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#32 幸せの輪郭



映画が終わると15時を少し過ぎてた。

そのまま少しモール内を歩いて、洋服や雑貨を見て回った。

映画に影響された私は、アユムの趣味にも付き合おうと思って、初めて私から、「アユム、本見たいんじゃないん?本屋行く?」と気にかけた。

するとアユムに「映画の影響力はすごいな」と見透かされたように笑われた。


本に興味がない私は欠伸を抑えながらアユムの後をついて回った。アユムは小難しい本を手に取るとパラッとめくって読んでは棚に戻し、また同じことをしていた。そんなことに時間を費やすアユムに前の私なら「まだ~?」と催促していたけど、今日は違った。

手持ち無沙汰になって、目の前に並んでいる本を適当に取って読んでみる。すぐに欠伸が出てしまい、アユムのふっと笑う声が聞こえた。


「無理しなくていいよ」


アユムを見ると、本に視線を落としたまま口元に笑みを浮かべていた。


「でも、こうやってもう一つの人生を楽しまなくっちゃ」


すなわち、苦手な文学の世界。読書だ。


「ヒナが気にしてくれて、おとなしく見せてくれるだけで、俺は嬉しい」


「……アユムは興味ない映画を一緒に見てくれたり、そこまで好きじゃない甘いものを一緒に食べてくれるよ」


アユムはパタンと本を閉じると棚に戻して、別の本を手に取った。


「喜んでるヒナを見たいから。もう一つの人生を楽しもうとは思ってない」


映画よりも深く刺さる言葉だった。

相手を喜ばせたい気持ちは、価値観の違いを乗り越えられるものなのか。


アユムはようやく選び終わったのか私の方に体を向けた。レンズ越しの目は優しかった。


「言っただろ。俺の幸せはヒナが笑顔でいてくれることだって」


軽くこつんと頭に本が触れた。


「俺のために無理に本読んで、笑顔じゃないヒナの顔見たって嬉しくもなんともないよ」


アユムを見ていられなくて少し俯くと、本の下で顔がたちまち緩んでいく。


「まぁたまには本屋も付き合って欲しいけど」


「うん!」


私は顔を上げて笑顔を見せた。アユムも笑う。

この幸せな連鎖が愛おしくて、私はもっと笑おうと思った。



アユムの長ったらしい本選びのあとは、カフェへ入った。乾いた喉を潤したくてアイスコーヒーを注文した。

偶然空いた壁際のテーブル席に座り、コーヒーに小さなシロップを二つ入れると、ストローで軽くかき混ぜて吸い上げた。私は声にならない声を上げてから、口を開いた。


「ん~!おいしい!映画も本屋も楽しかったね」


「新しいヒナが見られてな」


そう言ってアユムは湯気のたつ熱そうなコーヒーをすすった。


「新しい私かぁ」


「ん?」


「最近ね、就職とか考えてる」


「急だな」


アユムは少し驚いた顔でコーヒーを置いた。


「うん。この前、先輩たちとランチした時にそんな話になったんだ」


「でもヒナ、ちゃんと働ける? 」


「どういう意味?」


「嫌なことあるとすぐ顔に出るから」


そう言われてむっとして唇を少し尖らせると、アユムが面白そうにクスクス笑った。


「その顔。本当にすぐ出るな」


私はちょっと恥ずかしくなってコーヒーを一口飲むと、むくれた顔をなかったことにするみたいにニコッと笑顔を作った。


「アユムはどう思う?」


「結婚を考えてるなら無理して働かなくてもいいんじゃないかとは思う。子供とか考えたら働き方もまた変わるだろうし」


「ああ、そっか……」


私はグラスを持ってストローをくわえて視線を落とした。そこまで先のことは考えていなかった。

急に将来が枝分かれし始めて焦った。


「それとも結婚しないで自分で生きていけるようになりたい?」


「そうじゃなくて……就職すれば人生の選択肢が増えるのかなって」


「へぇ。俺、選択肢から外される?」


