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婚約破棄された聖女ですが、私の祈りは「天気」に効くだけです。……え、辺境では大事なんですか?  作者: 雫 くずし


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第35話 峠の村へ

「煙が、上がっていません」


私が言い終わる前に、ユリウス様はもう、塔の階段を下りかけていた。


「オスカー」


下の踊り場で、騎士団長のオスカーさんが待っていた。


「そりを四台。寒さに強い馬を八頭。毛布と、薪と、温めた石を積めるだけ」


「旦那様が、行かれるんですか」


「私が行く」


オスカーさんは、何か言いかけて、やめた。


止めても無駄だと、知っている顔だった。


私は、塔の窓に戻った。


峠のほうの空を見る。


北の山の肩に、灰色の雲が、ひと筋かかっていた。


さっきまでは、なかった雲だ。


「ユリウス様!」


階段の下に向かって、私は叫んだ。


「昼前から、峠に雪が来ます!」


ユリウス様が、階段を駆け上がってきた。


「どのくらいだ」


「夕方までに、膝まで。道が、わからなくなります」


峠への道は、細い。


片側は崖だった。


雪で道の端が見えなくなったら、そりごと落ちる。


ユリウス様は、黙って窓の外を見た。


それから、私を見た。


「止められるか」


「全部は、無理です」


私は、ノートを開いた。


指がかじかんで、ページがうまくめくれない。


手袋の先から出た指で、なんとか開いた。


「でも、道の上だけなら。雲を、道の両側に分けます。道の上にだけ、雪が落ちないように」


「どのくらい、もつ」


「半日です」


私は、正直に言った。


「夜には、丘にふたをかけないといけません。昼の間ずっと祈ったら、夜の分の力が残るかどうか、わかりません」


「では、半日で戻る」


ユリウス様は、すぐに言った。


「日が沈む前に、ハーゼの者を全員連れて、ここへ戻る」


「約束、ですか」


「約束だ」


ユリウス様は、一度だけ、手袋の上から私の手を握った。


すぐに離して、階段を下りていった。


耳が赤いかどうか、見る暇もなかった。


半刻後。


館の門から、そりが四台、出ていった。


先頭の馬の上に、黒い外套が見えた。


私は、手を組んだ。


峠の雲が、ゆっくりと谷へ下りてくる。


白いものが、ちらつき始めた。


道の上の雲だけを、指先でつまむようにして、左右へ寄せる。


雪は、道の両側に積もっていった。


道の真ん中にだけ、茶色い土が細く残る。


一本の線になって、峠まで続いていた。


昼になった。


アンネさんが、塔にスープを持ってきてくれた。


「手は組んだままでいいですよ。私が、口まで運びますから」


「すみません」


「謝るところじゃありませんよ」


アンネさんは、さじを運びながら、峠のほうを見た。


「旦那様のおじい様はね、五十年前、峠まで行けなかったんですよ」


「え?」


「雪で、道がわからなくなって。三日目に出て、途中で引き返したそうです。あの帳面には、書いてないでしょうけど」


『わしは、何もできなんだ』


あの最後の一行の重さが、少しだけ、わかった気がした。


「今日の旦那様は、道がわかります」


アンネさんは言った。


「聖女様が、道を描いてくださってるから」


昼過ぎ、峠の上で、赤い布が振られた。


着いた、という合図だった。


私は、息を吐いた。


でも、手はほどかなかった。


帰り道が、まだある。


日が、西へ傾いていった。


雲を分ける力が、少しずつ細くなっていく。


道の真ん中の茶色い線が、ところどころ、白く消えかけた。


「まだ、だめ」


私は、自分に言った。


組んだ指に、力をこめる。


手袋の毛糸が、指に食いこんだ。


夕方。


北の山に、日がかかった。


峠の道を、黒い点の列が下りてくる。


一つ、二つ、三つ、四つ。


そりが、四台。


その横を、馬が何頭も。


先頭が丘のふもとに着いたとき、日が、山の向こうに落ちた。


空気が、また変わった。


私は、道の上の雲を放した。


雪が、どっと道に降りた。


すぐに、丘の上へ雲を集め直す。


ふくらませて、広げる。


ふたを、かぶせる。


膝が、がくんと折れた。


床に手をついたまま、私は祈り続けた。


塔の階段を、誰かが駆け上がってくる音がした。


「ティア」


ユリウス様だった。


外套が、真っ白だった。


眉にまで、霜がついていた。


「全員いる。三十一人。ばあさまも。騎士も」


「煙は、どうして」


「夜中の風で、煙突に雪が詰まっていた。火が消えて、一軒に集まって震えていた。……生きていた」


ユリウス様は、私の横に膝をついた。


「道が、ずっと見えていた。一度も、迷わなかった」


私は、うなずくことしかできなかった。


声を出したら、ふたが揺れそうだった。


ユリウス様は、何も言わずに外套を脱いで、私の肩にかけた。


表は雪で冷たかったのに、内側は、温かかった。


その夜も、ふたは、ちゃんとかかった。


でも、いつもより、ずっと重かった。


これで、二晩。


あと、五晩。


私の手は、明け方まで、ほどけなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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