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#36 元カノの存在



「ねぇ。もうほんと男ってわかんない。こればっかりは許せな───」


「アユムとヨリ戻したの!」


私は満面の笑みを浮かべて桜の言葉、もとい、旦那の愚痴を遮った。


日曜日。モール内に最近オープンしたカフェはガヤガヤと賑わっていて、私たちはカウンター席の隅にどうにか席を見つけて横並びに座っていた。

「旦那と喧嘩したから買い物付き合って」と桜に誘われて来たけど、話を遮られた桜はちょっと不機嫌そうに、口元に運ぼうとしたコーヒーカップを静かにソーサーに戻した。


「は?とっくにヨリ戻してたじゃない」


「昨日、告白されたの。今度はちゃんと付き合ってくれる?って」


私はミルフィーユの上に乗った雲みたいに真っ白なクリームを、フォークですくって口へ運んだ。今の気持ちみたいに甘い。


「へぇー。そりゃよかった」


桜はコーヒーを飲みながら生気のない目で心にもないことを言う。


「もー。真面目に聞いてよ。私だって桜の愚痴、たくさん聞いたじゃん」


「話し足りないわよ!すっごく頭にきてるんだから!」


桜の目に恐いぐらいの生気が戻った。


「男なんて結局一人の女じゃ満足できない生き物なの。よくわかった。あんなヤツ最低!」


「浮気したわけじゃないんだから……」


私は、ザクッと音を立ててミルフィーユにフォークを入れながら簡単にそう言ったことを後悔した。桜が私に向かって牙を向いてきたからだ。


「心の浮気よ!私に内緒で元カノと食事したなんて、体の浮気よりタチ悪い!」


鼓膜が破れそうなくらい大きな声は、カフェの喧騒に簡単に紛れた。

桜はハァッと強めに息を吐いた。


「優也のやつ、私に気づかれたら、“向こうからしつこく連絡来て断れなかった~”って被害者ぶってさ。ヒナも気をつけた方がいいよ」


そう言った桜の目は殺気立っていた。


「アユムのこと?たしかに逆ナンされてモテるけど……」


「そうじゃなくて、元カノの存在」


「元カノ?」


「そうよ。あの見た目だもん。一人や二人……いや絶対何人かいるでしょうよ」


そう言われて言葉に詰まってしまった。

アユムの元カノ。そんな影は見えたことがなかったから、前も今も考えたことなかった。

でもきっといるはずだ。急に不安になってくる。


「その元カノが、今更ちょっかい出してきて、旦那……いや彼氏がフラッとしても、あんたは“浮気したわけじゃないんだから……”なんて呑気なこと言える!?」


迫力に押されて言葉が出なかった。


「こんなこと結婚前に片付けておくべきだった。あー腹立つ!」


桜は独り言みたいに言って、コーヒーをビールみたいに仰いで飲んだ。


「ヒナ。結婚を考えてるなら、元カノ問題だけはちゃんと片付けて……ううん、消去しておきなね」


真面目な顔で脅すように目を光らせて言う桜に、私は震えた。

元カノ……それはボタン一つで簡単に消せる問題ではない。

問題がまたひとつ増えて、いよいよ私の心はキャパオーバーになってきた。



その日の夜、アユムからの電話で少し長電話をした。桜に誘われて買い物に出かけたこと、新しいカフェに入ったこと。そんな大した内容ではない話はできたのに、元カノの話はなかなか話せずにいた。いつ聞こうか、どう聞こうか悩んでいると上の空になってしまう。


