#31 もう一つの人生
日曜日。凍てつく空気が少し和らいで、澄んだ冬空から柔らかい日差しが降り注いでいた。
ヘアメイクを済ませてハンガーにかかった服に手をかける。
袖だけがシフォン素材になった透け感のあるオフタートルのニットワンピースは、冬らしい寒色の淡いブルー。オフホワイトの細ベルトでウエストをマークする。
その上にベルトとリンクさせたオフホワイトのコートを前を開けたまま羽織り、足は透け感のある黒タイツと、アンクルストラップのついた高めのヒールの黒いパンプスを合わせることにした。
バッグは20歳の誕生日に“高くて良いものを長く使いなさい”と、両親にプレゼントしてもらったPRADAの黒のミニバッグ。ここぞという大事な日にだけ使う大切なバッグだ。
耳には接近戦に備えて、小さなハートがモチーフのピアスを。我ながらどれだけアユムを意識しているんだろうと、抜かりのない自分にちょっと引いた。
10時3分前、アユムから「着いたよ」と電話が来て急いで部屋を出た。楽しみと緊張がマーブル模様みたいに胸の中で混ざりあっていた。
アパートの前の路肩に停まっていたアユムの車を見つけると、私は助手席のドアを開けた。
「おはよ」
笑顔で乗り込むと、暖房の効いた空気と一緒に、穏やかに笑うアユムが甘い言葉を添えて迎えてくれた。
「おはよ。冬の妖精みたいで可愛いな」
途端に照れてしまった私は、「えへへ……」と誤魔化すみたいに目を逸らして、シートベルトを閉めながらアユムをチラリと見た。
前を開けて羽織ったチャコールグレーのヘリンボーン柄のPコートの下には、黒のシンプルなニット。それに合わせたインディゴのデニムも、スーツ姿と違うのに静かに整っていて、ちゃんとアユムだった。
「アユムもかっこいいよ」
アユムは少し視線を逸らして照れくさそうに笑った。初々しい空気がくすぐったい。
アユムがエンジンをかけながら口を開いた。
「どこ行く?」
「え?アユム考えてくれてるんじゃないの?」
「仕事で疲れてて考える余裕なかった」
「なにそれー」
私は不満げに声を上げて唇を尖らせた。
こっちはこの日を指折り数えて楽しみにして、ゆうべも実はあまり眠れていないのに。アユムは私とのデートを考えるより先に、仕事で疲れ果てて寝ていたんだ。
でもそれでいい。その頑張りがあるおかげで私の『デート代はアユムが出して』という、昭和からタイムスリップしてきたかのような人間が吐くワガママが叶うんだ。
それに楽しみで寝られない浮ついた若さよりも、ずっと魅力的で色気がある。くたくたな身体で私との約束を優先してくれる優しさだって、床の間に飾って毎日眺めていたい。
それなのにちょっとむくれた私は子供っぽい。
アユムは困ったように小さく笑った。
「仕方ないだろ。今週ずっと忙しかったんだから」
「べつにいいけど」
全然良くなそうに言う。
初々しい空気はすぐになくなり、懐かしい私たちの空気になって緊張がほどけた。
「今日はヒナが行きたいところ、どこでも連れてくよ」
アユムは余裕そうに笑うと、右手をハンドルの上に置き、左手の指先でムッとしている私の頬を摘むようにひと撫でした。
こういう、私が不機嫌になっても穏やかに受け止めて対処してくれるところが好きだ。
付き合いたての頃から今でも変わらないその優しさは、きっと結婚しても案外このままなのかもしれない。そう思うと、結婚という未来に手を伸ばしたくなる。
「じゃあ……大きいショッピングモール。映画館付きね!」
「映画館もか。欲張りだな」
アユムはシフトレバーに手を添えると慣れた動作で車を走らせた。
「久しぶりにアユムとちゃんとしたデートするんだから、全部するの。ランチして映画見て買い物してカフェ行って」
ハンドルに片手を添えて運転するアユムの横顔に向かってそう言った。
その横顔の口元がふっと緩んだ向こうに見慣れた景色が流れていく。
「了解。久しぶりだしな」
その返事も流れていく景色も、どこか少し浮かれているように感じられて、シートに寄りかかりながら、私は小さく口元を緩めた。
車内には付き合っていたあの頃みたいに、私たちの会話をそっと彩るような音楽が控えめな音量で流れていた。洋楽で歌詞に気を取られない分、アユムの声と言葉だけがすっと胸に入ってきた。
二人の思い出の話から、紗知と潤くんとダブルデートをした時の話にもなり、「そういえば潤から電話が来てさ、あれからまたさらに喧嘩したらしい」とアユムは笑って話していた。
新婚さんは大変だな……と思っていたら「ヒナの不安、煽ったかな」と、アユムは気まずそうに笑った。私が咄嗟に「喧嘩するほど仲がいいって言うじゃん」と返すとアユムはまた笑った。
信号で車が止まった時、アユムの視線が私の服にチラッと落ちたのを私は見逃さなかった。
「ん?なに?」
「いや。今日、気合入ってるなと思って。そのバッグ、特別な日に使うバッグだろ」
透けた下着みたいに見え見えで恥ずかしい。
「アユムとちゃんとしたデートだからね。気合い入れてきたの」
