできない。いつか本気で迫ってくるかもしれない。そうならないために、元カノの存在を片付けて…いや、消去しておくべきなんだ。
私が親の仇でもとるみたいな顔をして、「アユムに近づくのやめてください」と勇気を振り絞って言おうとした時、京香さんが柔らかく笑った。
「私ね、この春に結婚するの」
由々しき思考がピタリと止まった。
「へぇ。おめでとう」
アユムはそう言ってシャンパンを一口飲んだ。
「アユム君とは違って、こんな私を受け止めてくれる度量のある人よ」
「余計な情報までどうも」
「ついでに、イケメンでリッチで細マッチョ。彼からのアプローチよ。私にベタ惚れ」
「誰も聞いてないのに止まらないな」
二人のやり取りに私は思わず笑ってしまう。
「だから安心してね、ヒナちゃん。アユム君を取り返そうなんて思ってないから」
京香さんは驚くほど穏やかな顔をしていて、自分の凝り固まった警戒心が恥ずかしくなった。
戦闘態勢でいたのは自分だけだったらしい。
不安という鎧が剥がれ落ちた身体は軽くて、自然と笑顔になれた。




