#01 再会
人生初めての大失恋をした。
3年と5ヶ月…うーん、6ヶ月だったっけ。
そのへんは曖昧だけど、私の心を真っ二つに引き裂いたのはたしかなことだった。
共通の友達カップルの紹介で知り合った5歳上のアユムは、責任感が強くて、結婚願望を持っていた。
そんなアユムの大人の雰囲気にやられつつも、付き合いが結婚に直結する真面目さが、私には少し重かった。
アユムはBMWに乗った現代の王子様で、私のわがままをたくさん叶えてくれた。
デート代は全部アユムに払ってほしいとか、デートは車で迎えに来て、帰りも送ってほしいとか。
最低週2は会いたい、私が寂しいって言ったらすぐ駆けつけてほしい。
会ったらたくさんスキンシップがほしいし、 休日デートは必ずどこか連れて行ってほしい。
誕生日や記念日は絶対に忘れないで。
叩けばいくらでも埃が出るみたいに、私のワガママも次から次へと出てくる。
それでもアユムは、他に目移りなんてしないで言葉と行動で誠実さを示してくれた。
だから、私に夢中なんだなと自惚れて、別れの主導権でさえも私にあると思ってた。
それなのに突然、突き放された。
そんなこと絶対にないと思っていたのに、アユムの方から別れを告げてきた。
「結婚を考えられないなら別れたい」と、まるで結婚に焦る女性のように。
それまでも結婚の話が出るとのらりくらりとかわしてきた私は、やっぱり覚悟が決められず、アユムからの別れを受け入れた。
その夜、アユムを失う怖さに、みっともないくらいひとりで泣いた。
涙の別れから3ヶ月。
ワンクールのドラマの中ではひとつの恋が始まったり終わったりする。
私もいい加減、立ち直らないといけない。
もう、忘れなきゃ…あの人のことを。
店のロゴが入った大きなマグカップにミルクを注ぎながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「桜川さん、それミルク入れすぎじゃない?」
同僚の声にハッとして手元を見ると、少し多めに注いでしまっていた。また、やってしまった。
「あー作り直しだね。ぼーっとしすぎだよ。私、代わるから、レジやって。」
「はい、すみません」
私は小さくため息をついて、カップの中身をシンクに流した。
アユムを忘れられない気持ちも一緒に流せたらいいのに。そんなことを思いながら。
並んでいるお客がいないレジに立つと、何となく店内を見渡した。
休日の昼下がりの店内は老若男女が集い、賑わいを見せていた。談笑する女の子たちやパソコンを広げた人たち、静かに本を読むおじいさん、喋り倒すマダムたちもいれば、ベビーカーをひいたお母さんもいた。
それぞれの日常がそこにあった。
ふと視界の端で、店に入ってきた人を捉え、私はそちらに向いた。
「いらっしゃいま…せ……」
その人物を見て、わかりやすく語尾がしぼんだ。思わず目を見開いてしまう。
「……ヒナ?」
そう言った向こうも同じだった。細いフレームのメガネをかけたアユムの目も、私を見て驚いていた。
たった今、思いを馳せていた人が、目の前にいる。私の体と心はフリーズした。
「アユムくん?知り合い?」
そう言って、アユムの背後から現れた女の人を見て私は我に返った。
スリムで背が高く、センター分けの流れるような漆黒の髪を纏う彼女は、綺麗な顔立ちをした清楚な大人の女性だった。
痩せ型だけどごくごく平均身長で、茶髪をゆるく巻いて、どちらかと言えば可愛い寄りの顔立ちをした私は、海の底へ沈みたくなった。
「あぁ。昔の知り合い」
アユムは彼女としっかりアイコンタクトを取りながら軽い感じで言った。
私と過ごしたつい最近の月日は、アユムの中ではもう「昔」なんだ。私はまだ、つい最近のできごとのように思っているのに。
私はヒステリックになって泣きわめきたい衝動をどうにか抑えて、平静を装った。
「ご注文はお決まりですか?」
「アイスのソイラテ、Sサイズ、お願いします」
彼女は上品な顔を私に向けて丁寧に言ってから、アユムに視線を移した。横顔まで綺麗だった。
「席、探してくるね」
ふんわり笑って店内の奥へと歩いていく。
