#21 好きだけじゃ足りない
あんなに可愛いドレスを買ったのに、三日経っても、四日経っても、私の頭の中は桜の惚気ていた姿でいっぱいだった。
思い描いていた生活じゃなくても、好きな人といっしょなら、あんなふうに笑えるものなのか。
私の“怖い”という気持ちが、幻想に思えてきた。
休日の昼下がり、私は近所のスーパーへ来ていた。
カゴだけを持って見て回る私の横を、小さな子供が駆けていく。前を見ると野菜コーナーで老夫婦がブロッコリーを選んでいる。その隣ではマダムがレタスを両手に持って吟味していた。
カゴいっぱいに商品を入れたカートを引くおじさんが、私の行く手を横切る。
からっぽのカゴをブラブラ持ちながら肉コーナーを見ていると、カートを引いた若い男女と隣り合った。
「今日の夕飯、何にしようか?」と、隣の男の人に向けて女の人が言っている。
肉を見るふりをしてチラリと見やった。
二人とも左手の薬指に指輪をしていて、ずいぶんとラフな服装だった。
「んー、なんでもいいよ」
「えー、それが一番困るよ」
そう言っているわりに、女の人の顔には笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、唐揚げ食いたいな。愛子の作る唐揚げすげー好きなんだよな」
どこにでも転がっていそうなありきたりな会話かと思ったのに、男の人のひと言が、ファインプレーみたいで耳に残った。
特別感なんてない。あるのはむせ返るような生活感だけなのに。それでも、ふたりは幸せそうだった。
寄り添って、どの肉がいいか選ぶ夫婦はとりたてて目立つ感じではないのにキラキラしていた。
自分とアユムを重ねてみたくなった。
……ああ、うん、なんかいいかも。
でも私は、スーパーと言えど、もうちょっとお洒落したい。生活感を隠してランウェイみたいに歩きたい、なんて思ってる。
はぁ。そんなこと思ってるから、いつまでも成長できないんだ。まずは、唐揚げくらいは作れるようにならないと。
その夫婦に気を取られていて、いくつか買い忘れをしたことに気づきながらアパートへ帰った。
ドカッとソファへ座り、宙を仰ぎながらぼやっと考える。結婚、か……。
その言葉は、いつの間にか音もなくじわりと私の心に浸透していた。アユムと別れた数ヶ月前にはなかった感覚だった。
アユムと再会して、止まっていた時間が動き出した。見える景色も、少しずつ変わってきた。
正直言うと、煩わしかった“結婚”という言葉も、今ではそれがないと少し落ち着かなくなってきたかもしれない。
バッグの中でスマホが振動した。取り出して見るとお母さんからだった。
「もしもし?」
「ヒナ、元気なの?最近、連絡ないからお母さんもお父さんも心配してるのよ」
変わりないお母さんの声になんとなく安心する。
「ごめんね。元気だよ。ちょっといろいろあって連絡し忘れてた」
「まったくー。仕送りだけは毎月ちゃっかり受け取るんだから」
お母さんの声は呆れているようだったけど、どこか安堵したような声でもあった。
「おばあちゃんから聞いたわよ?アユムくんとの結婚のことで悩んでるって」
「うん……」
私は俯いた。
その隙にお母さんはズケズケと踏み込んできた。
「ヒナはその気がないんでしょう?それで別れたんじゃなかった?」
「うん、でも再会してね……。アユムがいないのは寂しいって言ったら、ちゃんと考えて欲しいって言われて……。今はまだ考えてる状態で、アユムに待ってもらってるの」
「でもあんまり待たせると、冷められて逃げられちゃうんじゃない?」
軽く吐き出されたみたいなその言葉に、私はムッとした。
「アユムはそんな人じゃないよ。ずっと待っててくれるもん」
「そう?アユムくんを悪く言うわけじゃないけど、向こうは切り捨てる覚悟を持ってる人なんだから、いつまでも待ってくれてるなんて甘い考え持たないほうがいいわよ」
たしかに一度、切られている。
古傷をえぐられて、全身に寒気が走った。
昔から、良くも悪くもお母さんの言葉の影響は大きい。
「そもそもアユムくんは、ヒナのことが本当に好きだったの?」
「アユムは私のこと大好きだったよ。今も。大丈夫だよ」
「ヒナがそう思ってるだけじゃない?お遊びだったかもよ」
鼻の奥がツンとして、涙が出そうになった。
「なんでそんなこと言うの……大丈夫だもん」
“大丈夫だもん”が、頼りなくしぼむ。
「男なんてわからないわよ。自分の願望を叶えてくれそうな人が現れたら、フラッとそっちに簡単にいけちゃうんだから」
いい加減、腹が立った。
「アユムは大丈夫だってば。もうお母さんなんて知らない、バカ!」
勢いのまま通話を切った。
お母さんは意地悪だ。
