第38話 王都・宰相の机
◆ ◆ ◆
王城の東の塔に、宰相の部屋はあった。
窓は、北向きに一つだけ。
宰相ヴァルターは、その窓を背にして、大きな机に座っていた。
五十をいくつか過ぎた、細い男だった。
白い手袋をはめた指で、紙の束をめくっている。
机の前には、三人が立たされていた。
神官長。
王太子アルベルト。
そして、大聖堂の若い神官。
「これは何だね」
ヴァルターは、紙の束を机に置いた。
「西の貯水池の、水位の記録です」
若い神官が答えた。
「十日前の夜、小雨が降りました。水が、指一本ぶん上がりました」
「北から、雨が送られてきた。そういうことだね」
「はい。天気の聖女様が、季節風に雲を乗せて」
「すばらしい」
ヴァルターは、にこりともせずに言った。
「では、なぜその聖女が、北にいるのかね」
部屋が、静かになった。
「天気の聖女は、大聖堂が見いだし、大聖堂が育てた。十年分の食事も寝床も、王都の税で出している」
ヴァルターは、紙を一枚ずつ指で弾いた。
「一晩の小雨で、王都の貯水池がこれだけ動く。毎晩ならどうなる。王都の水は、二度と涸れない」
「宰相閣下」
神官長が、口を開いた。
「聖女様は、追放されたのです。大聖堂は、それを止めませんでした。今さら」
「追放したのは、殿下だ」
ヴァルターは、アルベルトを見た。
「大聖堂の許しも、私の許しもなく」
アルベルトの顔が、赤くなった。
「あのときは」
「婚約破棄は、取り消せません。殿下が紙に書いて、広場で読み上げてしまわれた」
ヴァルターは、ため息をついた。
「だが、追放は別だ。天気の聖女は、大聖堂の者だ。大聖堂の者が、勝手に辺境伯と婚約してよいという決まりはない」
「決まりに、ない?」
若い神官が、思わず声を上げた。
「聖女が嫁いではいけないという決まりも、ないはずです」
「ないなら、作ればいい」
ヴァルターは、さらりと言った。
「春分の日に、審問を開く。天気の聖女を呼び出し、婚約が大聖堂の許しを得ていないことを確かめる。そして、王都に戻ってもらう」
「戻られません」
若い神官は言った。
声が、震えていた。
「聖女様は、北の空を、自分で選ばれたんです。私は、この目で」
「君の目には、聞いていない」
ヴァルターは、若い神官のほうを見もしなかった。
「辺境伯も、どうせ付いてくるだろう。北の田舎者が、王都の審問で何を言えるか。見ものだね」
アルベルトが、低い声で言った。
「宰相。あの娘は戻らないぞ。私が行っても、戻らなかった」
「殿下は、頼み方を間違えたのです」
ヴァルターは、引き出しから、赤い封蝋を取り出した。
「頼むのではない。決まりで、呼ぶのです」
それから、窓のほうへ、ちらりと目をやった。
「春分の日は、ちょうど王都の花祭りだ。十年、毎年晴れていた祭りだね」
ヴァルターは、薄く笑った。
「民は、天気の聖女を覚えている。祭りの朝、審問の広場に聖女が立てば、民は、聖女が王都に帰ってきたと思う。それで片がつく」
アルベルトは、何か言おうとして、口を閉じた。
神官長は、うつむいたままだった。
◆ ◆ ◆
宰相の部屋を出てから、若い神官は、廊下の窓に駆け寄った。
ティア様に教わったとおり、南の空を見る。
雲の形。風の向き。鳥の飛び方。
それから、抱えていた記録帳を開いた。
去年、おととし、その前。
春分のページだけを、十年分、さかのぼってめくっていく。
指が、止まった。
十年のうち、三回。
春分の前後に、同じ書きこみがあった。
『南の海に、渦の雲。大嵐のおそれ。三晩かけて、東へずらす』
小さな字だった。
報告の欄ではなく、ページの端に、走り書きで。
若い神官は、ほかの年の春分も、もう一度めくった。
花祭りの日の欄には、毎年、同じ一言しか書かれていなかった。
『晴れ』
三回とも、王都に来るはずだった春の大嵐を、あの人は、誰にも言わずに、三晩かけてずらしていた。
神官たちは、誰もそれを知らなかった。
宰相も、王太子も、神官長も。
自分も、今の今まで、知らなかった。
若い神官は、窓の外を見た。
南の空は、まだ冬の色をしていた。
今年の春分まで、あと三か月。
南の海に、もし今年も渦の雲が生まれたら。
ずらせる人は、王都に一人もいない。
若い神官は、記録帳を胸に抱えて、廊下を走り出した。
書庫に、ペンとインクがある。
北へ、もう一通、手紙を書かなければならなかった。
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