第4話 三年ぶりの青空
「ティア様! ティア様、起きてくださいまし!」
アンネさんの声で、目が覚めた。
扉が、どんどん叩かれている。
「は、はい!」
飛び起きて、扉を開ける。
アンネさんが、目を真っ赤にして立っていた。
「窓を。窓を、ご覧ください」
言われるまま、窓のカーテンを開けた。
まぶしかった。
目を細める。
少しずつ、外の景色が見えてくる。
青い。
空が、どこまでも青かった。
雲は、北の山の向こうに、薄く残っているだけ。
丘の下の畑が、朝日を浴びてきらきら光っている。
三日間降り続いた雨のしずくが、全部光っていた。
「晴れた……」
「三年ぶりでございます」
アンネさんが、エプロンで目元を押さえた。
「この丘で、朝から晴れたのは、三年ぶりなんです」
私は、窓枠をぎゅっと握った。
晴れた。
ちゃんと、晴れた。
王都では、晴れても誰も気づかなかった。
晴れの日なんて、待っていれば来るから。
でも、ここでは。
「ティア様、お支度を。旦那様が、表でお待ちです」
「表で?」
「村の者たちが、集まっているんです」
館の前の広場は、人でいっぱいだった。
百人、いや、もっといるかもしれない。
男の人も、女の人も、お年寄りも、子どもも。
みんな、空を見上げていた。
誰も、しゃべっていなかった。
ただ、空を見ていた。
おばあさんが一人、地面にひざをついて、両手を組んでいた。
その隣で、若い男の人が、腕で顔をごしごしこすっていた。
泣いている。
みんな、泣いていた。
「ティア殿」
ユリウス様が、広場の真ん中で振り向いた。
朝日のせいで、怖い顔がいつもより少しだけ柔らかく見えた。
「来てくれ」
私は、人の間を抜けて、ユリウス様の隣に立った。
みんなの目が、いっせいに私を見た。
体が固まる。
王都の大聖堂で、笑われたときのことを思い出した。
「彼女が、天気の聖女だ」
ユリウス様の声が、広場に響いた。
「この空は、彼女が二晩かけて祈ってくれたものだ」
しん、とした。
それから。
「ありがとう」
誰かが言った。
「ありがとう、聖女さま」
「ありがとうございます」
「三年ぶりだ、三年ぶりの青空だ」
声が、どんどん重なっていく。
さっきのおばあさんが、私の手を両手で包んだ。
しわだらけの、かさかさの手だった。
「ありがとう。ありがとうねえ」
私は、何も言えなかった。
喉の奥が、熱くて、苦しかった。
晴れにしただけだ。
天気係の、いつもの仕事だ。
それなのに。
「聖女さまぁぁぁ!」
広場の端から、大きな声がした。
泥だらけの長靴が、人をかき分けて走ってくる。
ロイくんだった。
「降った! 村に、雨が降った!」
ロイくんは、息を切らしながら私の前で止まった。
「夜中に、ざあって降った! 台地に、雨が降ったんだ! 畑の土が、黒くなってる!」
「……本当に?」
「本当だって! ばあちゃんが、外で踊ってた!」
広場が、どっと沸いた。
西の台地に、雨が届いた。
東の谷の雲を、西へ押した。
押した雲が、ちゃんと台地の上で雨を落としてくれたのだ。
「ねえ、聖女さま」
ロイくんが、私の服のすそを引っぱった。
「天気って、どうにかなるんだね」
私は、笑った。
笑ったつもりだった。
なのに、目から勝手に涙がこぼれた。
「……はい。どうにか、なるんです」
広場の人たちが帰ったあと、私はユリウス様と二人で、館の前の階段に座っていた。
空は、まだ青い。
「ティア殿」
「はい」
「頼みがある」
ユリウス様は、まっすぐ前を見たまま言った。
「毎朝、空のことを教えてほしい」
「空のこと、ですか?」
「今日の天気。明日の天気。雨が来るのか、晴れるのか。風は強いのか。霜は降りるのか」
ユリウス様は、膝の上で手を組んだ。
「この三年、私は毎朝、空を見上げることしかできなかった。降るのか、降らないのか。わからないまま、畑に出る者たちを見送ってきた」
「……」
「あなたは、それがわかる」
ユリウス様が、こちらを向いた。
「だから、毎朝聞きたい。あなたの口から」
真剣な目だった。
国の一大事を相談するときの目だった。
天気の話を、こんなに真剣に聞いてくれる人を、私は他に知らない。
「わかりました」
私は、大きくうなずいた。
「毎朝、お伝えします。天気の話なら、いくらでもできます」
「知っている」
ユリウス様が、ほんの少しだけ口の端を上げた。
笑った。
今、たぶん、笑った。
ものすごく小さくて、見間違いかもしれないくらいだったけれど。
「早口になっても、いいですか?」
「むしろ、聞きたい」
その言い方に、私の頬が熱くなった。
むしろ聞きたい、なんて。
天気の話を、むしろ聞きたい、なんて。
この人は、変わっている。
「では、明日の朝から」
「いや」
ユリウス様は立ち上がった。
「今からだ。明日の天気は」
私は、空を見上げた。
北の山の向こうの、薄い雲。
風の匂い。少しだけ冷たい。
「明日も、晴れです」
「そうか」
「でも、夜は冷えます。毛布を一枚増やしたほうがいいです」
「わかった」
ユリウス様は、懐から紙とペンを出して、本当に書き留めた。
『明日・晴れ。夜・冷える。毛布一枚増やす』
角ばった大きな字だった。
この日から、私の新しい仕事が始まった。
毎朝、空の報告をすること。
辺境伯様に、ただ一人。
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