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#26 ほどけていく怖さ



「ヒナちゃんアユムくん、ご無沙汰~」


少し疲れたように笑いながら、香織さんが戻ってきた。

夢ちゃんはすっかり大人しい様子で香織さんに抱っこされていた。


「夢ちゃん大丈夫?」


「うん、オムツだったんだけど取り替えてもなかなか泣き止まなくて。お庭お散歩してたらどうにか泣き止んでくれた」


香織さんは夢ちゃんをベビーチェアに座らせると、ふぅと息をついて腰を下ろした。


「ねぇ、怜司くんどこ行った?」


「香織さんが席を外してすぐ、潤のご両親に挨拶に行ってそれっきりです」


アユムがケーキにフォークを入れながら静かに答えた、その時だった。


「いや~まいったまいった。潤の親父さんが帰してくれなくて」


怜司さんが軽く酔っ払って上機嫌な様子で戻ってきて、そのまま自分の席へ腰を下ろした。


「お、夢、泣き止んだか?」


「呑気なものよね。こっちは大変だったんだから」


「こっちも大変だったんだぞ~。潤の叔父さんまで乱入してきて酒を煽る煽る」


怜司さんは夢ちゃんの頬を優しく突っついてからアユムに目を向けた。


「あ。アユムも後で挨拶してこいよ。親父さん、アユムに会いたがってたぞ」


「はい」


アユムは小さく笑って答えた。

怜司さんとアユムのやり取りは、いつ見ても新鮮だ。というより、いつもしっかりしたアユムの立場が弱くなっているのがおもしろい。


「潤も結婚かー。お前も早く決めろよ、アユム。ヒナちゃん待たせてるんだろ」


怜司さんがニヤリと笑った。見当違いな言葉に私はフリーズし、香織さんは鼻で笑った。


「結婚にビビってた怜司くんが言えたセリフ?」


ハハハ!と豪快に笑ってごまかす怜司さんの隣で、アユムは顔色ひとつ変えず、シャンパングラスに手を伸ばした。


「ヒナとはゆっくり時間をかけて育んでいきたいんで」


そう言ってグラスに口をつけた。穏やかな口調とは裏腹に、喉を鳴らして流し込む。気のせいか、飲み方がさっきまでと違って少し乱暴だった。


「でも結婚なんて勢いだぞ、アユム。付き合ってる時に全部分かり合える夫婦なんていないしな。むしろ、結婚してからのほうが、“あ、こいつこういう奴なんだ”って毎日発見でおもしれーよ」


