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#33 満たされた夜



2月に入って、身震いするような寒さが増えてきた。外を歩く人達は首をすぼめて寒さに耐えるかのように足早に歩いている。

でも私はこの季節が好きだ。葉を落とした丸裸の木々を見ながら、春の陽射しを待ちわびてひっそりと呼吸するように過ごす穏やかな日々が、わりと気に入っている。

だから身を切るような北風よりも、アユムと連絡が取れていないこの五日間のほうが堪えていた。


デートの翌日に「昨日は楽しかったよ。ありがとう」と私が送ったメッセージは、アユムが読む前に泡となって消えたのか。ぱったりと音沙汰がないことに、アユムに何かあったのではないかと一抹の不安も抱えていた。


ぼんやりとエプロンの紐を結んでいると、隣でロッカーの鏡を見ながら身だしなみチェックをしていた桜が訝しげに私を見た。


「え、なに?どうかした?」


「え?なにが?」


きょとんとする私に、桜は笑った。


「今、特大級のため息ついたじゃん」


そう言われて、自分が無意識に大きなため息をついていたことに気がついた。


「無意識なの?どうかした?何か深刻な悩み?」


桜はパタンとロッカーの扉を閉めて心配そうに聞いてきた。


「……アユムから連絡ないの。もう五日くらい」


私は目を伏せてため息をついた。


「なんだーそんなことかー」


どっと安心を漏らした桜の声が、アユムの声を聞けず弱っている耳の奥を、容赦なく刺激した。


「飼ってる犬とか猫が死んだのかと思った。女子高生みたいな悩みでよかった」


ムッとする気力さえなかった。


「この前デートした翌日から連絡ないの。アユムは楽しくなかったのかなぁ……」


「ヒナが楽しんでれば、今彼も楽しかったでしょうよ」


デートの翌日、桜とランチへ行って、アユムとのめくるめく一日を全部話した。

私服姿がかっこよかったこと、運転している姿がかっこよかったこと、牛丼を食べている姿がかっこよかったこと、本屋で本を探している姿までもかっこよく見えたこと……。「全部かっこいいだけじゃない?それも見た目ばっかり」と桜は呆れて笑っていた。


「じゃあなんで連絡ないの」


そう言った私の目は病んでいたのかもしれない。


「たった五日でしょ?ちょっと重症。社会人でちゃんと働いてるんだから、忙しいんじゃない?」


痛烈な返事に耳を塞ぎたくなった。


たった五日。真剣に生きていれば光のように過ぎ去っていく短い時間。それなのに、見えない心の距離がまだあるせいで不安だった。


「それとも何かあったのかな……体調崩して倒れてるとか」


「そんなに不安ならアパート行って押しかけてみたら?」


桜はニヤリと笑い、私は苦笑いを浮かべた。


それはとっくに考えた。でも重いかなと思ってやめた。

前に付き合っていた頃はこんな時どうしていたかな。そもそも五日間も連絡がないことは無かったし、二、三日連絡がなくても平気だった。

それなのに私は一体どうしてしまったんだろう。

音信不通になって二日目の夜には、アユムのことを心配しすぎてぐっすり眠れなかった。

大好きなスイーツも、するりと食べられるプリンしか喉を通らない。でもなんやかんや言って、眠れてスイーツも食べている自分になんだか笑ってしまう。

それでも、アユムと結婚していれば、こんな不安はないのかな……とさえ思えてしまった。


「でもアパートへ行って知らない女と鉢合わせになっても気まずいわよね」


桜はまだいたずらっぽくニヤニヤしている。

私は桜の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。


「え?どういう意味?アユムが浮気してるかもってこと?」


「そう。なーんて、冗談よ冗談。やぁね、笑ってよ」


頬をツンツンと軽く突っつかれるも、私の表情は強ばっていった。

アユムが浮気。そんな想像はしていなかった。


「笑えないよ。アユム、モテるから、とうとうそれに自覚して女の子たらし込んでるのかも……」


そんなはずはないとわかっているのに、頭の中には、私ではない別の女の人を愛おしそうに抱きしめているアユムの姿しか、もう浮かばない。


「今彼は可哀想なくらいヒナ一筋だって」


悪い妄想を膨らます私に、言い聞かせるみたいに桜は呆れ笑った。


「……結婚すればいろいろ安心できるのかな」


ぽつりと呟くと、桜は眉を寄せた。


「安心したくて結婚するわけ?そんなこと今彼が聞いたらショック受けるわよ」


「桜が変なこと言うからでしょ!」


私はついカッとなってしまった。


「きゃーこわい。完全に恋愛に振り回されてる女って感じ」


私は調子が戻ってきて、ムッと唇を尖らせた。

桜はふっと静かになって言った。


「ねぇ、ヒナ。結婚したって、遅く帰ってきたり安心できないよ。だから信じて待つんだよ」


そう言った桜の表情は、それを経験して乗り越えてきたという、私にはできない表情をしていた。

でもすぐにまた、いつもの桜の顔に戻った。


「それか、シフトがんがん入れて仕事に没頭するとかね。ほら、仕事しよう」


桜に手を引っ張られながら、私はぼんやりしたままバックヤードを出た。




仕事中も、帰り道の電車の中も、アパートへ帰って来てからも、アユムのことばかり考えていた。

自分の日常から切り離せない。つくづく私は、恋愛至上主義だなと痛感する。

そんな自分を変えるためにも、就職はした方がいいのかもしれない。就職じゃなくても、桜が言っていたみたいに、今のまま仕事に打ち込めば、きっと、恋愛以外の世界が広がる。