「ヒナ?」


受話口の向こうから心配を含む声が聞こえた。


「え?あ……聞いてるよ」


「じゃあ俺なんて言った?」


クールに攻めてくる声にドキマギしてしまう。


「えっと……次のデート、どこ行く?って話でしょ?」


「違う。また家デートしたいなって話だよ」


「あれ、そうだっけ」


えへへ……と笑って誤魔化した。


「なにか悩みごと?昨日はそんな様子なかったけど」


鋭いアユムに突っつかれて、ちょっとだけ口が開いた。


「あのね、今更なんだけど、アユムの過去が気になっちゃって」


「過去?」


「そう。元……」


そこからが出てこない。元カノいる?何人?どんな人?そんなことが気軽に聞けない。


「もと?」


「元……何部?とか」


これはわざとらしかったなと思ったけど、アユムはすんなり受け入れてくれた。


「中高、吹奏楽だけど」


それはそれで初耳で、アユムをもっと知るための有益情報だった。


「へぇー!どんな楽器吹いてたの?」


「サックス」


「聞いてもわかんない……」


「じゃあ聞くなよ」


アユムが呆れたように笑ったのを尻目に、私はもう一度試みる。


「あと……元……、元モテ男?」


やっぱり聞けず、よくわからないことを口にしてしまった。アユムは小さく吹き出して笑った。


「なんだそれ」


「アユム、モテたのかなって……」


「さあな。質問はそれだけ?」


「あ……えっと……。元……」


私がしつこく懲りずに聞こうとすると、アユムはためらいなく、息を吐くみたいに簡単に言った。


「元カノ?」


「へ?」


変な声が出てしまった。


「やっぱり気になってるのはそれか」


「いや……違うの……その……」


そんな子供っぽいことを気にしているなんて思われたくなくて、咄嗟にそう言ってしまった。


「違う?じゃあ、元モテ男?の次は何を聞くつもりだった?」


きっと、アユムは受話口の向こうで意地悪に目を細めている。そんな口調だった。


「それは……」


「言ってみて」


静かな低い声が優しい言葉で追い詰める。

私は観念した。


「そう、元カノのことだよ。桜に言われて気になったの」


「二人だよ。未練もないし連絡も取ってない。もう全然他人」


即答だった。聞かれたから答えるでもなく、はぐらかしも隠しもしない。私が気にしてることを先回りして答えてくれた。


「どんな人たちだったの?」


「二人ともヒナとは正反対。落ち着いててしっかりしてた」


「そうなんだ……」


明らかに声の調子が沈む。

それに気づいてアユムは笑った。


「落ち込むことないだろ。俺はヒナの天真爛漫さが好きなんだから」


その言葉に少しだけ救われた。

するとアユムは思い出したように口を開いた。


「そういえば今度、会社の創立記念パーティーがあるんだけど、元カノも来るかも」


「え!どうして?」


私はソファに沈めていた体を起こして俊敏に反応した。


「元同僚で、今は取引先の会社に勤めてるって噂聞いたから多分、招待されてると思う」


包み隠さず話してくれるところにアユムの誠実さを感じる。


でも、パーティーで再会し、思い出話に花が咲いて、桜の旦那みたいに元カノの強引な誘いとはいえアユムも結構乗り気で、そのまま食事に行ってしまったら……それを私に内緒にしたら……。

対岸の火事だと思って聞いていた桜の話よりも酷いかもしれない。想像しただけで胸の奥が煮えたぎる。桜の、牙を向いて吠えたくなる気持ちがわかった気がした。


「ねぇアユム、私もそのパーティー参加したい」


自分でも驚くくらい潔かった。


「ああ、連れて行けるけど……どうした?」


アユムの声に少しの困惑が混じる。

私は言うか言わないか悩んで、白状した。


「……元カノ、気になるもん」


絶対綺麗な人だ。才色兼備で華があって。そんな気がする。


「だからって会ってどうする」


アユムは困ったように息を吐いた。


「ストッパー役だよ。アユムと元カノがいやらしい雰囲気にならないための」


アユムの、呆れたと言わんばかりのため息が聞こえた。


「いやらしいってなんだよ。随分信用されてないんだな、俺」


「そうじゃないけど。女って時々ずるいから」


「へぇ。わりとずるいヒナが言うと面白いな」


アユムは理解に苦しむことを言って笑った。

みんなずるい。さりげなくボディタッチする女の人も、俺いけるかもと男に思わせるように弱みを見せる女の人も。アユムだってそうだ。

元カノと会えば何かしら思うに違いない。

「元気だったかな」とか「変わってないな」とか「久しぶりだな」とか。おまけに淡い思い出がひとつくらい過ぎるかもしれない。でも何にも思ってないように装って向こうからの一言を待っているんだ。褒め言葉か労りの言葉か、はたまた誘い文句か、期待する。それは私の可愛いあざとテクニックよりずっとずるい。


「ねぇ。パーティの日時と場所、教えて?」


「今度の日曜。昼11時から品川のホテルで」


「じゃあ10時に池袋のいけふくろう前で待ち合わせね」


話は流れるように進んでいく。

元カノという、ぽっと出て湧いたラスボスみたいな存在に疑心暗鬼になりつつある私は、アユムの会社のパーティに参加することとなった。



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