「アユム、久しぶり。もう新しい彼女?綺麗な人だね」
私は嫌味を添えて言ってやった。
「友達に紹介されて、今日初めて会ったんだ。初デート」
アユムは私と目を合わさずにサラリと言う。
傷口に塩を塗られるみたいに、失恋の傷が痛い。
「そうなんだ。アユム、何飲むの?」
「ああ……アイスコーヒーのM」
アユムは、あの頃と何も変わっていなかった。
背の高いスラリとしたスタイルも、低い声も、少しオールバックにした七三分けの黒髪も、メガネがよく似合う、少しインテリっぽい雰囲気も。
まるで記憶の中からそのまま引きずり出したかのようだった。
そして、シンプルなシャツにラルフローレンのテーラードジャケットをさらっと着こなしている姿は、相変わらず洗練された大人の雰囲気を漂わせていた。
「900円になります」
「前は江古田の店だったよな」
千円札をトレイに置く、その綺麗で長い指先も、あの頃のまま。
「1か月前に石神井の店に異動になったの。人手不足で」
「へぇ。そうなのか」
じゃあこの店はもう避けなきゃな。
アユムはそんなこと一言も言ってもいないのに、そんな声が聞こえた気がした。
「100円のお釣りとなります。ドリンクはあちらのランプの下での受け渡しとなります。ごゆっくりどうぞ」
自分でも呆れるくらい事務的に言って、トレイに100円玉を載せた。アユムはそれをすっと取る。
「じゃあな」
そう言うとアユムは、私を一瞥し、振り返ることなく、少し離れたドリンクの受け渡し場所へ行ってしまった。
その背中を引き止めたかった。
こんな偶然、もうないかもしれない。
神様がくれたワンチャンスなのかもしれない。
無駄にしたくない。
そう思ったその時、アユムの向こうに、手を振る彼女の姿が見えた。
「ねぇ、誰よ、あのインテリ男子。いい男~」
この店に同じ時期に入った藤宮桜が、そばへ寄ってきた。
私の苗字の“桜川”と、自分の名前の“桜”が同じことに「運命を感じるね!」とハイテンション気味に言い、それだけの理由でいつの間にか仲良くなっていた。
「3ヶ月前に別れた元彼」
「え、マジ?気まずー」
桜は同情するように、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ねぇ、円満破局?それとも修羅場?振ったの?振られたの?」
桜のこういう、遠慮なく踏み込んでくるところが私は好き。距離感が近くて、歳も2つ上だからお姉ちゃんみたいだ。
「振られてお皿が飛んだ」
「え!?」
驚く桜を横目に見て、私はクスッと笑った。
「うそ。振られたのはほんとだけど。静かに別れて、ひとりで泣いた」
「若くて可愛いヒナを振るなんて……いい男がすることは違うわ」
そう言われて、アユムの方に目をやった。
ドリンクを持って、彼女の待つ席へ向かい、隣の席へ腰を下ろした。
幸せそうな横顔に、胸の奥が痛み始める。
真っ二つに割れたハートをどうにか縫い合わせたはずなのに、その糸は簡単にほつれてきたみたいだ。
遠くから見るふたりはお似合いで、思わず目を逸らした。
「彼女、美人ねー。ヒナとはちょっとタイプが違う」
桜が私のことを見比べるようにしてそう言うものだから、私はそっぽを向いた。
どうせ私は清楚とは程遠い。
「べつに私だって、アユムみたいなのがタイプなわけじゃないもん」
嘘。どタイプだった。
アユムも本来、ああいう女性がタイプなのかな。落ち着きがあって、きちんとしていて、いかにも良妻賢母になりそうな、そんな女性が。
「拗ねるな拗ねるな。今日の飲み会でパァッとやろうよ」
「飲み会?」
桜の明るい声に救われつつも、私は首を傾げた。
「忘れたの?私たちのちょっと遅れた歓迎。っていっても、来れる人だけで軽くやろ~って」
そう言われて思い出す。何日か前に、気のいい店長がそんなことを言っていたっけ。
「ヒナも、もちろん行くでしょ?」
そう聞かれたと同時に、レジに客足が増えた。
私は即座に向き直り、お客に向かって笑顔を浮かべた。
アユムとの、ティラミスみたいに冷たくてほろ苦い再会なんて、忘れたようにして。