それとも結婚して家庭を持ったほうがいいのだろうか。大事なものを守りながら誰かと生きることこそ、自分のくすんだ現状を磨き上げてくれるのかもしれない。


枝分かれした将来は、傷んだ髪の枝毛に形が似ている。見ているだけで重いため息が出る。



シャワーをして、スタバで買ったサンドイッチを食べて、チューハイを一缶飲んで、プリンも食べて。気がついたら23時を回っていた。今日もアユムから連絡が来なかったことに肩を落としながらベッドに入った。


少ししてから、ベッドの横のサイドテーブルに置かれたスマホが振動した。桜から慰めの電話かな……と思いながら、薄暗い部屋の中でディスプレイが光を放っているのを見て、手を伸ばす。

“アユム”の文字に、ここ数日静かだった心臓がドクンと音を立てた。緊張したまま通話ボタンを押して、スマホを耳に当てた。


「もしもし?」


「ごめん、連絡遅くなった」


心地いい声が、張り詰めた気持ちをゆっくりほどいていく。


「アユム……連絡こないから心配しちゃった」


「悪い。あれから仕事が立て込んで。疲れてたのもあってメッセージ返す余裕もなかった」


アユムは吐息混じりに言葉を続けた。


「でもようやく落ち着いて、さっき仕事から帰ってきたとこ」


「そっか……元気そうならよかった。安心した」


「心配させた?」


「少しね」


私は気持ちをサバ読んだ。


「あと……寂しかった」


「俺も。またすぐにでも会いたいよ」


「ほんと?じゃあ明日は?土曜日だし。休みじゃない?」


嬉しさのあまり畳み掛けると、アユムは小さく笑った。


「休みだよ」


優しい返事なのに、少し温度の落ちた声に、あ……と気がつく。


「体、休めたい……?」


「……疲れてるけど。ヒナには会いたい」


私は少し考えてから口を開いた。


「じゃあ外には出なくていいよ。デパ地下とかコンビニで何か買って、アユムの部屋でゆっくりしない?」


一瞬の間の後、アユムは信じられないと言うみたいに笑った。


「優しいな。昔のヒナからは想像できない。そんな気遣い誰に教わった?」


そう言われて、前に付き合っていた頃の私は、一ミリもアユムを思いやれていなかったと気づいた。

今更アユムの口から聞いて、笑いが込み上げた。


「なにそれ。私、そんなに優しくなかった?」


「いや……甘え方しか知らなかったんだろうな。それはそれで可愛かったけど」


電話越しなのに、目を細めて笑うアユムが簡単に想像できた。


「じゃあ今は?可愛くなくなった?」


過去の自分に嫉妬して、ツンとした言い方になってしまった。


「今のヒナの方が可愛くて、もっと好きだよ」


愛情たっぷりの殺し文句が耳元をなぞり、じわじわと顔がにやけていく。ふふっという、抑えきれない嬉しい笑い声まで漏れてしまった。


「それで?お家デート、する?ゆっくりできて楽しいよ、絶対」


私は思い出したように聞く。それも、“する”しか選択肢を与えないみたいにして。

会いたくて仕方ない気持ちが、言葉からぽろぽろ零れる。アユムはそれに簡単に気づくだろう。案の定、アユムは呆れたように小さく息を吐いて笑った。


「そんな誘いじゃ断れないだろ」


「それが狙いだもん」


語尾を弾ませて笑うと、アユムはぴしゃりと窘めた。


「色仕掛けは禁止な」


この前、運転するアユムの腕にさりげなく胸を押し当てたことを思い出した。デートを終わらせたくなくて甘えてみたけど、少し滑稽に思えて恥ずかしい。

今度はもっと自然に誘おうと思いながら、私は気持ちとは正反対の返事を返した。


「……わかってる」


「どうだか」


その短い返事だけで、私の下心なんて簡単に見抜いていることがわかった。

でも、見抜かれていてもいいと思った。


「明日のお昼ごろ、買い物してからアユムのアパート行くね」


「待ち合わせて一緒に買い物したいな」


私はそう言われたのが嬉しくて、包まっている羽毛布団に顔を埋めた。ふわっと柔らかくて温かい。アユムに抱きしめられているみたいだった。


「じゃあ11時に、パルコの前ね」


声が少しくぐもった。


「わかった。じゃあ明日な。おやすみ」


「うん。おやすみ」


まだ話していたかったけど、明日に楽しみを残すみたいに通話を切った。


たった五分の電話で、空っぽのシュー生地にカスタードクリームを絞り入れたみたいに、五日間会えなくてぽっかり空いていた心の穴が甘く満たされた。



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