#30 好きすぎて不安になる
アユムと会った翌日も、そのまた翌日も、心は浮ついたままだった。
愛されていることや、アユムの穏やかな笑顔、温かい沈黙を思い出すと、また好きが溢れそうになる。
この気持ちを毎日体感できる結婚って、やっぱり幸せなものかもしれない。そう思い始めていた。
だからこそ、その言葉たちは少し衝撃的だった。
「結婚って、あんまりいいもんじゃないかも。恋愛感情なんて消えたし」
「わかる~!キスもしないし手も繋がない」
「うちなんて旦那冷たくなったよ」
三人の先輩たちの諦め混じりの声が、昼時で賑わうファミレスにゆるく広がった。
シフトが被っているメンバー四人で近くのファミレスにランチに来ていた。
私以外の三人は私より少し年上の既婚者だから、興味本位で、「結婚ってどうですか?」と聞いてみたら、ポップコーンが弾けるみたいに、不安になるような言葉がポンポンと飛び出した。悪意のなさそうなところが、妙に現実的だった。
「それにほんっとにムカつくの。昨日の結婚記念日忘れてるし、話も聞いてくれないし。殺意湧く!あーもう離婚したい!」
向かいに座る小早川さんは、ナイフとフォークを使って荒々しい手つきでハンバーグを切り分けていた。
旦那の肉体とか内蔵とかに見立てて切っていたらどうしよう……なんていう物騒な不安が浮かんだ。
「どこも同じだって~。釣った魚に餌はやらない。騙されたーって感じ」
斜向かいに座る木暮さんが落ち着いた声で言ってスープをズッとすすった。
「楽しいのは恋愛の時と、結婚した最初の一ヶ月だけだよね」
隣で距離が近いせいか、まさに恋愛中の真っ只中のせいか、オムライスをすくった伊原さんの言葉がやけに胸に刺さった。
でも私は素知らぬ顔でストローをくわえてジュースを飲んだ。
「なに?桜川さん結婚するの?」
木暮さんに不意に話を振られ、ちょっとドキッとした。
「いえ、まだ全然なんですけど……最近、結婚が気になってて」
フォークでパスタを巻きながら、ちょっとしどろもどろになってそう言うと、小早川さんが少し身を乗りだすように口を挟んだ。
「悪いことは言わない。一人で生きたほうが絶対楽しいよ。責任ないし。気楽に恋愛して趣味楽しんで」
本当にそうなんじゃないかと思わせるくらい感情がこもっていて、一瞬、心が揺れた。
「それは言えてるかも。相手に失望しなくていいし、自分も失望されずに済むし。離婚のこと考えなくていいし」
木暮さんの言葉に小早川さんと伊原さんが、うんうんと頷く。
責任、失望、離婚。
どれもパワーワードすぎて気軽に触れられない。
「ごめんね。夢も希望もないようなこと言って。でも結婚ってそういうものだから。甘い期待とかしないほうがいいかもしれない」
伊原さんは、彼女の人の良さがにじむ垂れ目をさらに垂れさせるみたいに弱々しく笑って言った。
「そうそう。手に職でもあれば、男を頼らず生きたいなぁ。今からなにか資格取ろうかな?」
そう言ってハンバーグを口に運んだ小早川さんの目はわりと本気に光っていた。
そんなふうに思わせる結婚もある。
「パートの私が言うのもあれだけど……。桜川さん、就職は考えてないの?ちゃんと働いてれば結婚しても旦那と対等でいられるし。そういうの大事だと思うよ」
ミートソースがついた口元をナプキンで拭きながら木暮さんが言った。
そんなこと考えたことなかった。
やりたいことが見つからず、とりあえずのんびり生きていきたいから高校を卒業したあと、なんとなくフリーターの道を選んだ。
両親を不安にさせて、友達にも少し引かれて呆れられたけど、それでもいいと思った。
でももう24歳。いつまでもこんなゆるい生活は続けられない。
それこそアユムと結婚すれば、バイトを続けながらでも扶養内で生きる道はある。打算的でいやだけど。
一方で、結婚を決められなかったら、私はきっと30歳になっても親から仕送りをしてもらうフリーターだ。ただのフリーターじゃない。“結婚から逃げた臆病者のフリーター”だ。
寝かせれば箔が付くウイスキーと違って、私の価値はどんどん下がっていく。
就職をすれば、結婚がうまくいかなくても、一人で立っていけるのかもしれない。
「就職かぁ…… そういうのもちゃんと考えたほうがいいのかなぁ」
ぽつりと漏らすと、テーブルの空気が大人しくなった。
「私も、桜川さんくらい若かったら進路決めなおすんだけどな~」
おそらく30代中頃であろう伊原さんはそう言って、最後の一口のオムライスを口に運んで頬張った。
「ま、私たちは結婚っていう蟻地獄に落ちた蟻。もう、もがくことしかできないの」
「それって悲しい~」
