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#38 連れて帰りたい



エレベーターの扉が開くとそこは、ロビーの華やかな雰囲気とは違い、少ししっとりとした雰囲気に包まれたフロアだった。高級ホテル特有の厚いカーペットが足音を柔らかく吸い込んでいく。すでに何人もの招待客が受付前に集まっていたが、控えめな賑やかさだった。

エレベーターを降りると案内スタッフが受付へ誘導していた。

「社員は先に受付なんだ。ここで待ってて」

アユムにそう言われ、私は言われた通りエレベーターを降りた通路の端の壁際で待っていた。

ここなら人の流れを邪魔せず、受付が見える距離でもある。でも、受付待ちの列には入っていない。


私は、受付に向かう人の流れを横目でぼんやり眺めていた。男の人も女の人も、みんなどことなく品が漂っていた。洗練された雰囲気を纏っているようにも見える。アユムの元カノはこの中にいるのだろうかと探ってしまう。


「あれ?見かけない顔だね?一人?」


声の方に振り向くと、エレベーターから降りてきたばかりのような濃紺のスーツ姿の男の人が立っていた。年はアユムより少し上くらいだろうか。アユムと同じくらい背が高くてスラリとしている。少し緩められたネクタイが、この場に慣れていることを自然に感じさせた。


「可愛いね。誰かの同伴?」


不思議と嫌な感じも悪意もない。ただの確認や単なる興味みたいなそんな口調だったけど、アユムと同じ会社の人だと思うと緊張感が走った。


「はい……成瀬アユムの同伴です」


「え?アユムの?もしかして、彼女?」


「は、はい……」


アユムを知っているのだろうか。そんな人に彼女と名乗るのも緊張する。


「えー。まじか。意外だな」


「意外?」


「ああ、いや、あいつの彼女ってもっと綺麗なお姉さん系を想像してた」


「そうなんですか……」


少し声がしぼんでしまう。


「同僚で元カノの矢野がそうだったから」


同僚で元カノの矢野は綺麗なお姉さん系。

ここ、テストに出るぞ~という先生の忠告みたいなその情報を、私は頭にインプットした。


「俺、昔アユムのOJTやってたんだ」


初めて聞く単語に、私は首を傾げた。


「OJT?」


「ああ、教育係。つまり、あいつの──」


「先輩。俺の彼女に何か用ですか?」


受付から戻ってきたアユムが、少し目を細めた不機嫌そうな顔で割って入った。


「おお、アユム。いや、一人でポツンとしてたから気になってさ。そしたらお前の彼女だったとはな。こんな可愛い子、どこで知り合ったんだよ」


先輩と言われた男の人は軽い口調で言ってニヤニヤとアユムを眺めた。


「友達の紹介です」


アユムはそう言いながら少し身を屈めて、私の左胸あたりにクリップでつけるネームカードを付けてくれた。

胸元を見ると「Hina Sakuragawa」と名前が英字でプリントされていた。その下に小さく「GUEST」と印字されている。外資っぽさが出ていた。


「ヒナちゃんていうのか。早く別れろよ。俺が付き合いたい」


「先輩、結婚してますよね」


アユムの顔に笑顔はない。


「あー忘れてた。でも別れたら教えろよ。じゃあね、ヒナちゃん」


その男の人はアユムの肩にポンと手を乗せてどこまでも軽い口調で言いながら、受付の列へ消えていった。


「……工藤先輩って言うんだ」


アユムはそう言いながら私の手を取った。

受付から少し離れた窓際へ移動する。


「昔、俺の教育係してて色々教わってさ。今も同じ部署で働いてる」


「そうなんだ」


短く返事をすると、頭の中では、さっきの言葉が試験前の学生みたいに忘れないように繰り返されていた。

同僚の元カノの矢野は綺麗なお姉さん系……同僚の元カノの矢野は綺麗なお姉さん系……


「なんか言われた?」


「え?」


「先輩、距離感近いから」


「うん……。“意外だな、アユムの彼女は綺麗なお姉さん系かと思った”って言われたよ」


「単なるイメージだろ。俺がそういう人を好きそうっていうだけ」


でも、元カノはそういうタイプだったんでしょ?