アユムがどれだけ、私のことを大事にしてくれてるかなんて知らないくせに。
散々、ワガママを聞いてくれて、甘えさせてくれる。アユムがそこまでしてくれるのは本当に私のことが好きだからだと思う。そうじゃなかったらこんな面倒くさい女、とっくに手放してる。
遊びなんていう生半可な気持ちで付き合えるほど、私のワガママは甘くない。
アユムは、知らない間に離れていく人じゃない。きっと待っていてくれる。
そう思いたい。そう思わなきゃ、心が潰れる。
でも……。ふと、嫌な予感がよぎる。
別れを切り出された時みたいにまた突然、愛想をつかされてしまったらどうしよう。
私は立ち上がるとキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。冷えた缶チューハイを手に取って開けると、そのままぐっと煽るように飲んだ。
ストロングのチューハイを2缶開けて、濃いめのカルーアミルクを作ってぐいぐい飲んでいたら、テーブルに突っ伏していつの間にか眠ってしまっていた。起きたら夜の12時を過ぎていた。
酔いが残る頭は、思考が停止したみたいに何も考えられない。ただ心に、アユムが離れていくかもしれない不安だけがあった。
酔っても溶けない、寝て覚めても消えない頑固な不安は、ひとりじゃ解決できそうになくて、スマホを開き、一瞬だけ躊躇ってから、アユムの番号を押してしまった。
明日は月曜日で仕事だから、もう寝ているかもしれない。「答えが出るまで甘えてくるなよ」と言われたのに、結局、甘えようとしている。
長いコール音が切れた。
「ヒナ、どうした……?」
アユムの声を聞いた途端、無意識に涙があふれていた。もうダメだと思って隠さずにしゃくりあげながら泣いた。
「アユム……ごめんね、こんな遅くに。アユムとのこと、ひとりで考えてたらわかんなくなっちゃって……」
アユムは黙って聞いているようだった。
「明日、仕事だよね?違う日にかけ直した方がいい?」
「大丈夫。ふたりのことだから、今ちゃんと話そう」
優しい声音にほっとする。私は、息が整わないまま話した。
「アユム、ちゃんと待っててくれる?お母さんに話したら、あんまり待たせてたら冷められちゃうよって意地悪言われて……不安になったの……」
今までにないくらい、涙にまみれたよれよれの声だった。きちんと伝わったかわからない。
「待ってるよ。ヒナがちゃんと向き合ってくれるなら、いくらでも待つつもりでいる」
どうしてアユムは、こんなにも大人で、自分の気持ちよりも相手のことを先に考えられる人なんだろう。
ここまでくるときっと、ただの性格の違いと言うより、育った環境や人生経験の違いなのかもしれない。泣きじゃくりながら、そう思った。
「じゃあもしそれで、結婚を選ばなかったら、アユム怒る?」
「いや。ヒナが決めたことなら、それでいい」
しゃくり上げたり鼻をすすったりしながら、私は汚ないノイズを奏でて、必死に言葉を紡いだ。
「アユムのこと大好きなんだよ……大好き過ぎて辛いくらい、大好きなの」
ホストに泣きつく女の人みたいな、安っぽい言葉を口にしてしまった。こんなこと言っても、何も変わらないのに。
それでも、アユムの声は温かかった。
「知ってるよ。でも、その気持ちだけじゃだめだろ」
「うん……。でもね、こないだ結婚してる友達の惚気話聞いて、ちょっと羨ましく思ったよ」
「へぇ。そうなのか」
アユムは意外そうに返事をした。
「思い描いてた結婚生活じゃなさそうなのに幸せそうだったの……。だから、怖いっていう気持ちが少し消えたよ」
「大進歩だな」
アユムはクスッと笑い、私は、えへへへ……と笑った。
気づいたら、滝のような涙も、糊みたいな鼻水もおさまっていた。
「あとね、スーパーで見かけた、私たちと同年代くらいの夫婦の雰囲気がよくてちょっと憧れちゃった……何にもない普通の日なのに、特別な日みたいな感じがしたの」
「俺はヒナと、そうなりたい」
昼間聞いた、「じゃあ唐揚げ食べたい」と言った男の人みたいにさらっと、アユムは殺し文句を言った。耳の奥に伝わって、胸が微熱を持った。
「……その言葉、プロポーズみたい」
「プロポーズは別の言葉を用意してるよ」
「そんなのずるい……聞きたくなっちゃうよ」
「じゃあ俺のこと、もっと信じて」
その言葉だけ、妙に心に引っかかった。
「……信じてるよ?」
「信じてないだろ。だから結婚が怖いんだよ」
不意に核心に迫られた気がして、私は言葉に詰まった。
「俺はヒナにいつまでも好きでいてもらえるように努力してきたし、喧嘩してもちゃんと向き合ってきた。ヒナを不安にさせたくない一心で」
頭の中にカメラのフィルムのネガみたいに、アユムの優しさが浮かびあがった。
