#35 恋人らしいこと
久しぶりに訪れるアユムの部屋は相変わらず無機質だった。でもここでアユムが生活していると思うと途端に温かさを感じる。忙しいと言っていたからもう少し散らかった部屋を勝手に想像していたけど、脱ぎっぱなしの服や靴下、埃までも落ちていない。食べ終わった食器も見当たらない。
「部屋、綺麗だね。忙しいって言ってたからもっと散らかってると思った」
部屋を見渡してからアユムを振り返ると、アユムはキッチンカウンターに惣菜を並べていた。
「結構散らかってた。ヒナが来るから今朝急いで片付けた」
「え、そうなの?」
「見せられる状態じゃなかったな」
「私、そんなに特別扱いされてる?」
「今更?別れてる間も特別だったよ」
さらっと言われて胸の奥がむず痒くなる。
そういえば別れていた時、飲み会で終電を逃した時や、須藤さんとのデート帰りに泣いていた私を、アユムはわざわざ迎えに来て家まで送ってくれた。それはもう特別でしかない。
私はキッチンカウンターに立つアユムを、後ろからそっと抱きしめた。
ずっと待ち望んでいた時間をじっくり味わうみたいに。気づいたら、アユムの胸元に回した指先にぎゅっと力をこめていた。
「アユム……もう離れていかないで」
アユムはゆっくりこちらに身体ごと向くと、私の頬を軽くつまんだ。
「離した覚え、ないけどな」
そう言われて、心も体も離れていったのはきっと私の方からだったのかもしれないと気づいた。
不意にくすぐったいような気持ちいい感覚が全身に広がった。
「ほら、飯食おうぜ。腹減ったんだろ」
アユムの優しい微笑みに、私も自然と笑顔になってしまう。うん、と言って私は上着を脱いだ。
程よく体のラインが出た淡いグリーンのリブニットワンピースがお目見えすると、アユムの視線がそれに向いた気がした。
「ん?」
首を傾げると、アユムは珍しく視線を泳がせた。
「いや……なんでもない」
「なに?絶対今なんか思ったでしょ」
「思った」
「なに?」
アユムは少しの間のあと、口元に軽く手を当ててぶっきらぼうに口を開いた。
「……その格好で抱きつかれたら困る」
その言葉の意味を理解した私は、心の中でガッツポーズを決めた。でも純粋そうに素知らぬ顔を装ってカウンターの椅子に座った。アユムの照れた顔や困っている顔が見たい。そんな悪戯心が春を待つ新芽みたいに飛び出した。
「なんで困るの?」
「……ヒナ、おまえ、知ってて言ってるだろ」
アユムは私に懐疑的な目を向けて、隣の椅子に腰を下ろした。それでも私は余裕ぶってにっこり笑い、首を傾げた。
「ん?」
するとアユムは私の方に体を向けて軽く頬杖をつくと、口の片端だけを上げて笑った。
「聞きたい?どうして困るか。教えてやろうか」
攻守逆転。アユムの反撃。
その怖いくらいの色気にツーッと冷や汗。
私は全力で首を横に振った。
「俺に勝てると思うなよ」
アユムはふっと得意そうに笑って、そのまま前に向き直ると惣菜に手を伸ばした。その横顔が少し憎たらしくて、私は意地で引き下がれない。
「嘘。やっぱり教えて。聞きたい」
アユムのシャツをキュッと引っ張る。
「ねぇ、なんで困るの?ねぇアユム」
「もういいだろ。 うるさい」
アユムは私が欲しかった、困ったみたいな顔で笑う。
「刺激されちゃう?」
からかうように聞くと、アユムは私を一瞥してから一口大に切り分けただし巻き玉子を箸先で掴んで私の唇に押し当てた。
「黙れ」
窘める口調も、唇に触れただし巻き玉子も、優しいくらい柔らかい。口を小さく開いて一口かじった。溶けるみたいに崩れて、卵の甘みが口の中に広がっていく。
「おいしい」
表情までとろける。アユムは私の歯型がついた残りの卵焼きを、当たり前のように自分の口に運んだ。そんなアユムを見て恋人に戻ったことを実感すると、胸の奥までもとろけてしまいそうだった。