アユムは片手で頬杖をついてからかうみたいに聞いてきた。


「そんなことないよ、結婚だって前向きに考えてる」


「でも、ヒナが一人でも平気になったら、俺のこと必要なくなるのかなって」


「そんなこと……」


「ないって言い切れる?」


アユムが言葉を被せてきた。レンズの向こうの目は少し寂しそうだった。


すぐに否定したかったのにできなかった。

自立した先の自分なんて、まだ想像できない。

言い切れない自分がひどく薄情のように思えた。


アユムは小さく息を吐くように笑うと、コーヒーを片手に背もたれに寄りかかった。


「……その‘間’、やめてくれ。不安になる」


そう言って目を伏せてコーヒーを口にする姿は、いつもの余裕がなく見えた。

そんな弱いアユムを知れたことが嬉しくて、ふふっと笑いがこぼれた。


「ごめん、でもそんな弱気になるんだ」


「ヒナ相手だと余裕なくなるんだよ。ほんとに」


首の後ろに手を滑らせて目を合わせないアユムは、動揺を悟られたくないみたいだった。

普段見せないような顔を見せてもらえたような気がして、胸が甘く満たされた。


「今のところ、アユムが一番だから安心してね」


ふざけてイタズラっぽく笑うと、アユムの何かのスイッチを押してしまったらしい。アユムは頬杖をついて目を細めた。


「ふーん。今のところ?」


レンズ越しの目が少し意地悪そうに笑ったのを見て、私はドキリとした。


「就職して自立して世界が広がったら、俺じゃ満足できないってこと?」


圧に負けて何も言えず、首を何度も横に振った。


「ちゃんと言ってくれないとわからない」


じっと見つめる逃がさないと言う目は、披露宴で嫉妬していた時と同じ目をしていた。

さっきまでの弱々しいアユムとは違っている。こんな強気のアユムにもやっぱりドキドキする。


「それとも言えない?やましい気持ちがあって」


私は黙りこんだ。

静かな圧がじりじりと追い詰めてくるけど、もっと追い詰めて欲しくなった。低い声と、責めるみたいに熱を持った目で。隠そうとして隠しきれていない不安をチラつかせながら、一層のこと、逃げられなくなるまで追い詰めて欲しい。


「俺じゃなくてもいいって思ってる?」


私はまだ答えないまま、耐えきれずに視線をゆっくり落とした。

追い詰められたいと願ったのに、どんな目だろうとアユムに見つめられるのは弱い。こんな状況でも顔が緩みそうだった。


「どうなんだよ、ヒナ」


そう言われて視線を戻すと、私は我慢するのをやめて思いきり顔を緩ませた。そしてようやく口を開いた。


「アユムがいいよ。ずっとね」


するとアユムは頬杖をやめて口元に手を当てると背もたれに寄りかかった。そしてわざとらしく小さく息をつく。


「焦らせるなよ……」


「ああいうアユムもかっこよくて、見ていたくなっちゃった」


えへへ……と誤魔化すみたいに笑って、私はストローをくわえた。


「かっこよくないだろあんなの」


アユムはコーヒーを一口飲んで静かにカップを置くと言葉を続けた。


「ヒナの気持ちを応援したいのに、ヒナが離れてくこと考えたら余裕なくして。いつでも余裕でいたいけど無理……」


目を伏せ自嘲するアユムを、私は静かに見つめた。


「それでもヒナを思う気持ちは本気だから、頼むから揺れないで欲しい」


不意に向けられたすがるような瞳が、心に焼き付いた。懇願にも似たアユムの思いの丈は、胸の中で静かに響く。


「うん」


私は微笑むと、ありったけの想いを込めてそう返事をした。


アユムは安堵した息をつくと「そろそろ帰るか」と言って、私たちはカフェを出た。

どちらからともなく手を繋ぎ、駐車場へ向かった。



モールを出ると、外はもう夜の気配に包まれていた。

車内の小さなデジタル時計は19時を映し出していた。長い時間一緒にいるのに、体で感じていた時間は短くて、一日が24時間じゃ足りないくらい、わたしはアユムと過ごす時間に飢えているみたいだ。

