第40話 南へ
馬車は、館の前庭から出た。
見送りの人が、思っていたよりずっと多かった。
谷の村の人。西の台地の人。騎士団の人たち。
「お天気さま、ちゃんと帰ってきてね!」
ロイが、雪の上を走って付いてきた。
「帰ってくるよ。種まきの日までに」
「約束だよ!」
ゲルトさんは何も言わずに、帽子を少し持ち上げただけだった。
それで十分だった。
アンネさんは、馬車の座席の下に、包みを三つ押しこんだ。
「干した木の実。ハーゼのおばあさまからです。それから、聖女様の厚い靴下。それから」
三つ目の包みだけ、アンネさんは私の手に直接のせた。
「これは、王都に着いてから開けてください」
「何ですか」
「審問の日に着るものです。北の女は田舎者だなんて、誰にも言わせません」
アンネさんは、目の端を赤くして、扉を閉めた。
十日の旅だった。
追放されたときと、同じ道を、逆に下っていく。
あのときは、一人だった。
窓の外を見ないようにして、膝の上のノートだけ見ていた。
今は、向かいの席に、ユリウス様が座っている。
膝の上には、同じノート。
違うのは、毎朝、馬車の中で報告をすることだった。
「本日の空を、お伝えします。晴れ。昼から南風。峠の雪は、午後にゆるみます」
ユリウス様は、揺れる馬車の中で、律儀に紙に書いた。
字が、少し曲がっていた。
「書かなくても、大丈夫ですよ」
「書く」
それだけ言って、ユリウス様は曲がった字を指でなぞった。
四日目には、大きな川を渡った。
橋の真ん中で、ユリウス様が馬車を止めさせた。
「ここから先は、王家の直轄の土地だ」
北の旗が通るのは、ここまで、という意味だった。
ユリウス様は、それきり何も言わなかった。
でも、その夜から、私より先に眠ることはなくなった。
五日目の昼。
街道沿いの小さな村で、馬を替えることになった。
村の真ん中に、ため池があった。
水が、なみなみとたまっていた。
「北から来なさった馬車ですか」
ため池のそばで、腰の曲がったおじいさんが声をかけてきた。
「冬のあいだに、何度か夜に小雨が降りましてな。秋に涸れかけた池が、このとおりです」
「小雨が」
「北の聖女様が、王都へ雨を送ってなさると噂で聞きました。その途中で、こぼれた分がうちに落ちたんだそうで」
おじいさんは、池を見て笑った。
「こぼれた分で、助かりました。春の田植えができます」
私は、何と言っていいかわからなかった。
あの雲は、王都に届けることしか考えていなかった。
途中の村に落ちる分は、ただの計算のずれだと思っていた。
「あなたが送ったと、言わないのか」
馬車に戻ってから、ユリウス様が言った。
「言ったら、お礼を言われてしまいます」
「言われればいい」
「困ります。顔が熱くなるので」
ユリウス様は、少しのあいだ私を見ていた。
それから、窓の外に目をそらした。
口の端が、ほんの少し上がっていた。
ユリウス様が笑うのを、私はまだ、数えるほどしか見ていない。
その夜は、街道の宿に泊まった。
宿のおかみさんは、帳場で私たちを見比べて、にこにこした。
「お部屋は、ご夫婦で一つでよろしいですね」
「まだだ」
ユリウス様が、すぐに言った。
おかみさんが、目を丸くした。
「春に」
ユリウス様は、それだけ付け足した。
耳が、赤かった。
おかみさんは、私とユリウス様を何度か見比べてから、もっとにこにこした。
「では、お部屋は二つ。隣同士で、ご用意しますね」
部屋に入ってから、私は寝台に座りこんだ。
まだだ。
春に。
ユリウス様は、いつも短い。
短いのに、一つ一つが、あとから効いてくる。
私はノートを開いた。
その日の空の欄に、晴れ、と書く。
南風、と書く。
それから、端のほうに、小さく書いた。
『春に』
書いてから、慌ててインクを指でこすった。
にじんで、余計に目立った。
壁の向こうで、椅子を引く音がした。
ユリウス様も、まだ起きているらしい。
この壁一枚の向こうに、毎朝五時半から廊下で待っている人がいる。
それが、なんだか不思議だった。
窓を開けた。
北の館で嗅いだ南の湿り気は、ここでは、もっとはっきりしていた。
南の空の低いところに、細い雲の筋が、扇のように広がっていた。
渦の雲が生まれる前に、遠くの海から先に届く雲だ。
私は、その筋の数を数えた。
七本。
十年のノートの中で、いちばん多かった年と、同じだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークと、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、とても励みになります。
毎日更新しています。




