#02 元彼に電話した夜
歓迎会という名の飲み会は、軽い挨拶が終わってビールで喉を潤した頃には、ただの飲み会になっていた。
総勢8人が集まったテーブルは、なかなか賑やかだった。2時間制の飲み放題。軽い食事付き。
テーブルにはおつまみが並び、始まってまだ1時間だというのに、桜は3杯目のジョッキを煽っていた。
ゴクッゴクッと喉を鳴らす姿は、カフェで働く可憐な女性のイメージを見事ぶち壊していた。
「あー、おいしい!ひと口目には劣るけどね!」
おいしい!で良かった。うまい!だったら、同じ女として、心配になるところだった。
「ねぇねぇ、ヒナ。昼間の話だけどさ、なんで振られちゃったの?あんた何かしたの~?」
向かいに座る桜のからかうような目が、私を見つめる。
「私に結婚願望がなくて、彼にはそれがあったから」
私は小皿に取り分けられたシーザーサラダを箸で突っつきながら答えた。
「えっ、ヒナ、結婚願望ないの?」
桜はジョッキ片手に、テーブルから身を乗り出した。
「なくはないけど。まだ23だし……。明日着る服だって決められないのに、結婚なんて、簡単に決められないよ」
「ふーん。そんなものかなぁ?」
ゴクッ!という喉越しの音までが、言葉のように聞こえた。
「アユムは“付き合う=結婚”なの。私にはそれが少し窮屈で」
サラダを口に運ぶ。レタスがシャキッと音を立てて口の中で崩れていく。
「贅沢だわ~。世の中、結婚したくて婚活してる人もたくさんいるって言うのに」
桜は頬杖をついて呆れたような口調で言った。
「最初から“この人と結婚する”って決まってる感じ、なんか怖いよ。私は、色んな人と付き合って、この人だって決めたいの」
「それって遊びたいだけに聞こえるよ?」
桜の目が軽蔑の色に変わって、私は少し慌てた。
「違うよ、ちゃんと付き合うの。プラトニックな感じで」
「今どきそんなのないって。男なんて、やるためだけに尽くして、やることやったらポイッだよ」
「アユムは違ったよ……そういうことしても私を大事にしてくれた」
私はジョッキに添えた手元を、ぼんやり眺めた。いつもこの手を握って、「これだけで幸せだ」と言っていたことを思い出した。
「えー?なにか欠点なかったの?実は無類の女好きとか、ギャンブルするとか、気遣いできないとか」
私は静かに首を横に振った。
「浮気しないし、思いやりがあって気遣いもしてくれた。ワガママいっぱい聞いてくれてた」
「それって、逃した魚は大きいってやつじゃん。絶滅危惧種!そんな男なかなかいないよ?」
「逃した魚は大きい……絶滅危惧種……」
口にすると本当にそう思えてきて焦った。
「そういうのって大抵、別れた後に気がつくのよね~」
桜が知ったような口ぶりでそう言うと、私の想いがグラスに並々と注がれたお酒のように溢れ出した。
「結婚の覚悟はできないけど、アユムのこと忘れられない……まだ好き」
思い出すたびに、深い傷が疼く。なかなか瘡蓋になってくれない。
「3ヶ月じゃまだそうよ」
桜はジョッキのビールを最後の一滴まで飲み干し、手を挙げておかわりを頼んだ。
「でも向こうはもう、新しい1歩を踏み出してデートしてた……」
「ヒナを忘れるために仕方なくかもよ?それとか、欲に動かされて」
桜が下世話そうにニヤリと笑った。
「どうかな……」
私は遠くを見つめてビールをひと口飲んだ。
アユムは欲で流れる男じゃない。
だから、新しいデート相手と純粋に楽しんでいたあの光景を思い出すと、胸が締め付けられるように痛い。
欲のためのデートの方が、まだ割り切れたかもしれない。
いつか、本気で好きになっちゃうのかな……なんて思うと、胸だけじゃなくて身体中が痛い。アルコールは、この痛みを麻痺させてくれなかった。
飲み会は3次会まで続いた。
というよりも桜に引っ張り回された。
さすがに人数は減って、私と桜と同年代の男の子3人となったけど、私たちはそこでも飲み続けた。
同年代の男の子は、ビールを飲む私の姿を見て、「桜川さんてカフェラテ以外も飲むんですね」と驚いた顔で言っていた。
彼の前でカフェラテを飲んだことは一度もないのに、勝手にそんなイメージを持たれていた。
