第9話 霜の夜の焚き火
「今夜、霜が降ります」
朝の空の報告で、私は言った。
ユリウス様のペンが、ぴたりと止まった。
「霜」
「はい。北の山から、冷たい風が降りてきます。雲がなくて、風が止まる。いちばん霜が降りやすい夜です」
「芽は」
「やられます。出たばかりの芽は、霜に弱いので」
台地の麦は、芽を出してまだ十日。
指の長さくらいしかない。
一晩の霜で、全部黒くなってしまう。
ユリウス様の眉間に、深いしわが寄った。
「防げるか」
「やってみます」
私は、ノートを握りしめた。
「霜は、風が止まって、地面の熱が空に逃げると降りるんです。だから、一晩中、ほんの少しだけ風を吹かせ続ければ、霜は降りにくくなります」
「一晩中」
「はい。途中で止めると、そこで降りてしまうので」
「台地で祈るのか」
「畑の近くのほうが、風を細かく動かせます」
ユリウス様は、紙を胸のポケットにしまった。
「私も行く」
「えっ、でも、一晩中ですよ」
「だから行く」
台地の畑のはずれに、小さな丘がある。
日が沈むころ、私とユリウス様は、そこに焚き火を起こした。
ユリウス様が、手際よく薪を組んで、火をつけた。
ぱちぱちと音がして、炎が上がる。
「慣れていらっしゃいますね」
「若いころは、領地の見回りで、よく野営した」
ユリウス様は、毛布を二枚広げた。
一枚を、私の肩にかける。
「祈るときは、これを」
「ありがとうございます」
日が沈むと、空気が一気に冷たくなった。
息が白い。
空には、星がびっしりと出ていた。
雲が一つもない。
霜が降りる夜の空だった。
私は、畑のほうを向いてひざをついた。
手を組む。
――少しだけ、風を。
ほんのわずかでいい。
麦の芽の上を、なでるくらいの風。
ふわ、と。
頬に、かすかな風が当たった。
「吹いた」
「本当か」
「はい。これを、朝まで続けます」
夜が、ゆっくりと過ぎていった。
祈りを途切れさせないように、私は手を組んだまま、ずっと畑のほうを向いていた。
ユリウス様は、焚き火に薪をくべながら、ずっと隣にいた。
真夜中を過ぎたころ。
指先の感覚が、なくなってきた。
まぶたが、重い。
まずい、と思った。
ここで眠ったら、風が止まる。
「何か、話してもいいか」
ユリウス様が、ぽつりと言った。
「え?」
「あなたが眠らないように。祈りの邪魔になるなら、やめる」
「……邪魔じゃないです。お願いします」
ユリウス様は、焚き火を見つめた。
「私が辺境伯を継いだのは、十八のときだ」
「十八」
「父が、急に亡くなった。冬の見回りの途中で、崖から落ちた」
私は、手を組んだまま、ユリウス様の横顔を見た。
炎に照らされた顔は、いつもと同じように怖かった。
でも、その目は、とても遠くを見ていた。
「十八の領主など、誰も信用しない。だから、毎日、領地を見て回った。畑を手伝い、橋を直し、村の者の話を聞いた」
「だから、種まきがお上手なんですね」
「ああ」
ユリウス様は、薪を一本、火に入れた。
「それで、少しずつ、うまくいき始めていた。三年前までは」
三年前。
凶作が始まった年。
「雨が、来なくなった。いや、来すぎる所と、来ない所に分かれた。麦が取れなくなった。一年目は、蔵の蓄えで乗り切った。二年目は、館の物を売った」
「……」
「三年目には、村から人が出ていくようになった。南の町へ。王都へ。ここにいても、食べていけないからだ」
ユリウス様の声は、静かだった。
「出ていく者を、止められなかった。止める理由が、なかった。私には、空のことが何もわからない。来年は大丈夫だ、と言ってやることもできなかった」
焚き火が、ぱちんとはぜた。
「毎朝、空を見上げた。降るのか、降らないのか。わからないまま、一日が始まった。それが三年続いた」
私は、ようやくわかった。
この人が、毎朝五時半から廊下で待っている理由。
空がわからない朝を、三年も過ごしてきたのだ。
「だから、あなたの報告書を読んだときは」
ユリウス様は、言葉を切った。
少し、迷うように黙ってから、続けた。
「この人なら、と思った。十年分の空を、一日も休まずに書いている人なら、と」
「……」
「来てくれて、本当に助かっている」
私は、うつむいた。
目の奥が、熱かった。
誰も読まないと言われた記録を、この人は読んでいた。
一日も休まずに書いたことを、ちゃんと見ていてくれた。
「私も」
声が震えた。
「私も、ここに来られて、よかったです」
ユリウス様は、何も言わなかった。
ただ、焚き火に薪を一本足した。
その手が、少しだけ止まっていた。
それから、どれくらい経っただろう。
空の端が、うっすらと白くなってきた。
もうすぐ、夜明けだ。
あと少し。あと少しだけ、風を。
まぶたが、落ちてくる。
――あと、少し。
手を組んだまま、体が、横に傾いた。
何か温かいものに、頭が当たった。
固くて、温かい。
煙と、石けんの匂い。
「……もう少しだ。日が昇るまで」
すぐ上から、低い声がした。
私は、その声に返事をしようとして。
そのまま、眠ってしまった。
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