その言葉は飲み込んだ。


「本当に?本当に、ただのイメージ?」


「ああ」


アユムは少し笑った。


「俺は綺麗なお姉さんよりも可愛いヒナに惹かれるよ」


私の不安そうな表情を崩すかのように、アユムの指先が私の頬を軽く撫でた。

途端に表情が緩んでいく。


「それに別れる気もないから。誰にも渡したくない」


繋がれた手に力が込められた気がした。


「会場入るか」


私が笑顔で「うん」と返事をすると、二人で入口へ向かって歩き出した。



会場入口の扉の横には「Central Link創立20周年記念パーティー」と書かれた大きな看板が立てられていた。

それを眺めると、私には敷居が高いような気がして改めて緊張してくる。

深呼吸すると隣でアユムが笑った。


「食べ放題、飲み放題のレストランだと思えばいいよ」


そう言われ、少し安心したのも束の間だった。


扉の向こうに広がった会場は、想像以上に広かった。天井が高く、いくつものシャンデリアが柔らかな光を落として、壁に飾られた華やかな生花を照らしている。部屋のあちこちに白いクロスが掛けられた円卓が並び、奥には料理がずらりと並んでいた。正面にはステージが設けられ、大きなスクリーンには会社のロゴが静かに映し出されていた。人もたくさんいる。