気がつくと0時を回っていて、3人で慌てて駅へ急いだ。外は雨がポツポツ降っていて、せっかくの酔いが覚めそうだった。
ギリギリ最終電車に間に合いそうで、改札に飛び込むように走った。
そこでふと、私はトイレへ行きたくなった。
お店を出る前に行ったのに、お酒を飲むとどうしても近くなる。
先を走る桜の背中に大きな声を投げた。
「先乗ってて!私、トイレ行ってくる!」
「は!?電車出ちゃうよ!ヒナ!」
桜の声を背中で聞きながら、私はトイレへと走った。
雨の音がする夜の駅のトイレは不気味だった。
適当に、手前の空いている個室に入り、チェーンストラップのバッグを扉のフックにかける。
早く早く…と自分を急かしながら、ジーパンと下着を下ろし、便座に浅く座った。
余裕がないのについ、フゥと息をついてしまう。
酔った頭で、昼間偶然会ったアユムのことを思い出した。
相変わらず、かっこよかった……。
プルルルルルルル!と、電車の発車ベルが聞こえてきて私はビクッとした。
慌てて立ち上がると、下着とジーパンを無我夢中で上げた。そしてレバーを引いて流すとバッグを持って個室を飛び出した。
手も洗わずトイレを出て全速疾走する。
しかし無情にも電車はゆっくりと動き出し、私がホームに着いた頃にはもう、既に遠くを走っていた。
「……うそでしょ」
思わず声が出た。取り残されてしまった。
外では雨が本格的にザアザアと降り始めている。
まるで、今の私の心みたいに。
立ち尽くしていると、バッグの中のスマホが振動した。
取り出して見てみると画面には、桜の名前。
「もし──」
「ヒナ!大丈夫!?乗れた!?」
もしもし?という前に、桜の心配する声が耳に届いた。
「ううん。乗れなかった…」
「どうするの!?」
「わかんない……。雨でタクシーもないだろうし…歩いて帰るのも大変だから満喫かカプセルホテルにでも泊まろうかな」
それしかない。ひとり暮らしをするアパートまでだいぶ距離がある。
「うん、そうしなよ、心配だから落ち着いたら教えて」
うん…と返事をして通話を切った。
こんな時でもアユムが浮かぶ。
こんな時こそ、かもしれない。
アユムとまだ付き合っていたらすぐに連絡して、どんなに遠くても車で迎えに来てもらえたのに。
生気を失っている目が、ふと、駅名が記された看板を見やった。池袋……。
ハッとした。この駅は、アユムが住むアパートがある場所だった。
私は逸る気持ちを抑えながら、スマホを開いた。電話帳を押すと1番上に出ているアユムの名前。別れてからも消せていない、アユムの痕跡。
その名前の上で、今、右手の親指が震えている。
押せば、きっと繋がる。
私は息を飲んだ。
気づくと、親指が画面に吸い込まれるように近づいていく。
次の瞬間、プルルルルル…とコール音が鳴った。かけてしまった。
切ることもできず立ち尽くしていると、長いコール音が切れて繋がった。
「……ヒナ?」
昼間と同じ、自分を呼ぶアユムの声。
私は片手を口元に当ておろおろした。
それでも静かに息をついてから、スマホを耳に当てた。
「アユム、ごめんね、突然夜遅くに……」
「どうした」
付き合っていた頃と変わらない優しい声音が、耳の奥に響いた。
「今、ひとり?」
「ああ」
「今日ね、池袋で職場の飲み会があってね……終電に乗り遅れちゃったの。だから迎えに来て欲しいの……」
「はぁ?おまえ、何してんだよ」
呆れて怒る声も懐かしかった。
「ごめん……ダメ……?」
ここぞとばかりに、私は甘ったるい声を出した。
アユムからの返事はない。
「アユムしか頼れる人いないの……お願い」
甘い声でこう言えば、アユムの庇護欲がくすぐられて、断れないことを私は知っている。
ずるい。自分でそう思った。
スマホの向こうから大きなため息が聞こえた。
「……東口にいろよ。すぐ行くから」
心の雨がぴたりとやんだ。
「ありがとう、アユム!」
弾んだ声で言うと、通話が切れた。
私は、両手でスマホを握りしめて、胸にあてた。
嬉しい。家に帰れることじゃなくて、アユムに会えることが嬉しい。
その言葉以外、見つからなかった。




