#14 甘い救い
1時間くらい、ひとりで泣いていたのかもしれない。ひとしきり泣いて落ち着いた頃、人の気配もだいぶ消えていて、向こうに人影が少し見えるくらいだった。
さっきまであんなに綺麗に見えていたイルミネーションが、今はただの電球にしか見えなかった。
私は何がしたいんだろう。
自分との将来を考えてくれているアユムから逃げて、デート相手とアユムを比べて情けなくなって、挙句の果てには、好きになりかけたナンパ男に自分の安っぽさを突きつけられて。
須藤さんが癒してくれるかもしれないなんて、見当違いもいいところだった。
俯いてぼんやりしていると、視界に黒い革靴が映り込んできて、私は顔を上げた。
アユムだった。心配するような表情を浮かべて、少し息を切らしている。
黒いジャケットを着て、マフラーを巻いた品のある姿は、寒い冬の夜にお姫様を探しに来た王子様みたいに見えた。
「アユム……」
私は震える声で名前を呼んで立ち上がり、そのまま抱きついた。
「こわかった……」
「なにしてんだよ、バカ」
アユムは呆れたように静かにそう言って、私の背中に腕を回した。
すっぽりと包み込まれると、懐かしい高揚感が込み上げた。なんて、心地いいんだろう。
冷たい指先でジャケットをギュッと掴んだ。心でもしがみつくみたいにして。
「アユムじゃなきゃいや……アユムがいい……」
「……じゃあなんで、あの時離れたんだよ」
切なさが滲んだ声に、私は黙ってしまった。
何も言えなかった。
アユムがそっと体を離した。
「ヒナ。もう一度、ちゃんと話そう」
アユムの真っ直ぐな眼差しは、棘みたいに胸にチクリと刺さった。私は返事もできず俯いた。
ヒルズ内の地下の駐車場に停められていた車に乗ると、ムスクの香りに混じって、どこか爽やかなシトラスの香りがした。この前、上野でばったり会ったとき、ありささんからふわりと香っていた匂いとよく似ていた。
「もしかして、アユムもデートしてた……?」
私は少し、聞きにくそうに尋ねた。
「あぁ……」
素っ気ない返事に、今更、罪悪感が押し寄せた。
「私、邪魔しちゃった?」
「……理由つけて、切り上げた」
アユムは私をチラリとも見ずに言ってから、エンジンをかけた。
「……ごめん」
謝りながらも、私は嬉しかった。
デートを切り上げてまで、来てくれたことが。
ありささんの顔がふと浮かんだ。彼女の責めるような視線に耐えられず、私は思わず目を逸らした。
車が駐車場を出て、けやき坂に差し掛かると、青白いイルミネーションが車窓の外に流れていく。
アユムのおかげで、ただの電球から、またダイヤモンドの煌めきに変わった。何度観ても綺麗で、無意識にため息が出てしまう。
「綺麗だな」
アユムがポツリと漏らした。
「うん。すごく綺麗……」
くすんだ心にも、この輝きが点っていく気がした。
「……今日のデートの相手、こないだ新宿で会ってた男?」
「え?」
アユムの思いがけない言葉に驚いて、アユムを見た。
片手でハンドルを握るアユムは、前を向いたまま言った。
「2週間前くらいかな。仕事中、車で通りがかったときに見かけたんだ。オープンテラスで会ってるところ」
そういえば、アユムの勤務先は新宿だ。
まさか、二人目のデート相手と会っているところも見られていたなんて、夢にも思わなかった。
それはたったの2週間前のことなのに、遠い昔のように感じた。
「そうだったんだ……。うん、その人……でもキスを拒んだら、捨てられちゃった……」
恥ずかしくて笑ってみせた。本当はすごく心が痛くて、悔しい。
「上野や新宿で男といるヒナを見て、ずっと考えてた。ヒナが何を求めてるのかって。でもわからなかった」
赤信号で車が静かに止まり、アユムが私に視線を向けた。
「俺に、何が足りなかった?教えて」
アユムの真面目な視線に耐えられなくなって、私は視線を逸らして俯いた。
「アユムに足りないものなんてないよ。他に求めてるものもない。デートしてたのは寂しさを埋めたかったからだよ……」
アユムは何も言わなかった。車がまた静かに動き出した。