木暮さんの言葉に、小早川さんが悲痛な声を上げた。
それは私の心の声と同じで、結婚の気持ちがまた不安定に揺れ始めた。
アユムも、結婚したらやっぱり変わってしまうのだろうか。お互い、隅から隅まで失望して冷めきって。あれほど胸を騒がせたキスが、まるで幻だったかと思うようになる日が、いつか来てしまうのだろうか。
一人で気楽に。その言葉も沈殿した砂糖みたいに心の底に残った。
幸せで固まった気持ちの隙間から静かに芽吹いた不安を無視するように、私はスイーツが載ったメニューを開いた。
仕事へ戻ると、いくつか小さなヘマをした。
心の片隅に追いやったはずの不安が何度も浮かんできて、仕事どころではなくなってしまった。
結婚する幸せも不幸も知った今、どこへ気持ちを置けばいいのだろう。
アパートへ帰ってからはスマホ片手にベッドに倒れ込んで、アユムに電話しようか悩んだ。
「アユムも冷たくなる?恋愛感情なくなる?」そんなことを聞きたくなる。聞いたらきっとアユムは否定してくれる。それでも私は安心できないと思う。結局はアユムを信じることが大事なんだと、自己完結する。
悩むならもっと他のことで悩むべきなんだ。お金のこととか、子供はどうするとか。
私の悩みは「私のこと好き?本当に好き?」「うん、大好きだよ。世界で一番」とやり取りする初々しい中高生のカップルに発生するみたいな悩みだ。彼らは過去に見た恋愛漫画みたいな展開をきっと夢見てる。
でも私はもう違う。結婚を決めるいい歳をした女が相手の愛情を疑うなんて、幼稚すぎてバカっぽい。
聞かない。確かめない。
そう決めた時、手のひらの中でスマホが振動した。画面に表示された“アユム”の文字に心臓が跳ねた。迷わずに通話ボタンを押した。
「もしもし!」
嬉しくて声が弾んでしまう。
「ああ、ヒナ。俺だけど。今、大丈夫?」
「うん、バイト終わって帰ってきたところ。アユムは?」
「まだオフィス。ちょっと残業してて」
時計を見ると20時だった。この時間ともなればスーツも髪もきっと少し乱れていて、色気が増してるに違いない。声までなんとなく艶っぽい。
「で今、休憩中。ヒナの声聞きたくなって電話した」
その人がいない場所でその人のことを思い出して愛おしむ行為は最大級の愛情表現だと思う。
かたや私は不安になってアユムを疑っていた。情けない。
「嬉しい……私もアユムの声聞きたかった」
「今日はどんな一日だった?」
「先輩たちとランチに行ったよ。そしたらみんな旦那の愚痴こぼしてた」
自分から聞いたとは、あえて言わなかった。
「それ聞いてまた不安になったんだろ」
アユムは見透かしたみたいに小さく笑った。
私は素直にうんともすんとも即答できず、「んー……」だの「えっと……」だの濁したあと、
「こんなに不安になるのはアユムのことが好きすぎてなんだからねっ」
開き直るようにそう言った。
すると受話口の向こうからアユムの堪えきれず笑う声が聞こえてきた。
私そんなおかしいこと言ったかな……とちょっと恥ずかしくなっていると、アユムの柔らかい声音が耳を包んだ。
「何聞いたか知らないけど、ヒナが不安になる必要なんてないから」
アユムの温もりが鼓膜を伝わって胸に届く。
「四年も拗らせてるこの気持ち、甘く見るなよ」
アユムは少し呆れたみたいに笑って言った。
でもその声は優しくて、長い時間をかけて培った想いを静かに見せられた気がした。これはもう安心するしかない。
「ありがとう、アユム……信じてるよ」
胸がいっぱいになって、電話なのに今すぐ抱きつきたくなった。
会いたい。アユムの目に映って、電話越しじゃない声に魅せられて、指で触れられたい。
その気持ちが思わず口を突いて出た。
「会いたい……今度はもっとゆっくり、1日中アユムといたいよ」
噛み締めたような短い沈黙のあと、アユムは嬉しそうに笑った。
「そんなこと言われたら疲れ吹っ飛ぶな」
そう言ったアユムの顔を想像すると、今度は私の理性の方が吹き飛びそうだった。
「じゃあ今度の日曜、空けといて。10時に迎え行く」
喜びがじんわり巡って、顔がゆっくり綻んだ。
「うん……わかった。楽しみ」
「俺も。……じゃあそろそろ仕事戻る」
「うん。電話ありがとう」
「じゃあな」というアユムの声を聞くと、私は名残惜しく小さく息をついて通話を切った。
日曜日、アユムとデート。
久しぶりに、恋人みたいにアユムと過ごせる。
何を着ていこうか、何を話そうか。今からドキドキして気持ちが落ち着かない。
とりあえず、スキップしたくなるくらい軽い足取りでクローゼットの前まで行って、扉を開いた。