「ピアスまで可愛いな」
そう言ってアユムは指先で耳たぶを軽く触った。
一瞬、ゾクッとして、平気そうな顔をしたまま私は少し固まった。
不意な甘い刺激に、ドキドキが止まらない。
アユムは自分の言動がどれだけ私の胸を騒がせるか知らないまま、信号が青に変わったのを見て前に向き直った。
「映画、何見る?」
軽い調子で聞いてくる。
私は平常心を装って口を開いた。
「絶対に恋愛映画だよ」
「だと思った。ヒナはそれしか見ないもんな」
呆れたみたいに言われてちょっとムッとして顔を背けた。
「ハッピーエンドの映画見て、恋愛のモチベーション上げたいんだもん」
「へぇ。俺だけじゃ物足りない?」
そう言った低い声に顔を向けた。
「俺はここ最近、ヒナで毎日モチベーションあがりっぱなしだけど」
アユムは笑っていたけど声には静かな圧が滲んでいた。私は怯まず言い返した。
「そうじゃないけど。映画から受ける影響って大きいの」
そう言って、はたと止まる。
「アユム、私でモチベーション上がってるの?嬉しい!」
肘掛けに置かれたアユムの腕を掴んで大きく揺らすと、アユムが少し体勢を崩してハンドル操作が危うくなった。
「おとなしくしてろ」
軽く睨まれて、私は愛嬌たっぷりにふふっと笑った。
ショッピングモールへ着くと、車は吸い込まれるように立体駐車場へ入っていった。
アユムは空車スペースを見つけると、慣れた様子でハンドルを切って、スルスルッとバック駐車した。その横顔も、写真に収めておきたくなるくらいかっこよかった。前に付き合っていた頃、散々見てきた姿なのに。
ためだ。今になってまたときめいてしまう。
車を降りて館内へ向かう途中、並んで歩くアユムを見上げた。
「アユム」
「ん?」
「……手、繋ぎたい」
可愛く見えるように少しだけ上目遣いで言うと、アユムは小さく笑った。
「知ってる。そういう顔してたから待ってた」
そう言って、甘えることを許してくれるみたいにアユムはそっと指を絡めて握ってくれた。
“待ってた”。たったそれだけの短い言葉なのに、四年も拗らせているアユムが言うと、愛情の深さをひしひしと感じた。
館内へ入ると、日曜日らしく混んでいた。
三階まで吹き抜けになった高い天井の造りのおかげで圧迫感は感じないけど、行き交う人の顔が次々と変わっていく。
映画館のエリアへ行くと、そこはさらに人で賑わっていた。
四台ある券売機はどこも行列を作っていて、手慣れないタッチパネルの操作にまごまごしている人もいたせいかチケットを買うだけで20分もかかった。
選んだ映画は、今、SNSで話題になっていて気になっていた洋画のラブストーリー、“Once Again~もう一度、あなたに恋をする~”。
価値観の違いで別れたカップルが数年後に再会したことでまた恋に落ち、今度こそ価値観の違いを乗り越えようとする物語らしい。
映画の内容をアユムにざっくり説明すると、「俺たちみたいだな」とアユムは笑った。
13時半からの時間帯を選んだから、まずはその前にフードコートでランチをすることにした。
窓側の席がいいなと思ったら空いていなくて、混み合う中でどうにか見つけたのは、隣と距離が近い普通のテーブル席だった。
それでも席を確保して食べるものを選びに行く。
私は有名店のラーメンか、ハンバーグプレートかで悩んで結局オムライスにした。
アユムは牛カルビ丼、味噌汁付き。イタリアンとかフレンチの店が似合うアユムだけど、変に気取らない庶民的な一面もあって、それもそれで似合っている。
夜景じゃない景色。少し騒がしくて生活の匂いを感じるこの場所こそ、結婚した後、週末にふらっと訪れる場所なのかもしれない。ここに自然に溶け込むアユムを見ていると、その光景が簡単に想像できた。
「一口食べる?」と当たり前みたいに聞いてきたアユムは、前に付き合っていた頃と変わっていなくて、嬉しくなった。
上映時間が近づいてきたから映画館へ向かい、ポップコーンとドリンクを買ってシアタールームに入った。周りは私たちと同年代のカップルが多かった。
映画が始まると、主演の女優さんが綺麗だったので私は食い入るようにスクリーンを見つめた。
カップルの価値観の違いなんて石ころみたいにどこにでも転がっている。
異国でもそれがテーマになって映画が作られるくらいポピュラーな問題なんだ。
別れるか乗り越えるかはカップル次第だけど、この映画では、悩んだ挙句に、“自分の‘もう一つの人生’として相手との違いを楽しむ”と面白そうに受け入れていた。
よく、「価値観が同じ人と結婚したい」と聞くし、自分もそう思うけど、価値観が違っても自分次第で楽しむことはできるんだ。
アユムは私の趣味に合わせてくれて、まるでもう一つの人生を楽しんでいるみたいに見える。
価値観が違うことはハズレだと思っていたけど、そうじゃない。それは新しい扉だ。開けば、自分だけじゃ辿り着けない違う人生がある。
結婚へ進みたいアユムが見せてくれている扉の先には、結構面白いことが待っているのかもしれない。