結婚すれば時間を気にしないで一緒にいられる。そんな理由だけで結婚する人はどのくらいいるのだろう。


「この後どうする?」


まだ一緒にいられるといいなと淡い期待を抱きながら、運転するアユムの横顔に尋ねた。


「どっかで夕飯食べてから帰るか」


アユムの言葉に心臓がドクンと波打つ。


「帰るって……アユムの部屋?」


無邪気に聞いてみた。

アユムは呆れたみたいにふっと笑った。


「夕飯食べたら送ってく」


私は不満そうに呟いた。


「つまんない……もっと一緒にいたいよ」


「帰したくなくなるからそういうこと言うな」


アユムが優しく窘める。私は引き下がらない。

肘置きに置いていたアユムの腕に手を回し、体を寄せる。前に桜に「ヒナって細いのに出てるとこ出てて羨ましい!」と言われた胸を、ごく自然に少しだけ押し付けた。


「帰さなくていいよ。アユムの部屋行きたい。お泊まりしたい」


ささやかな色仕掛けとストレートな言葉で甘えても、アユムの口からこぼれた言葉は色気にも屈さない確固たるものだった。


「ダメ」


即答だった。


「それ以上やられると優しくいられない。俺も男だから」


力なく笑うアユムにさらりと見抜かれ、自分のしていることが少し恥ずかしくなって、私はそっと離れた。

無意識を装って胸を押し当てたのはやり過ぎだったかもしれない。


「泊めるのは簡単だけど、ケジメつけていたい」


「でもこの前はお泊まりさせてくれたよ」


「ああ……目が覚めたらヒナがいなかったあの日か。飼い猫が逃げたみたいで焦ったな」


アユムは面白そうに笑った。


「飼い猫でもないし、もう逃げないよ」


私はむくれて、車窓へ顔を背けた。

暗い中で煌々と光る店の灯りが帯になって流れていく。


「あの日は余裕なくて勢いだった……今日も多分そうなる。だから送ってく」


静かにそう言ったアユムの横顔を見て、あの日の記憶が蘇った。大胆に胸まで押し付けていたのに、急にちょっと気恥ずかしくなる。


「わかった……。じゃあ夕飯はお寿司食べたい」


まだちょっと拗ねた声で言うと、アユムは小さく笑った。


「了解」


空いている道路で、アユムはアクセルを少し踏み込んだ。




夕飯を終え、アパートまで送ってくれた車の中で、アユムにキスをされた。

唇を啄むキスは優しいのに妙に色っぽくて、アユムの大人らしさを思い知らされた気がした。

頬を包み込んだ片手からはアユムの温もりが伝わってきて、それにも酔いしれた。

そしてアユムは唇が触れ合うか触れ合わないかの近い距離で「おやすみ」と低く囁いて、私を骨抜きにした。

アユムは何でもない顔をしていた。その顔がやけに憎たらしい。


「……ずるい」


「ん?」


「そんなキスして、帰そうとしてるなんてずるい」


そう言って私は、アユムを不服そうに見つめた。

するとアユムは、はぐらかすように小さく笑って私の頭に手を乗せた。


「またな」


それ以上何も言わなかった。でもその眼差しはさっきのキスよりずっと甘かった。



部屋に帰ると、私の心は空っぽのクッキーの箱みたいだった。アユムと別れて、幸せの輪郭が一瞬にしてぼやけた。

前に付き合っていた頃は、アユムの良さをもう少し当たり前に受け取っていた気がする。それなのに、今はアユムの良さを実感している。一度別れた効能か、失恋の傷がもう傷にならぬまいと幸せを感じるための成分でも分泌しているみたいだ。


それにしても、デートから帰宅したアユムはどんな様子なんだろう。疲れてソファへ沈むのかな、それともすぐにシャワーへ向かうのかな。お酒を飲みながらデートの余韻に浸っていたりして。

結婚すれば、デートの後のアユムが見れるんだ。

それはまるで、CDを買ったらアーティストのオフ映像まで付いてくる!という特典みたいで、一人でクスッと笑った。

結婚、就職、はたまた子供のことまで浮かんできて、私の将来はどこから考えたらいいのかわからなかった。



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