#37 ヒナ以外どうでもいい
パーティーの当日はまだ二月の半ばだというのに、春が一足早く目を覚ましたような暖かな陽気だった。
この日のために買ったくすみピンクの膝丈ワンピースは、そんな春めいたこの日にぴったりだなと思った。
アユムに恥をかかせない、アユムが恥ずかしくないと思える彼女でいたい。だから、透け感のある長い袖と、少し開いたデコルテのデザインが、どうか大人っぽく上品に見えますようにと神様に願った。
そうじゃないと元カノに太刀打ちもできない。
髪は緩く巻いて耳を見せたハーフアップスタイルに。揺れるピアスをつけて、いつも余裕そうなアユムの心を揺さぶりたい。
ニュースでは「今日は四月中旬の上着要らずの暖かさです」と騒いでいたので、冬物のコートはやめて春のトレンチコートを羽織って部屋を出てきたけど、それでも暑くて待ち合わせに行く途中で脱いでしまった。
十時、いけふくろう前は人で溢れていた。その中で背の高いアユムは目立っていたのですぐに見つかった。
髪型はいつもと同じで前髪を七三に分け、あとは後ろへ流している。ただ、サイドに一房だけ乱れているように落ちた毛束が妙に色っぽかった。
黒のスーツに見たことのないシルバーグレーのネクタイを締めたアユムは、仕事のスーツ姿とは違って大人の余裕を感じた。細いフレームのメガネがインテリを際立たせていて、その格好良さに少し離れた場所で思わず息を飲んだ。
今日はこの姿を元カノも見るのかと思うと、ちょっとした優越感と独り占めしたい気持ちが入り混じった。
「アユム。ごめんね、待った?」
近づいて声をかけると、アユムはスマホから顔を上げた。一瞬目を見開いたアユムの視線が、私の姿を上から下へゆっくりなぞった。
「……いや、待ってない。今日は大人っぽくて綺麗だな」
開口一番で褒められて、私は気分を良くした。
「アユムもかっこいいよ。直視できないくらい」
私はふざけて両手で目を覆った。
するとその手を取られて指を絡めるように握られた。
「こうして手つないで、俺の彼女ですって自慢して連れて歩きたくなる」
反則級な一言に口元が緩む。嬉しさが隠しきれない。
元カノに会うから気合いを入れてきたなんて恥ずかしくて言えなかった。
アユムと電車に乗ったのは久しぶりかもしれない。それどころか、スーツ姿とちょっとめかしこんだワンピースで乗車するのは初めてのことかもしれなくて気持ちがソワソワして落ち着かなかった。
車内は少し混んでいるせいで座れず、私はドアを背にして立っていた。その目の前にアユムも立っていて、アユムとの距離が近い。
視線をあげるとアユムと目が合って、反射的に逸らすと笑われた。
「緊張してる?」
外でこんなに近い距離、緊張しないわけない。
答えられずにいるとアユムはまた笑った。
「ただの立食パーティーだから、好きなもん食べてるだけでいいよ」
ああ、パーティーのことを聞いたのか。と、ちょっと拍子抜けしていると、電車は一つ目の停車駅に止まり、降りる人が少ない中、大勢の人がなだれ込むように入ってきた。
その勢いにふらりとよろけると、アユムの腕が腰に回り、支えられてわずかに引き寄せられた。
「大丈夫か?」
そう言ったアユムは、ドアに軽く腕をついて立っている。まるで人の波から私を庇うみたいに。
車内は騒がしいのにアユムしか見えなくて、私たちだけ切り離された感覚になった。
「ヒナ?」
「あ、うん、大丈夫」
顔を上げて答えると、アユムは苦笑した表情を浮かべた。
「俺は結構必死だけどな」
「え?」
アユムが少し身を屈めた。
「……こんな近くにいるとキスしたくなる」
耳元で低く囁かれた声に、顔の熱が一気に上がっていくのがわかった。
