#10 愛ってなに
その翌日、バイトが休みだった私は、パート前の桜に電話をかけて、航平くんとのデートのことを一気に話した。
航平くんの顔が可愛かったこと。料理がおいしかったこと。アユムとデート相手に遭遇したこと。アユムと航平くんを比べてしまったこと。航平くんにもう会えないと告げたこと。帰り道に偶然アユムの友達に会ってアユムが泣いていたと聞かされたこと。気づいたら全部話していた。
桜は「やっぱり、あんた、逃した魚は大きいよ」と言っていた。
アユムと別れて3か月半。アユムがいない生活に、未だに慣れない。
アラームが鳴る30分前の、毎朝6時半に、アユムがしてくれていたモーニングコールを、今でも待ってしまっている。
私は、あれが大好きだった。それは私のワガママじゃなくて、アユムが自分からしてくれていたことだった。
夢の中から目覚めて耳の奥に響く第一声が、「おはよう、ねぼすけ」というアユムの心地いい低い声で、私は毎朝、生ぬるいベッドの中でゾクッとしていた。それがなくなった朝は、イチゴが乗ってないケーキと同じで華がなく味気ない。
外資系の会社で働くアユムは友達いわく、「外では合理的、ヒナちゃんには甘い」ということだった。
仕事ではドライなのに、私には優しいそのギャップがたまらなく良かった。
英語が話せて教養もあって、アユムは見た目だけじゃなくて中身まで知的だった。
インテリの欠片もなく、ファッションとスイーツと恋愛のことしか頭にない私と、3年半も円満に続いたのは、きっとアユムのおかげだ。
一見、雰囲気からして釣り合っていなさそうなふたりだったけど、アユムがいつも歩み寄ってくれていた。
デートは、私の好きなカフェやパンケーキのお店を巡ることが多かった。時々、本好きのアユムに合わせて、本屋や図書館に行くこともあったけど、ファッション誌と芸能人の写真集くらいにしか興味のない私は、アユムの邪魔ばかりしていた。
映画を見に行けば、私好みのロマンス映画を選んでくれたり。たまに、アユム好みの難しい映画も見たけど、私は途中でアユムの肩にもたれてよく寝ていた。それで喧嘩したこともあったけど、楽しい3年半だった。
そんなアユムと、ここ数日いろいろあったけど、なるべく考えないようにする。
今日はひとりで、都内でリバイバル上映されている『タイタニック』を観に行くことにした。
不朽の名作。DVDでもう何度も見たことのある、大好きな映画だ。クライマックスでは必ず泣くから、今日は涙活というところかな。
鏡を軽く見て、インディゴのジーパンに、シンプルな白のトップスとピンクベージュのクラシカルなツイードジャケットを合わせる。肩にバッグを引っ掛け、ヒールの高いパンプスを履くと、私は部屋を出た。
映画館は平日でも混んでいて、タイタニックのスクリーンには女性やカップルの客が多かった。
物語は静かに始まり、中盤では固唾を飲んだ。終盤に近付くにつれ、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえてきた。私も、やっぱり涙なしでは見られなかった。
最後、時計台で再会したジャックとローズが手を取り合い、キスをする穏やかなシーンで、私の涙腺は水がたっぷり入ったバケツをひっくり返したみたいに崩壊した。
愛し合うふたりの悲恋。
ジャックとローズはなぜ、出会って3日であそこまで愛し合えたのだろう。逆に、その短い日数こそが恋を盲目にして夢中にさせたのだろうか。
私がアユムと出会った最初の3日間は、ただ浮かれていただけで、ジャックとローズみたいにあんなふうに情熱的ではなかった。ふたりのように生と死が隣合わせなら、もっと深く愛し合えたのかな。
タイタニックと言えば、船の先に立ってローズが両手を広げて、後ろからジャックが愛おしそうにローズを支えるシーンが有名だけど、私のポイントは違った。
沈没しかけているタイタニック号、胸まで水に浸かった船の地下に繋がれたジャックを、斧を持って助けに行く、勇ましいローズの姿を映したあのシーンが大好きで、いつもそこが目に焼き付いてしまう。
ああいうふうに私も、迷わずに誰かを好きになれたらいいのに。ローズのようにただひたすら、好きという気持ちだけで動けたら、もっと幸せになれたのかもしれない。
映画を見終わったあと、近くのカフェに入ってそんなふうに映画の余韻に浸った。
ジャックを想うローズの深い愛情に比べたら、自分のアユムへの想いは、すぐに壊れる柔らかい粘土細工みたいに思えてきた。
涙活をしてすっきりしたはずなのに、恋とは何か、愛とは何かを深く考えすぎた少し重い気持ちで、アパートへ帰った。
ポストを覗くと、一通の手紙が入っていた。
白い封筒。差出人は、アユムを紹介してくれた友達カップルで、どうやら結婚式の招待状らしかった。
そういえば、私とアユムが付き合っていた頃に、「結婚が決まったの!」と声を弾ませて言っていた。
「結婚式挙げるから、絶対ふたりで来てね!」とも言っていた。
まさかこんな未来になっているなんて、その時は思いもしなかった。
部屋に帰るとベッドの縁に座り、少し緊張した指先で招待状を開けた。
入っていたのはただの紙きれなのに、それは友達ふたりの幸せな未来の形で、私にとってはその幸せを見届ける切符のようなものだった。
新郎新婦の顔よりも、アユムの顔が浮かんだ。
アユムは行くのかな……そんな期待みたいな気まずさみたいな気持ちが芽生えた。
色んな意味で、気が重い。
人の幸せを祝うのも、結婚を間近で見るのも、それをアユムと同じ空間で味わうのも。
私は大きなため息をついて、そのままベッドへ倒れ込んだ。