「アユムこそ。デート相手、私とまるで違う。綺麗で、大人っぽくて、しっかりしてそうで。アユムとお似合いに見えた……」
言っていて虚しくなってきたけど、私の口は止まらなかった。
「アユム、気づいたんじゃない?ああいう大人っぽい人がいいって……」
ああ。と肯定するかもしれないアユムの返事が怖かった。
そう言われたら、この世の終わりのように感じて私はもう生きていけない。
明日から干物みたいにからからに干からびた生活を送る。
「……いや。俺にはヒナのほうが合ってるってはっきりした」
私は思わず顔を上げて、アユムの運転する横顔を見た。
「自分でも思った。しっかりした人の方が、前に進めるんじゃないかって。でも結局、比べるつもりなんてなくても頭のどこかで比べてた。それで気づいた。俺が支えたいのは、ちょっと世間知らずで危なっかしい、甘ったれのヒナだって」
砂糖を加えて泡立てたメレンゲみたいに、ふわふわした気持ちになって、思わず顔が緩んだ。
「嬉しい……」
こぼれるみたいに、言葉が出た。
アユムは少し寂しそうに小さく笑った。
「それだけ?」
「え?」
「そんな軽いこと言ったつもりないんだけどな」
「……どういう意味?」
「嬉しいだけじゃなくてさ……ちゃんと向き合って欲しいんだよ。結婚のこと」
浮かれていた気分が少し重くなる。
アユムから出る“結婚”という言葉にお腹いっぱいの私は、少しぶっきらぼうに答えた。
「別れてるのに?」
「都合いいな。そういう時だけ“別れてる”って言って。自分は付き合ってる時みたいに甘えてくるくせに」
痛いところをつかれて、言葉に詰まった。
アユムの期待に答えようとしたけど、結婚から逃げ回ってる私には無理だった。
猫にワンって鳴けって言っても、無理なのに。
「……結婚に向き合える言葉なんて、なんだかわかんないよ」
私は下を向いて、ブツブツ言った。
アユムはそれ以上は何も言わず、そこで会話が途切れた。
低いエンジン音だけが静かに響いていた。
私のアパートに着くと、アユムは車を路肩に寄せて止めた。
家が並んで立つ住宅地。昼間は人通りがある道も、夜になれば人の気配はなく、頼りない街灯だけが通りを照らしていた。
エンジンを切るとアユムが口を開いた。
「ヒナ。俺たちのこと、もう一度ちゃんと話したい」
結婚も怖いけど、それも怖かった。
ちゃんと話したら、ちゃんと答えを出さなきゃいけなくなりそうで憂鬱だ。
このままなら、まだ一緒にいられるかもしれないのに。
「アユム……」
私はシートベルトを外してアユムの名前を呼ぶと、運転席の方へ身を乗り出し、アユムに体を寄せてキスしようとした。唇が触れそうになった時、アユムが私の二の腕を掴んだ。
「そういうことじゃないだろ」
レンズ越しの鋭い視線にゾクッとした。
私は怯んで、おとなしく助手席のシートに座り直した。
「話したくない。話したら、この関係が壊れちゃうかもしれないもん……」
「身体でつなぎ止める関係にしたいのか?」
「そうじゃないよ……今の関係を壊したくないだけだよ」
「ちゃんとしないと続かないだろ」
私は、不安定なプリンの上に家を建てようとしているみたいだ。そんなの、脆くて崩れるに決まっているのに。アユムは土台作りから完璧で、ちょっと妬ましく思う。
「ちゃんとなんてできないよ。みんながみんな、アユムみたいに結婚に前向きになれるわけじゃないんだよ」
「好きな気持ちで突き動かされてるだけだよ」
アユムのクールな表情が一瞬、照れたように見えた。突然の天気の急変みたいにこっちまで調子が狂う。
「結婚結婚って言うけど、結婚してうまくいかなかったら?」
「他人同士なんだから、最初からうまくいく方が珍しいだろ。お互いに擦り合わせていけばいい」
アユムは簡単に言う。まるで結婚のエキスパートみたいに。
「それでもやっぱり怖いよ……」
「何がそんなに怖い?」
そう聞かれて、喉の奥に言葉が引っかかる。
普段なら意思表示は得意な方なのに、結婚のことになると、なぜかすぐに答えられなかった。
些細なことで、好きな気持ちが消えてしまうんじゃないか。傷つけ合うんじゃないか。
胸の奥で、いろんな不安が糸くずみたいに絡まっている。どこからほどけばいいのか、わからない。