「わぁ、すごい……」


思わず声が漏れて、視線だけをキョロキョロさせた。するとアユムが耳元で小さく言った。


「元カノ探しは禁止な」


「まだ何もしてないもん」


「顔に書いてある」


探す気でいた私はアユムに見られないようにそっとポケットから小さな鏡を出して顔を確認した。

もちろん何も書かれていない。リップも落ちてないし、顔もテカっていない。ほっと胸をなでおろして鏡をしまった。


「何か飲む?アルコールとかソフトドリンクとか」


アユムの言葉は手馴れていた。


「シャンパンにする」


私がそう答えるとアユムは颯爽と取りに行った。

よく見ると白いシャツに黒いベストを着たスタッフが飲み物を載せたトレーを持って会場内を回っている。


きっともう、アユムの元カノもいるかもしれないと思うと周囲を見回してしまう。でも、この場に溶け込むように談笑している女の人たちは、みんな綺麗で見当がつかなかった。


「ヒナ」


アユムが上品なグラスに入ったシャンパンを差し出す。


「乾杯」


アユムの低い声が落ちてグラス同士を軽く合わせると、チンと涼しげな音が小さく鳴った。

ひとくち飲むと鼻に抜けるアルコールが無駄に張った緊張感をわずかにほぐしてくれた。


「お疲れ様です、成瀬さん」


私の背後から聞こえた声に振り返ると、細身の男性社員らしき人がこちらへ歩いてきた。


「ああ、中山。お疲れ」


普段より少し低い仕事用のアユムの声に、私はちょっとドキッとした。

中山と呼ばれた男の人は私を見ると少し目を丸くした。


「奥様ですか?」


アユムがふっと笑う。


「いや、彼女」


「あっ、失礼しました!お二人、とてもお似合いですね」


「ありがとうございます」


「成瀬さん、会社じゃ結構有名なんですよ」


「やめろって」


「え?何ですか?聞きたいです」


私は目を輝かせながら思わず身を乗り出した。


「なんといっても28歳で課長代理ですから。仕事ができて面倒見も良くて。若手のエースです。尊敬してます」


アユムの初めて知る顔だった。そんな立場で働きながら、私に振り回されていたかと思うとなんだか愛おしい。


「褒めすぎだろ」


アユムは照れ隠しなのか視線を逸らしてシャンパンを一口飲んだ。


「いや、本当ですよ。あ、すみません、部長へ挨拶してきます。失礼します」


中山さんはぺこりと頭を下げると私たちの元を離れていった。

一瞬の沈黙のあと、私は静かに口を開いた。


「アユムってすごい人なんだね」


「別に、普通だよ」


「私には普通じゃないよ。私なんてただのバイトだもん」


「そこが気負わなくて楽だし、守ってあげたくもなるんだよ」


よくわからなかったけど、守られたい欲が強い私はとりあえず喜んだ。


「あとね、奥様ですか?って言われてびっくりした」


ふふっと笑うとアユムもつられたように笑った。


「そうなってくれる日を待ってるよ」


優しい微笑でそう言われてハッとした。

結婚するかどうかを、私はまだはっきり答えていない。最近は、アユムとヨリを戻したことに浮かれていて前ほど結婚のことで悩まなくなった。

だからすっかり忘れていたけど、アユムは今でもちゃんと待ってくれているんだ。

そう思うと良心が少し傷んで、心なしかアユムの微笑さえ切なく映る。


「ん?どうした?」


私は何か言いたそうな顔をしていたのかもしれない。


「ううん、別に」


そう言ってシャンパンで喉を潤わせた。


「よお、アユム!お疲れい」


随分とラフな声が背後から飛んできて振り返ると、少し明るめの茶髪の男の人が片手を挙げてこちらに歩いてきた。


「おお。お疲れ、圭吾」


「あれ?もしかして彼女?」


「ああ」


「初めまして。アユムの同期の桜井圭吾です。よろしく」


軽いノリに対して桜井さんは礼儀正しかった。歯並びのいい白い歯を見せて笑う大きな口元が印象的だった。


「桜川ヒナです。よろしくお願いします」


小さくお辞儀をして愛想良く笑ってみせた。


「可愛いな。連れて帰りたいわ」


桜井さんはふざけて、アユムに懇願の眼差しを送る。

冗談が通じていなさそうな表情を浮かべているアユムは、呆れたように視線を流して、人差し指でメガネのブリッジを押し上げた。


「ヒナちゃんいくつ?」


「23です」


「へぇー、若いねー。仕事は?」


「カフェでバイトしてます」


「似合うなそれー。ていうかさ桜井と桜川、“桜”がおんなじ!運命じゃない?」


桜と同じことを言っている。私はおかしくなってクスクスと笑った。


「いや、ほんとに連れて帰りたくなるな。アユムなんて置いてっちゃってさ、今日は俺と一緒に帰らない?」


桜井さんが自分を指したジェスチャーをしながら少し距離を詰めてくると、アユムはその肩に手を載せた。


「圭吾、いい加減にしろよ」


アユムの、レンズの奥の目が鋭く光っている。


「わかったわかった。じゃあヒナちゃんまた今度ね」


桜井さんはそう言うと、ひらひらと手を振ってどこかへ行ってしまった。


「桜井さん、楽しい人だね」


何気なく言ったつもりだったのに、アユムにとってはそうではなかったらしい。


「へぇ。ああいうのが好き?」


「え?」


アユムに視線を向けると、無表情でシャンパンを少し煽り、親指で口元を拭ったところだった。

そのままじっと見つめられ、動けなくなる。


「連れて帰りたいって意味、わかってる?」


ちょっと考えてから、私はどうにか首を縦に振った。


「じゃあ、あいつに言われて嬉しかった?」


今度は即座に首を横に振った。


「嬉しそうな顔してたけどな」


アユムは手持ち無沙汰のようにグラスをゆっくり揺らす。


「そんな顔してない……」


「してた」


低く即答だった。

淡々としているのに逃げ道がない。


「今すぐ俺が連れて帰りたい」


アユムは視線を外さないまま、グラスを横の円卓に置いた。


困った私は唇を少し尖らせてアユムを見上げた。

昔からアユムに何かねだる時はこの顔をする。

子供じみているけど結構効果がある。昔からアユムはこの顔に弱かった。

アユムは小さく息を吐きながら視線を逸らすと、口元に手を宛てた。


「あー……俺、何言ってんだろ」


どこか一点をぼんやり見つめながらそう呟くアユムの横顔は珍しく困ったように見えた。


「ほんと、ヒナのことになると冷静でいられない」


アユムが恥ずかしそうに言ってシャンパンを飲み干した時だった。


「皆様、本日はご出席いただきありがとうございます」


司会者の言葉と同時に、会場の明かりが少しずつ落ちていき、ステージにだけスポットライトが灯った。


「これよりCentral Link株式会社創立20周年記念パーティーを開会いたします」


一斉に拍手が起こり、その中で私はアユムの腕を興奮気に叩いた。


「アユム、パーティー始まるよ!」


「ああ……」


力なく笑うアユムを横目に、私は光り輝く照明に照らされたステージに釘付けだった。



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