アユムは自分の考えと違っても、わがままを受け止めてくれたし、喧嘩をしても最後はいつもアユムの方から「ちゃんと話そう」って寄り添ってきてくれた。
「うん……そうだったよね」
「これからもそうだって、なんで信じられない?」
なんて答えたらいいのかわからなかった。
その気持ちの裏で、鳥の巣みたいに絡まっていた不安の糸が、するっと解けていく気がした。
結婚が怖い理由。
それは、アユムを信じきれていないから。
ようやく、気がついた。
“相手を信じる”。それはすごく大事なパーツで、それがないと、きっと成り立たない。
“好き”なんていう甘ったるい感情だけじゃ足りないんだ。
子供の頃、怖かったものの正体に気づいた時の、あの安心感が胸に広がった。
「そっか……。ごめん、アユム……もう一度、ちゃんと向き合ってみる」
受話口の向こうから、ふっと笑う息遣いが聞こえた。
「わかったよ。待ってる」
「ねぇ、アユム」
私は一つ確かめたくて、アユムの名前を呼んだ。
「ん?」
「私、結婚してもワガママ言うかもしれないし、意地っ張りかもしれないのに、アユムは不安にならないの?」
「どうにかなるだろ。今までもそうだったんだから」
力が抜けた。
広辞苑みたいに重たいことばかり言う男かと思っていたら、綺麗めな洋服にスニーカーを合わせるみたいな抜け感のある男でもあった。
でもその言葉が、心強かった。
「あとね、アユムの……」
幸せって何?って聞きたいのに、それは怖くて言葉が出てこない。
私が叶えられるものではないかもしれないし、アユムが思い描く“幸せ”の中に、自分がいるのかたしかめるのも怖かった。
「……やっぱりなんでもない」
「なんだよ?言えよ」
アユムを信じて聞いてしまおうか、喉まで出かかったけど、やっぱり飲み込んだ。
「……アユムの、弱点て何?」
咄嗟に口をついて出た言葉だったけど、我ながら上手く誤魔化せたと思った。
「……ヒナ、かな」
「私?」
思わず聞き返した。
「ヒナのことになると、余裕なくなる」
耳元をなぞるような息の混じった低い声が、私の心を弄ぶ。それだけでも悩殺ものなのに、余裕のないアユムを想像すると、それはそれで色っぽくて、胸だけじゃなくて耳まで熱くなった。
普段は、バリバリと仕事をこなしてクールに生きるアユムが、私のせいで余裕をなくすなんて、その落差が愛おしい。
本当に聞きたいことは聞けなかったけど、なんだか得したみたいで、私は口元に手を当てて、ふふっと笑った。
「アユム、かわいい」
アユムのため息が聞こえた。
「今じゃなくていいから、聞きたくなったら聞けよ」
「え?」
「本当に聞きたいのは、それじゃないだろ」
うまく取り繕ったつもりだったけど、アユムにはお見通しのようだった。
そんな臆病な気持ちさえ拾い上げてくれるアユムに、心を全部持っていかれた気がした。
「なんでもわかっちゃうんだね……」
「ヒナのことくらいはな」
これがアユムの強みだ。
優しくて、落ち着いていて、包容力があって、頼りになる。
その雰囲気は、気づけば酔わされているような甘いカクテルみたいだった。
「……聞ける時が来たら聞くね」
「わかった」
「遅い時間にごめんね。話、聞いてもらえて嬉しかった」
「あんまり飲みすぎるなよ」
サラッと流れてきた言葉に、私は一瞬の間の後、驚いたように笑った。
「そんなことまでわかるの?」
「尋常じゃない泣き方だったから」
いつもと違う変化にまで、気づいてくれる。
急に恥ずかしくなったけど、心に、小さな甘みが乗ったみたいで嬉しかった。
アユムが疲れていてもちっとも気づくことができない私とは大違いだ。
えへへ……と誤魔化すように笑ってから、私は慌てて口を開いた。
「あ、あと最後にもうひとつ」
「ん?」
「アユム、本当に……私のこと好き?」
お母さんの言葉が、ふと胸をよぎった。
受話口の向こうから大きなため息が聞こえ、一瞬で空気が変わった気がした。
小さな危機感を感じた私は、慌てて作り笑いをした。
「うそ、ごめん。好きに決まってるよね。じゃなきゃここまでしてくれないよね……」
「ああ。……これ以上どうしたら、俺の気持ち信じてもらえるんだろうな」
アユムの悲しそうな声音に、胸が押しつぶされそうになった。私はなんてことを聞いてしまったんだろう。
触れてはいけないできたてのニキビに、つい触れてしまったみたいだった。悪化させるとわかっていたのに。
「ごめん……もう電話切るね。またね」
逃げるようにそう言って、私はアユムの返事も聞かずに通話を切った。
アユムを傷つけたかもしれない。
いい雰囲気に水をさしてしまったことを、ひどく後悔した。
グラスに残っていたカルーアミルクを飲み干すと、頭がクラッとした。