「わかんない……いろいろだよ……」
そう言ってごまかす。それが一番楽だった。
「言ってくれなきゃわからないだろ」
私が黙ったまま俯いていると、アユムはそれでも心で寄り添おうとする。
「ヒナ……」
返事を催促するみたいに、優しい声が呼ぶ。
答える代わりに、私は質問した。
「アユムは、どうしてそんなに結婚したいの。ただ結婚したいだけみたいに聞こえるよ。相手は誰でもいいみたい……」
結婚には後ろ向きなくせして、私は選ばれたい。
スーパーで玉ねぎを選ぶみたいに適当に、“これでいいや”というのはいやだった。
アユムはふっと目を逸らして、少し恥ずかしそうに答えた。
「ヒナのことが大好きで、誰にも取られたくないからだよ」
そんなロマンチックな答え、ずるいと思った。
顔がニヤケそうになるのを必死に我慢する。
「だから、ヒナが男とデートしてるの見て、内心焦ってたよ」
その言葉はお菓子についてきた嬉しいオマケみたいで、子供みたいに無邪気に喜びたくなったけど、俯いたまま顔を緩ませるだけに抑えた。
「そうなんだ……」
「ヒナ。俺のことが好きなら、ちゃんと向き合ってくれないか」
懇願に似たアユムの視線が、ヒリヒリと痛い。
でもこんな人を、二度も逃してはいけない気がした。
「わかった。向き合ってみる……」
そこまで言って、私はアユムに笑顔を向けた。
「アユムが今ここで、キスしてくれたらね」
語尾が弾んだ。
「ふざけるな。しない」
「ふざけてない。つまんない」
投げやりにそっぽを向くと、アユムの指先が私の顎を引き寄せて、次の瞬間、唇を塞がれた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
柔らかい感触と、温もりが唇に伝わった。
「……これで満足?」
アユムがゆっくり唇を離し、至近距離で低い声を落とした。
うっかり、うっとりしてしまったけど、皮肉めいたキスに満足なわけがない。私はアユムを睨んだ。
「満足じゃない。もっと愛情込めて」
アユムは呆れたようにため息をついた。
「そんなことより、ちゃんと向き合えよ」
アユムは長い人差し指で私の頭を小突いた。
関係が壊れないことに、ほっとした。
宿題が出されたみたいで、少しだけ気が重くなったけど。
「覚悟じゃなくていい。このことで話がしたくなったり、心の整理がついたら電話して。ずっと、待ってるから」
その言葉もアユムの表情も、パンケーキみたいに柔らかくて甘かった。
だから独り占めにしたいという欲が膨らんだ。
「ずっと待ってるって、ありささんとデートしながら……?」
一瞬の間でさえも、長く感じた。
「あの人とはもう会わないよ。こんな気持ちで会うの、失礼だろ」
ああもう。両手を上げて喜びたい。
それでも、どうしても気になってしまうことがある。
「ねぇ、私たちのこの関係は何?」
聞きたくてたまらなかった。
別れているのに甘えさせてくれるし、いまだに結婚の事を言われるこの不思議な関係性が気になった。
アユムはどこか不安そうに小さく笑みを浮かべて私の頭にそっと手を置いた。
「……まだ終わってない関係、かな」
アユムの優しい眼差しに照れて、私はアユムの顔が見られなかった。
「まだ終わってない関係……」
それは曖昧で、切なくて、儚くて。
でも口にすると、胸がポッと温かくなった。
「おやすみ、ヒナ」
「うん。おやすみ、アユム」
アユムの大きな手の下で、顔がだらしなくにやけていないか心配だった。
車のドアを開け、外に出る。
冷えた空気がふわりと触れ、60デニールのタイツを履いている足が少し震えた。
心配性のアユムは、私が部屋の前に行くまで見届けてくれる。付き合っていた頃もずっと。
アパートの入口に立って小さく手を振ると、私はオートロックを抜けて部屋がある2階の階段を上った。
部屋のドアの前の通路から下を見ると、車の窓を開けてこちらを見ているアユムがいた。
懐かしい光景に胸が温かくなった。
私がまた手を振ると、アユムは優しくクラクションをひと鳴りさせて行ってしまった。
それも、前と同じままだった。