「ローストビーフも食べたいな~」
ちょっと甘えた声で言ってみる。
アユムはローストビーフ丼の蓋を開けると私の前に静かに置いた。
「違うの。アユムに食べさせて欲しいの」
少し唇を尖らせて甘えた視線を送る。
アユムは、はいはい……と口元を緩めながら箸でローストビーフ丼をすくった。
赤みを帯びた柔らかそうなお肉と艶々な白米。
近づいてきて、口を開けて待っていると、ローストビーフはユーターンをしてアユムの口に入ってしまった。
「うまいな」
アユムの顔が、ほろりとほころぶ。それを見るのは眼福だけど、今はそうじゃない。
「もぉっ。私も食べたい!」
拗ねた顔でアユムのシャツを引っ張った。
「わかったよ、ほら」
アユムは呆れたように笑って今度こそ、白米を包んだローストビーフを私の口の中へ運んだ。
口いっぱい頬張って、噛めば噛むほど濃度の高い肉の甘味がじわっと広がっていく。
幸せも相まって、この甘さに心が幸せ太りを起こしそうだ。
さらなる幸せを求めて、私は海老とアボカドのサンドイッチに手を伸ばした。
ふわふわのパンに挟まれた海老のオレンジ色とアボカドの緑色のコントラストが綺麗で食欲をそそった。大口を開けてもぐもぐ食べていると、横目でチラリと見てきたアユムにクスッと笑われた。
てっきり、ワンパクに食べている姿を笑われたのかと思ったら、スッと手が伸びてきて、アユムは指先で私の唇の横を軽く拭った。するとアユムはそれを何気なく舐めた。
「マヨネーズ。うまいな」
マヨネーズを付けて食べていたらしい。想像すると間抜けで恥ずかしかった。それはクスッと笑いたくもなる。
食後にはイチゴのタルトを。
写真映えしそうなみずみずしいイチゴたちが粉砂糖でオシャレをしている。
「あーん」
そう言って私がアユムに向かって口を開けると、アユムは苦笑した。
「同じものだろ」
「恋人らしいことしたいだけ」
やれやれ……とばかりに、アユムはイチゴをフォークで刺すと、私の口元に近づけた。でも口には入らない。弄ぶみたいにして、今度は自分に寄せていく。私は前のめりになりながら追いかける。
届かないと思って諦めて唇を尖らせると、不意にアユムの唇が重なった。イチゴを追いかけていたはずなのに捕まったのは私の方だった。
私が目を丸くしているとアユムはふっと笑った。
「恋人同士らしいこと、だろ?」
アユムは一枚上手だ。
「もっとする?」
アユムはようやく、イチゴを私の口元に差し出して爽やかに聞いてくる。
この遊びのことなのか、キスのことなのかわからなかった私は、少し赤面しながら首を横に振ってイチゴを食べた。甘酸っぱくて、甘いのに意地悪なアユムみたいだった。
気づけばカウンターテーブルの上には、空っぽの惣菜のパックが散らばっていた。それをアユムが丁寧に袋へ入れて片付けていく。
気を利かせて私が片付けるべきなのに、そこまでの気遣いは備わっていなかった。疲れているアユムにしてもらうのは少し申し訳なかったから手伝おうか一瞬悩んだあと、でもアユムはこういう時、きっと私がお礼を言うほうが喜ぶ気がして、「アユム。ご馳走様でした。ありがとう」と言ったらアユムは受け止めるように笑ってくれた。
「じゃあ次は映画観るか?」
アユムはまとめた袋の口を縛って、それをキッチンのゴミ箱へ捨てた。置きっぱなしにしないあたり、アユムらしい。
「うん!観る!」
「何観る?」
「たまにはアユムが決めていいよ」
「じゃあ……カーチェイスもの」
「えぇー。ロマンチックなシーンある?」
分かりやすいように言葉がしぼむ。
「ない。ロマンチックは俺らで十分だろ」
瞬時に、甘い妄想が頭をよぎる。あんなことやこんなこと、そんなことまで。