軽口っぽいのに妙に説得力があった。

結婚して三年経った経験と余裕からくる言葉なのだろうか。

毎日、香織さんと笑い合っている姿が目に浮かんだ。


「既婚者からの貴重なアドバイス、参考にします」


アユムは柔らかくそう言いながらも“俺はそんなことわかってる……”と思っていそうだった。


「でも結局、ちゃんと向き合ってくれる人と結婚するのが一番だよ。結婚って楽しいだけじゃ続かないから。毎日一緒だし」


香織さんが残っていた肉にナイフを入れ、上品に口へ運んだ。


「ずっと一緒にいて、嫌になる時とかないですか……?」


私の臆病心がどさくさに紛れて顔を出した。

私の質問に、香織さんの顔がパァッと明るくなった。


「そりゃあるよ~。喧嘩して、殺してやりたーいって思う時だってあるよ」


香織さんは綺麗な顔で笑いながら物騒なことを言ったかと思えば、ふと真面目な表情になった。


「でもそう思っても結局は一緒に居たいの。そう思えるのが結婚かなって」


「香織に何度殺されかけたか……」


「怜司くんしぶとくて、殺しても死なないでしょ」


二人のやりとりに思わず笑いがこぼれた。


「そうだ、ヒナちゃん。アユムが待たせるようなら俺の友達紹介してやろうか」


怜司さんの言うことは冗談なのか本気なのか、たまにわからないことがある。


『ナンパした女の人と雰囲気のいいバーで話すのが好きでさぁ』と言っていて、冗談かと思ったら本当にやっているらしかった。


なんて答えればいいのかわからなくて、私はとりあえず愛想笑いを浮かべた。


「じゃあお願いしまーす、なーんて」


冗談っぽくそう返すと、カタン、と隣で音がなった。見るとアユムがシャンパンを飲み干していた。グラスを置く音が、いつもより少し大きかった。


「怜司くんもヒナちゃんも、悪い冗談はやめて。アユムくん、こういう時でも冷静だよね」


「……いや、今日はいろいろ余裕ないです」


アユムはきちっと結ばれたネクタイに指を引っかけて少しだけ緩めた。

その仕草ひとつで、私の胸は甘く騒いだ。その隣で香織さんが「そうなんだ」とクスッと笑った。


「ねぇ、怜司くん。紗知と潤くんと少し話してこようよ。ヒナちゃんたちはもう行った?」


「うん、さっきアユムと行ったよ」


「そっかそっか」


香織さんは優しい笑顔を私に向けると、夢ちゃんをヒョイと抱き上げた。


「じゃあ夢~、さっちゃんとジュンジュンのところ行こうね~。ほら、怜司くん行くよ」


香織さんは、片手で夢ちゃんを抱き、もう片手で怜司さんの腕をグイッと引っ張る。


「わかったわかった」


怜司さんは面倒くさそうに笑いながらも嬉しそうなのが声に出ていた。


香織さんたちが離れると、テーブルに一瞬、静かな沈黙が落ちた。


「……本当は俺が“待ってる側”なんだけどな」


アユムが私を見ないまま、グラスの細い足を指で弄びながら呟いた。


「え……?」


「普通、あそこは“いらないです”って断るところだろ」


冷静な顔と低い声で淡々と言われ、焦った。


「ノリ良く答えただけだよ……空気壊さないために……」


「へぇ。じゃあ俺もノリ良く連絡先交換しとけばよかった?」


レンズの向こうの目が少しだけ意地悪そうに細められていた。

優しいアユムが好きだけど、こんなアユムも好きだと今日思った。


「だ、だめだよ、アユムはだめ。絶対だめ」


あまりにも切羽詰まった表情だったのかもしれない。アユムはそんな私を楽しむみたいに、やっぱり意地悪そうに笑った。


「その反応見たら、ちょっと交換したくなるな」


「ほんとにやだ……」


「冗談だよ」


アユムがそう言って口端だけで笑うと、スタッフが空いたグラスにシャンパンを注ぎ足しに来た。

アユムのグラスにシャンパンが注がれるのを見るのは、今日もう何度目だろう。

アユムはそれをすぐに口に運んだ。


今日のアユムは飲みすぎだ。

それなのにシラフみたいな顔をしている。


「そんなに飲んで大丈夫?」


思わずそう言うと、アユムはグラスを軽く揺らしながら笑った。


「誰かさんのせいで、今日は酒が進む」


「酔ってる?」


「全然。まだ足りないくらいだよ」


アユムはグラスを傾けて、今度はゆっくり、シャンパンを飲んだ。


「アユム。私、今日、やっぱり来てよかった」


私と少し目を合わせてから、アユムはグラスを静かに置いた。


「来るの悩んでたって口ぶりだな。俺と会うの気まずかった?」


アユムの表情が少しだけ、物悲しげに曇ったのを見て、私は少し慌てた。


「そうじゃなくて……結婚から逃げてる私にはこういう場所は重たいかなって思って、招待状が届いた時は正直、行くのが憂鬱だったの」


アユムは静かに、私の話に耳を傾けてくれた。


「でも、幸せそうな紗知の顔を見て、アユムのまっすぐな気持ちも知ったら、来てよかったって思えた」


そこまで言うと、高砂席に視線を向けた。

ちょうど、怜司さんが夢ちゃんを抱き上げるところだった。手馴れた手つきで夢ちゃんを抱っこするその腕に、香織さんが手を当てて、楽しそうに笑っていた。


「香織さんと怜司さんも幸せそうで。結婚って、私が思ってるより怖いものじゃないのかもしれないって。そう思えたの」


「だから来てよかった」と、笑顔でそう言うと、アユムはすぐには何も言わず、ふっと息を吐くように笑った。


「……じゃあ、俺との将来も少しは怖くなくなった?」


視線が重なって、一瞬、どう答えようか悩んでから口を開きかけたとき、


「楽しいお時間もあっという間に過ぎ、そろそろお開きのお時間が近づいてきました」


しんみりした口調の司会アナウンスが流れた。

すると高砂席から、香織さんと怜司さんが慌てた様子で戻ってきた。

大事なことをアユムに言いそびれてしまった。


そこからは感動的に披露宴が進んでいった。

両親に向けた新婦の手紙では、紗知が時おり、涙声を交えて読むものだから、こちらまで泣きそうになってしまった。

花束贈呈の時、みんなが新郎新婦とその両親に目を向けている隙に、私はアユムを横目で見た。

私の返事が何だったか気になっているんじゃないかと気にしたけど、アユムは花束贈呈に視線を向けたまま穏やかに微笑んで拍手をしていた。その横顔に、さっきの話を引きずっている様子はなかった。


ふとアユムの視線が私の方に向いて、私はわかりやすく目を逸らした。すると、人差し指で頬をツンと突っつかれた。それがスイッチかのように、ニマッと顔が緩んでしまう。

誰も見ていない拍手の中の無言のコミュニケーションに、溶けてしまいそうだった。



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