第36話 七日目の夜
三晩目も、四晩目も、ふたはかかった。
でも、毎晩、少しずつ薄くなった。
雲の種になる霧が、南の谷間に、もうほとんど残っていなかった。
五晩目。
私は、遠くの湖から、湿り気を少しずつ引いてきた。
一晩かけて、やっと、丘の上の分だけ。
朝になると、手が震えて、スープの器が持てなかった。
アンネさんが、黙って、さじで飲ませてくれた。
昼のあいだは、眠った。
一度だけ、昼過ぎに目を開けたら、枕元に小さな布袋が置いてあった。
中には、干した木の実が少し。
袋には、たどたどしい字で書いてあった。
『ハーゼのばあより。せいじょさまへ。たべてください』
峠から、そりで下りてきたおばあさんだった。
熱は、もう下がったと聞いていた。
私は、木の実を一つだけ口に入れて、また眠った。
甘かった。
夕方に起きて、また塔へ上る。
大納屋の前を通ると、谷の村の子どもたちが、窓から手を振った。
西の台地の村の人たちも、念のため丘に上ってきていて、ロイもその中にいた。
「お天気さま!」
ロイは、窓から身を乗り出して叫んだ。
「今夜も、ふたして!」
「するよ」
私は、手を振り返した。
ちゃんと笑えていたかは、わからない。
六晩目は、明け方の少し前に、ふたの東の端が、めくれかけた。
必死で、引き戻した。
戻せたときには、東の畑が半分だけ白くなっていた。
人のいない場所だった。
それでも、悔しかった。
そして、七晩目。
日が沈んだとき、私は、自分の力がもうほとんど残っていないのがわかった。
組んだ指の中が、空っぽだった。
涸れかけた井戸の底を、桶でこすっているような感じがした。
霧を集める。
ふくらませる。
広げる。
いつもなら一刻でできることに、三刻かかった。
ふたは、かかった。
でも、薄い。
少しでも気を抜いたら、破れる。
夜中。
窓の外が、急に明るくなった。
雪の照り返しではない。
オレンジ色の光が、塔の下で揺れていた。
窓から見下ろして、私は息をのんだ。
塔のまわりに、火が焚かれていた。
一つや二つではない。
十も、二十も。
その火のまわりに、人がいた。
大納屋にいたはずの、谷の村の人たち。
モルン村の村長さんが、薪を抱えていた。
ゲルトさんが、火に枝をくべていた。
ロイが、小さな手で、炭を運んでいた。
「なにを……」
「火で、下から空気を温めとるんです」
階段の上から、オスカーさんの声がした。
「モルンの村長が言い出しましてな。ふたの下が少しでも温かければ、聖女様の分が軽くなるんじゃないかと」
学者が考えるような理屈ではなかった。
でも、本当に、少しだけ軽くなった気がした。
塔の下から、声が上がってきた。
「聖女様、薪はまだ山ほどありますぞ!」
「七日分、ためといたからな!」
私は、うまく返事ができなかった。
目の前が、にじんでいた。
足音がして、ユリウス様が隣に座った。
この七晩、毎晩、そうしてくれていた。
でも今夜は、手に私のノートを持っていた。
「ティア」
「はい」
「今夜の空を、伝える」
私は、思わずユリウス様を見た。
ユリウス様は、窓の外を見ていた。
真顔だった。
毎朝、廊下で私の報告を聞くときと、同じ顔だった。
「雲は、丘の上に一枚。真ん中は厚いが、東の端が薄い」
ユリウス様は、ノートのページをめくった。
私が、十年かけて書いてきたページだった。
「風は北から、弱い。夜明けの一刻前に、いちばん冷える。そこを越えれば、日が出る」
「どうして、それを」
「五か月、毎朝聞いていた」
ユリウス様は、ノートを閉じた。
「それに、あなたのノートは全部読んだ。書き方は、覚えた」
私は、ユリウス様の横顔を見ていた。
耳当ての下から、耳の先が、赤くのぞいていた。
ずっと冷たい塔にいるのだから、当たり前だ。
私は、そう思うことにした。
「東の端だな」
「はい」
私は、残っていた力を、東の端に寄せた。
薄いところを、つくろう。
下の火が、ぱちぱちと鳴っていた。
「夜明けまで、あと二刻」
しばらくして、ユリウス様が言った。
「あと一刻」
その声だけを、頼りにした。
夜明けの一刻前。
ユリウス様の言ったとおり、空気が、ぐっと冷えた。
ふたが、きしんだ気がした。
塔の下で、誰かが叫んだ。
「薪、全部くべろ!」
火が、高く上がった。
私は、組んだ指をほどかなかった。
ほどけなかった、のかもしれない。
北の山の向こうが、少しずつ白くなっていく。
その白が、金色に変わった。
「朝だ」
ユリウス様が、小さく言った。
その声を聞いたところで、私の記憶は、ぷつりと切れている。
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