アユムは、にやけそうになる私をよそに「なんてな」と鼻で笑って付け加えた。
私の反応を見て楽しむアユムを小さく睨みながらソファへ移動する。
服越しに感じる革張りのソファは冬にはひんやりしていた。
私のすぐ隣に座ったアユムは、さっきよりも距離が近くて、心臓が落ち着きなくうるさく鳴る。
手馴れた手つきでリモコンを操作する指を見ているとなんだか焦れったい。早くその指で、髪を触られたり私の指と絡め合ったりしたいのに。
「始まるぞ」
アユムがリモコンをテーブルに置いて、私に視線を落とす。でもアユムはすぐにテレビに目を向けた。あまりのドライさに、消化不良を起こしそうだ。
映画の冒頭から、猛スピードで走る車が追いかけっこをして誰かが拳銃で打たれて車が爆発した。
タイヤの擦れる甲高い音や爆発音がやけに大きくて、興味があれば実にスリリングで目が離せない内容だけど、私には少し退屈だった。
こっそり隣を見ると、アユムは真面目な顔で映画を観ている。そんな顔にも見惚れてしまう。
長いまつ毛、高い鼻筋。ため息が出るほど美しいとは本当のことのようで、私が思わず小さな息を吐いたときだった。不意に肩に手が回り、抱き寄せられる。
「え?」
驚いて見上げると、アユムは画面を見たままだった。
「映画観ろ」
「見てるよ」
「じゃあどんな展開か説明して」
「うーんと……まつ毛が長くて鼻筋が高くて見惚れちゃうかっこよさ」
アユムは眉を寄せて私をちらりと見た。
「アユムって映画。28歳のイケメンインテリ男子が主役の映画見てた」
ふふっと笑うと、アユムは呆れるように小さく笑った。
「全米が泣いた?」
クールな表情に少し笑みを滲ませて、私のボケに乗ってくれるところが好きだ。
「全米が恋した」
「すごいな」
「主演俳優がかっこいいから」
「ヒロインは?」
「ヒナっていう可愛い女の子。アユムはヒナに夢中なの」
「へぇ。どっかの誰かみたいだな」
アユムは肩に回していた手に、少しだけ力を込めてさらにグッと抱き寄せた。
言葉でも行動でも肯定してくれる。そんなことをされたら好きが増える一方で、私はますます映画どころではなくなった。
それでも二時間、欠伸を抑えて過ごした。
時にはアユムの目に、いい彼女として映りたくて必死になる。復縁した直後なら尚更だ。
わりと本能のままに生きている私にとって、欠伸を我慢するのは息を止めるのと同じくらい大変なことだけど、それをやってのけた。でも涙目のせいで「随分、欠伸を我慢してくれたんだな」とアユムには一瞬にしてバレたけど。「楽しかったよ。ありがとう」と満足そうに笑ったアユムを見て満たされた。
気づけば窓の外はもう薄暗い。壁にかけられたアユムらしいオシャレな時計は17時を指していた。
「そろそろ帰ろうかな……」
名残惜しそうにぽつり呟くと、アユムは小さく息を吐いた。
「まだ帰って欲しくないけどここで止めたら帰せる自信なくなる」
「私も……これ以上いたら帰りたくなくなる」
本当はもっと一緒にいたい。言葉を交わして触れ合って、同じ時間を過ごしたい。帰りたくない。
そんな本音を言えずに空気が淀む。でもそれさえも今は愛おしい。
どんな形でもまだ一緒にいたい。それはアユムも同じだったようだ。
「じゃあどっかで飯食ってお開きにするか」
「うん!あ、じゃあ、ピザ食べたいな」
「切り替え早いな」
「さっきの映画でピザ食べてるシーンあったでしょ。食べたくなっちゃった」
「じゃあ行くか」
どちらからともなく軽くキスをして立ち上がる。
上着を着てバッグを持つと、また玄関で飽きもせずキスをしてから、日が暮れた外へ出た。
楽しくピザを食べて駅まで送ってもらって、それでも名残惜しさは消えないまま、お家デートは静かに終わった。