でもアユムはすぐにふっと笑って耳元から顔を離した。
「冗談。緊張ほどけた?」
そう言いながらも腰に回されている腕は離れない。私に注がれたままの視線も熱っぽくて、冗談だとは思えなかった。
喧騒の中、気づけば私は目いっぱい背伸びをして、両手でアユムのスーツの下の襟を軽く引っ張ると、私を見下ろすアユムの唇に自分の唇を一瞬重ねた。
誰も見ていない。みんな下を向いてスマホをいじったり、相手との会話に夢中だった。
私はニコッと笑った。
「うん。緊張ほどけた」
アユムは驚いた表情を浮かべたかと思うと、ドアについていた腕を引っ込めて額を押さえながらため息をついた。
「ヒナ……それは反則だろ」
アユムの言葉の意味を考えていると、座席に座って外を眺めていた子供が「高いビルがいっぱーい!」と騒ぎ始めたので私も振り向いて外を眺めた。ちょうど新宿の高層ビルの群れが流れていくところだった。
「アユム、ビルがいっぱい」
肩越しに振り向いて子供じみたことを言う私に、アユムは身を屈め、目線を合わせて外を見た。
「俺のオフィス、あのへん」
指さされた方向に目を向けた時、頬にアユムの唇が一瞬触れた。外の景色どころではなく目を丸くしていると、アユムは口元だけで軽く笑った。
「さっきのお返し」
甘い報復。不整脈みたいに脈が跳ね上がる。心臓に悪い。こんな調子で今日一日、アユムの隣で恥ずかしくない彼女でいられるのだろうか。
都市の中に溶け込むように佇んだホテル。
そのホテルの自動ドアを抜けると、煌びやかなロビーが私たちを出迎えてくれた。高い天井からは複数のシャンデリアが繊細な光を放ちながら下がり、足元には大理石の床が広がっている。
異世界に足を踏み入れたかと思うほど、普段見ている景色とはまるで違うそこは、高級とは言い足りないほどの上質な雰囲気があった。
こんなところでパーティーをする会社に務めるアユムはやっぱりハイスペなんだと痛感する。
その本人はこの光景を見て、特に動じる様子はない。モールへ訪れた時と同じ顔をしていた。
「会場はたしか八階だったな」
アユムはいつもと変わらない落ち着いた様子で言い、私の手を引いたままエレベーターへ向かう。
パーティーの参加者らしき人たちでほどよく混んでいる中を縫うように進んでいくと、スーツ姿の男の人たちと目が合っては逸らされた。きっと、田舎者のオーラがこの高貴なシャンデリアに負けないくらい安っぽい光を放っているせいだと自分を呪った。場違いなんだと胸の奥が縮こまる。
「ヒナを連れてきたのは間違いだったかな……余裕でいられそうにない」
「え、私やっぱり恥ずかしい?ごめんね。こういう場、慣れてないから」
「そういう意味じゃなくて。可愛いから心配って意味だよ」
大きな手が私の頭に優しく乗る。
アユムは灼熱の太陽みたいで、私はその熱に溶かされるチョコレートみたいだった。体も心も溶けそうになる。
「そういうアユムこそ。絶対また、逆ナンされそう。……ほら」
エレベーターホールでエレベーターを待つ私たちの隣を、ドレスアップした女の人二人組が今にも「かっこいい!」と言いそうに口元を押さえながら、アユムをチラチラ見て横切っていく。
「わかった?アユムってすっごくモテるんだよ」
アユムはわかったのかわからないのか、どっちつかずな顔をして小さく笑った。
「俺、ヒナ以外どうでもいい」
その言葉に感動する暇なく、チンと音を立ててエレベーターが開いた。何人かの後を追いかけるようにして乗り込むと、扉が閉まって静かに上へ上へと登っていく。
ヒナ以外どうでもいいと言われた私の気持ちも、エレベーターと一緒にどこまでも舞い上がっていくようだった。




